張允は蔡瑁や蔡氏に近しい人間であり、劉表の後継者として劉琮が立つ様に動いた人物でもあります。
三國志演義では、周瑜の連環の計の前に命を落とす事になりますが、史実では張允が赤壁の戦いに参加していた記録がありません。
ただし、張允が劉琮を劉表の後継者にする為に、暗躍していたのは事実なのでしょう。
張允は劉琮を後継者にする為に、蔡瑁と共に理由を付けて、劉琦の劉表への病気見舞いを阻止した話もあります。
それを考えれば、張允は権力欲が強かったとも思われ決して「情」に生きる様な人ではなかったはずです。
人間的にも張允は「出来た人」には感じません。
今回は劉表配下の張允を解説します。
尚、呉の孫権に仕えた張温の父親の名前も張允ですが、同姓同名の人物なので注意してください。
劉琮を後継者に擁立
張允は劉表の配下であり、劉表の子の中では、劉琮にを支持した人物です。
実際に、正史三国志の劉表伝には下記の記述が存在します。
「劉表とその妻(蔡氏)は、年下の子である劉琮を可愛がり、後継者にしたいと考えた。
蔡瑁と張允が、これを後押しした」
この記述から、張允は劉琮を後継者にする為に、史実でも動いていた事は明らかです。
この時に、蔡氏、蔡瑁、張允の劉琦に対する讒言が酷かったせいか、劉琦自身も襄陽を離れ、黄祖の後任となり江夏太守として赴任しました。
劉琦の江夏太守就任は、諸葛亮のアドバイスがあったともされていますが、正史三国志には張允や蔡瑁が強く劉琮を推した事で、劉琮が身を引き江夏に行ったと見られる記述も存在します。
張允らは、上手く劉琮を外に出す事に成功し、劉琮を劉表の後継者とするのに、大きく前進したとも言えるでしょう。
面会謝絶
典略によれば、劉表は西暦208年に病気に掛かり病が重たくなりますが、長子である劉琦が江夏から劉表の病気見舞いに来たわけです。
劉琦は「孝」の精神に溢れた人物でした。
この時に、張允や蔡瑁は病床の劉表が劉琦を見て、気が変わり後継者を劉琦に指名する事を畏れます。
張允と蔡瑁は、劉琦がやってくると次の様に述べました。
張允・蔡瑁「劉表様はあなた(劉琦)に江夏の守備を任せ東方への固めとしたのです。
江夏太守の任務は極めて重要であるにも関わらず、あなたは軍勢を指揮する事も忘れ、ここまで来てしまいました。
この事を知ったら劉表様は怒るに違いありません。
親の気分を害し、病気を悪化させるのは「孝」の精神に反するのではないでしょうか」
張允と蔡瑁は、理由を付けて劉琦を劉表に合わせる事をしなかったわけです。
張允や蔡瑁が劉表に合わせる気がない事を知った劉琦は、涙を流し去った話があります。
この話から張允や蔡瑁は、何としても劉琮を劉表の後継者にするつもりだった事は明らかでしょう。
ただし、これが張允の最後の記述であり、その後の張允がどの様になったのかは不明です。
張允の狙い通りに劉琮は後継者となりますが、劉琮は傅巽、蒯越、王粲らの説得により、曹操に降伏しました。
張允がこの後に、どの様になったのかは不明ですが、劉表の臣下である韓嵩、蒯越、鄧義、文聘と重用された者が多く、同じように張允も重用された様に感じています。
因みに、史実では劉琮にも曹操は配慮し、本人の希望通り青州刺史に任命し重用しました。
三國志演義の張允
明代に羅貫中が書いた「小説・三国志演義」にも、張允は登場します。
三國志演義では張允は蔡瑁の甥という設定になっていますが、史実でも張允は蔡瑁や蔡氏に近しい人間である事に疑いはなく、史実の可能性も十分にあるでしょう。
正史三国志と同様に、張允は劉琮を後継者にする為に、動く事になります。
劉琮は劉表の後継者になりますが、曹操に降伏した後に、于禁に殺されてしまうという史実にはない設定が追加されています。
しかし、蔡瑁や張允は曹操軍の水軍の将となり重用されました。
呉の大都督である周瑜は水軍を扱うのに慣れている張允や蔡瑁を危惧し、蔣幹を上手く利用し張允と蔡瑁を曹操に処刑させています。
張允や蔡瑁は三国志演義では、周瑜の連環の計の一環として命を落とした事になるでしょう。
ただし、これらの記述は、正史三国志に赤壁の戦いで張允が参戦した記録もなく、羅貫中の想像上の賜物だとも言えます。
張允の能力値
三国志14 | 統率73 | 武力68 | 知力42 | 政治56 | 魅力49 |