張炯は正史三国志に登場する人物であり、自説を主張し袁術が皇帝となった逸話があります。
袁術は過去に皇帝になろうとした時は、閻象に諫められて断念しましたが、張炯が唱えた説により皇帝の即位を決めました。
張炯は皇帝になりたがっていた袁術を、後押しした人物だとも言えるでしょう。
ただし、袁術が皇帝を名乗るのは、余りにも早すぎたとも考えられ、僅か2年で袁術が建てた仲王朝は終焉を迎えました。
ある意味、張炯は袁術を崖から突き落とした人物だとも言えます。
皇帝になりたい袁術
袁紹が劉虞を皇帝に擁立しようとした事がありましたが、この時は袁術は反対しました。
しかし、袁術では本心では自身が皇帝になりたいと考えていたはずです。
西暦195年に献帝が李傕と郭汜に、苦しめられている事を知った袁術は、皇帝を名乗ろうとします。
この時は主簿の閻象が殷の紂王と周の文王を例に出し諫めた事で、袁術は不機嫌になりながらも皇帝即位を断念しています。
閻象が袁術を諫めた時に、張炯がどの様な立場だったのかは不明ですが、閻象の意見に対し反論は出来なかったのでしょう。
しかし、袁術は皇帝即位を諦めたわけではなく、後推し出来る材料が欲しかった様に思います。
こうした状況の中で、張炯が袁術の皇帝即位を後押しする様な説を見出す事となります。
自説を唱える
正史三国志の袁術伝に張炯に関する次の記述が存在します。
※袁術伝の記述
建安二年(197年)天の瑞兆が下ったとされる河内の張炯の説を採用し、皇帝を僭称した。
この記述を見ると、張炯の説を採用し袁術が皇帝に即位した事が分かります。
これだけを見ても、張炯が袁術の皇帝即位に大きく関わったのは言うまでもないでしょう。
しかし、陳寿が書いた正史三国志では書き方が荒く、張炯がどの様な説を唱えたのかが分かりません。
張炯の説に関して詳しいのが、正史三国志の注釈・典略となります。
五行説に合致している!?
典略には、次の記述が存在します。
袁術の袁氏は姓が陳から出ており、陳は瞬の子孫である。
土が火を受け継ぐ事になり、五行の巡り合わせに適っている。
典略には張炯が述べたとは記載がありませんが、正史三国志との整合性を考えると、上記の説を述べたのは張炯だったはずです。
張炯は五行説に従い、火徳を持った漢が土徳を持った袁氏に取って代わると考えたのでしょう。
因みに、瞬は伝説上の帝王であり三皇五帝の最後の帝王となります。
張炯は袁氏を陳だと言っていますが、戦国七雄の田斉なども元は陳の出身となります。
しかし、五行説では諸子百家やそれ以降の学者により、解釈が違っていたりする場合もあり、張炯が唱えた説は無理やり感もあると言えます。
当塗高
張炯の説では予言書に関しても、触れており典略には次の記述が存在します。
※典略の記述
予言書に「漢に代わるものは当塗高である」とあり、自分の名と字が該当すると考えた。
そこで称号を立てて仲氏とした。
張炯は袁術に予言書の「漢に代わる者である当塗高」こそが袁術だと考えたのでしょう
当塗高は「塗(みち)にあたり高くそびえるもの」の意味であり、袁術の名である「述」と字の「公路」は共に「みち」の意味があるとしました。
これにより張炯は予言書に「漢に代わる者は袁術だ」と書かれていると述べたのでしょう。
袁術は皇帝になりたがっていたわけであり、張炯の説に従い仲王朝を開いたわけです。
尚、三国志では曹丕、劉備、孫権が皇帝になっていますが、この時も何らかの吉兆が出た逸話があり、吉兆と言うのもは権力者が探せば、誰かが説を唱えてくれるものなのかも知れません。
ただし、張炯の説は間違っていた様であり、袁術は呂布や曹操に敗れ、皇帝の位を袁紹に引き渡して袁譚と合流しようとしますが、西暦199年に病死しました。
張炯の説は間違っていたとも言えるでしょう。
ただし、皇帝になりたがっていたのは袁術であり、袁術の願いを叶えたのが張炯だったとも言えます。
尚、張炯はこの話以外に逸話がなく、袁術が亡くなった時点で、どの様な状態になっていたのかも不明です。
余談ですが、蜀の周舒や杜瓊などは「当塗高」の正体を魏だとしています。
献帝が禅譲により、曹丕が皇帝に即位した事を考えれば、当塗高の正体は魏と言う事になるのでしょう。