前漢

劉備の先祖・中山靖王劉勝ってどんな人?

2021年4月12日

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宮下悠史

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三国志ファンであれば劉備玄徳を知らない人はいないでしょう。

劉備は中山靖王劉勝の末裔を名乗っているわけです。

中山靖王劉勝の名前の感じからして、聖人君子的なイメージがあるのではないでしょうか?

調べてみると、聖人君子とは程遠い人物でした・・。

というか、普通で考えたらいくら王族の子孫とはいえ、こんな人の子孫を名乗りたくない!と思える人もいるのではないかとすら思ったほどです。

ちなみに、中山靖王劉勝は、子供を120人も作ったともされている人物です。

この事からも、中山靖王劉勝の異常ぶりが分かるはずです。

尚、中山靖王劉勝は劉邦の曾孫にあたります。

中山靖王劉勝は聖人君子ではない

中山靖王劉勝ですが、残念ながら聖人君子とはかけ離れたような人物です。

劉邦が建国した漢王朝の第6代皇帝である景帝の子として産まれています。

景帝の子と言う事は武帝の弟であり中山国に封じられた為、中山王を名乗っているわけです。

景帝の子供は劉撤が武帝として第8代皇帝になりましたが、他の子は全員が王に封じられています。

劉勝がどのような人物だったかと言えば、音楽と女色を好んだ人物だったようです。

音楽などを好むと考えると、教養が高い人物なのか?とか、芸術肌タイプか学者のような人物を想像するかも知れません。

しかし、実際には音楽と女色を楽しむだけの遊び人だったようです。

三国志で言えば、蜀の劉禅や、統一後の晋の司馬炎のような人物なのかな?と思ってしまうような人物です。

劉勝の兄である、劉彭祖との逸話が、史記の五宗世家に残っているので紹介します。

劉勝「兄上(劉彭祖)は、酷吏になりかわって知事になっているようですが、王とは、毎日音楽を聴き女色を楽しむものではありませんか」

これに対して、劉彭祖は呆れてしまったのか次のように返しています。

劉彭祖「中山王劉勝は、天子(漢の武帝)を助けずに、日々淫逸に明け暮れていて、百姓を手なずける事をしない。何をもって藩臣と言えるであろうか」

これを見る限りでは、劉勝は日本でいうバカ殿みたいな感じだったのでしょう。

尚、兄である武帝が即位すると中央集権化を加速させるような政策を取ったわけです。

これにより劉勝をはじめとする諸侯王は権力を削がれていく事になります。

こうなると劉勝の生活も危機に感じたのか、劉勝が兄である武帝に泣きついた話も残っています。

武帝の時代は、衛青や霍去病・李広などの活躍により、匈奴と立場が逆転した時代でもあります。

巨額な費用が掛かる遠征をするには、文帝と景帝時代の「文景の治」だけでは費用が賄いきれなかったのでしょう。

尚、冒頓単于が亡くなってからは匈奴は停滞し、武帝の頃から弱体化する様になります。

子供を120人以上も作る

中山靖王劉勝ですが、記録によると子供を120人以上も設けたとされています。

異常なほどの子福者ぶりだったわけです。

子供を120人も作ったと言う人を未だに見た事がありません。

封神演義などでは、周の文王が子供を100人作ると、よい事があると言われていて作った話はありますが、それは史実ではないと考えられます。

劉勝の場合は、孫も入れた数だとの説もありますが、120人以上の子供を作るなど異常な事にも感じました。

これが本当だとすれば、毎日、政務も見ずに女色に耽っていたのが本当のようにも感じるわけです。

ちなみに、劉勝の120人の子供の中に「劉貞」という人物がいて、劉貞が劉備の先祖になっているとされています。

劉貞は漢書の「王子候表」に【陸城候貞】の名前があるので、王になる事はできませんでしたが、候になる事は出来たようです。

ただし、劉貞は漢の中央政府に対して税金をちゃんと納めなかったらしく、候の身分を剥奪されています。

豪族になったという話もありますが、劉貞の子孫はこの辺りから庶民となり落ちぶれて行ったのかも知れません。

劉備は本当に中山靖王劉勝の子孫なのか?

劉備が本当に中山靖王劉勝の子孫なのかですが、もちろん真相は分かりません。

しかし、もしかして劉備の家では代々「中山靖王劉勝」の子孫と言い伝えられてきた可能性もあるでしょう。

ただし、劉備の性格は適当な部分もかなり多く見受けられます。

張純の乱では死んだふりをして、褒美だけは貰うなどの事も行っているわけです。

それを考えると自分から勝手に「中山靖王劉勝の子孫」を名乗った可能性もあるでしょう。

自分の姓が皇帝の姓と同じことを利用し、箔をつけるために勝手に名乗っている事も考えられます。

劉備の性格で考えれば「劉勝には子供が多かったから、自分が末裔を名乗っても真相は分からないだろう」と考えた可能性もあるでしょう。

むしろ、自分から勝手に中山靖王劉勝の末裔を名乗ってしまった説の方が信憑性があるようにも感じます。

ただし、劉備の家は父親の劉弘は早くに亡くなりましたが、劉備の祖父である劉雄は孝廉にも推挙された凄い人であり、本当に王室と関わっていても不思議ではないと感じる部分もあります。

中山靖王劉勝の墓が見つかった

1968年に河北省満城県で、中山靖王劉勝のお墓が見つかった事で一躍話題になりました。

王族のお墓などは、大半は盗掘されてしまうのですが、盗掘がされていない状態で見つかったわけです。

人口ではなく、自然を利用したお墓だった為に盗掘されずに済んだとも言われています。

もちろん、2000年以上も前の人になるので、骨も灰になってしまっていました。

しかし、着せてあったと思われる玉衣が残っていて、全長が188cmもあったとされています。

そのため、中山靖王劉勝は当時としては、かなり身長が高かったのではないか?との見方が広まっています。

ただし、中山靖王劉勝の陵墓の中を見ると、いつでも宴会が開ける様な準備がしてあったそうです。

司馬遷が書いた史記にある中山靖王劉勝が女色と宴を好んだのは、本当の事だったのか!と益々信憑性が高くなってきたわけです。

それか、宴会の準備でもしておけば、中山靖王劉勝が宴会の為に生き返る?ともで思ったんでしょうかね・・・。

中山靖王劉勝のその他の兄弟

中山靖王劉勝ばかりが目立っていますが、景帝の子では他にも重要な人物がいます。

劉勝の兄弟で、劉発という人物がいますが、劉発の子孫が後漢を建国した光武帝劉秀の家系です。

さらに、三国志で有名な劉焉劉璋の先祖が景帝の第4子である劉余と言う事になっています。

それを考えると劉璋が劉備の事を「劉氏が力を合わせて・・・(劉備に裏切られるが・・)」と言ったのも分かるような気がします。

仕えるなら中山靖王劉勝が良いと思った

自分が使えるのであれば、太平の世であれば中山靖王劉勝がいいと思いました。

こういう人は変に野望もなく、自分が楽しく遊べればそれでいいと考えている節があるからです。

下手にバリバリやってしまうような主君に仕えるよりは、中山靖王劉勝のような人の方が使えやすい様に思うわけです。

実際に、資料が少ないのでどういう人なのかは深く分かりませんが、酷吏のようなパワハラ上司に仕えるよりはマシかなと思った次第です。

中山靖王劉勝と兄である趙王彭祖のエピソードを見ると、劉勝は遊び人であり劉彭祖は立派な人物にも感じます。

しかし、劉彭祖は詭弁を使い酷吏を重用し人々を陥れた話しもあります。

中山靖王劉勝は名君とは言えませんが邪気は無い人物にも感じるわけです。

それを考えると、劉彭祖よりは劉勝に仕えた方がマシだとも感じます。

流石に、劉勝が皇帝になってしまったら、三国志の蜀の劉禅、呉の孫晧、周の幽王胡亥のように漢王朝も滅亡してしまったのかも知れません。

子供の多さと女性好きであれば、統一後の司馬炎の様な人物になった可能性もあるのかも知れませんが・・。

劉勝は実は賢かった?

余り聞いた事がありませんが、劉勝は賢い人物だった説もこれから出て来るかも知れません。

そもそも、劉勝は注目されるような人物ではないので、こういう説は出てこない可能性も高いですが・・・。

政局が乱れているような時期だと、有力者は暗殺されてしまう場合もあるわけです。

漢の呂后が権力を握った時は、陳平などは酒ばかり飲んで無能な振りをして権力欲を見せませんでした。

さらに、呂后の言いなりになっています。

しかし、呂后が無くなると周勃と協力して政権を劉氏の元に返しています。

春秋戦国時代の楚の荘王は3年間遊び呆けていて、忠臣と佞臣を見極めた話もあるわけです。

同じことを劉勝が考えていた可能性もあると言う事です。

漢の武帝は、派手好きで海外遠征を好んで実行していますが、失敗して他の人物に求心力が移れば放ってはおけないでしょう。

兄の疑心暗鬼を交わすために、バカな振りをして酒と女を楽しんでいた可能性も考えられます。

実際に劉勝の兄である漢の武帝は些細な事でも、臣下を処刑した記録が多くあります。

その為か司馬遷も史記の大部分を出処進退の事を掲載している様にも見受けられます。

もしくは、最初は演技でやっていたのが、いつしか本気での遊びになってしまった可能性もありますが・・・。

これに関しては、考えすぎかもしれませんが・・。

尚、劉備は中山靖王劉勝の子孫を名乗っていますが、言った途端に「あ~あの酔っぱらいの女好きの男ね・・。」と逆に評価が下がる事はなかったのでしょうか?

しかし、様々な群雄と会った時に名乗っても、呆れられる事はなかったようなので、それを考えれば皇族の血を引いているというのは大きかったのでしょう。

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