名前 | 宇都宮氏綱 |
生没年 | 1326年ー1370年 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:宇都宮公綱 母:千葉宗胤の娘 配偶者:斯波高経の娘 |
兄弟:城井家綱、大掾重幹の妻 子:基綱、氏広、今泉元朝の妻 | |
年表 | 1352年 越後・上野守護となる |
1363年 岩殿山合戦 | |
1368年 平一揆の乱 | |
コメント | 宇都宮氏の全盛期となるも10年ほどで挫折 |
宇都宮氏綱は下野宇都宮氏の第十代の当主となります。
父親の宇都宮公綱は南朝を支持しましたが、宇都宮氏綱は芳賀禅可らと共に北朝を支持する事になります。
観応の擾乱で功績があり、戦後の薩埵山体制では越後・上野の守護となるなど、宇都宮氏の全盛期を築き上げる事に成功しました。
しかし、足利尊氏が亡くなると鎌倉公方の足利基氏は上杉憲顕を重用し、直義派の復帰を促進させた事で越後守護の座を降りる事になります。
家臣の芳賀禅可が鎌倉府に反発しますが戦いに岩殿山合戦で敗れた事で、宇都宮氏綱は謝罪し上野守護の座も剥奪されています。
足利氏満の時代に河越直重による平一揆の乱が起きますが、宇都宮氏綱は平一揆に味方しますが、戦いには敗れました。
宇都宮氏綱は宇都宮氏の絶頂期を味わいましたが、二度の挫折があり勢力は後退しています。
尚、宇都宮氏綱、宇都宮基綱、宇都宮満綱の南北朝時代宇都宮氏三代を題材にした動画を作成してあり、記事の最下部から視聴する事ができます。
宇都宮氏綱の出自
宇都宮氏綱の父は宇都宮公綱であり、母親は斯波高経の娘だと伝わっています。
宇都宮氏綱には応安二年(1370年)に45歳で死去したとする記録があり、嘉暦元年(1326年)頃に生まれたのではないかと考えられています。
父親の宇都宮公綱は後醍醐天皇と共に行動する事が多く、南朝として近畿を転戦する事が多く下野には殆どいませんでした。
こうした事情もあり、宇都宮公綱が亡くなる延文五年(1356年)よりも前の段階で、宇都宮氏の当主になっていた事は間違いないでしょう。
宇都宮氏綱は足利尊氏に味方し北朝として活動する事になります。
尚、宇都宮氏綱が足利尊氏に味方したのは、配下の芳賀禅可の意向が強く働いたともされています。
宇都宮氏綱の内容が知られている所では貞和五年(1349年)に天龍寺造営の功績により従五位下下野守に任命され、観応二年(1351年)には、東福寺造営の功績により修理亮に推挙され、文和元年(1352年)には伊予守を名乗りました。
ただし、後に伊予守から下野守に戻った事が分かっています。
観応の擾乱で尊氏派となる
足利尊氏と足利直義が対立する事になり、室町幕府内で観応の擾乱と呼ばれる争いが勃発しました。
観応の擾乱において幕府内では尊氏派と直義派に分裂しますが、宇都宮氏綱は最初から最後まで尊氏派として活動を行っています。
関東は足利直義の腹心とも言える上杉憲顕がおり、直義派の強い地域でしたが、宇都宮氏綱は足利尊氏に味方しました。
結城文書に「宇都宮の辺りが静かならず」と書かれており、家中を纏めるのが難しかったのか、何らかの混乱があったのかも知れません。
実際の宇都宮氏綱配下の芳賀氏や益子氏が、上野で上杉氏や桃井氏らと戦いが起きています。
足利尊氏も南朝と和睦し関東に兵を進め、宇都宮氏や佐竹氏に軍勢催促を行った事が分かっています。
太平記でも足利直義が「まず最初に宇都宮へ兵を向けなくては、大変な事になる」と述べており、宇都宮氏を強く警戒していた事が分かるはずです。
過去に父親の宇都宮公綱が紀清両党を率いて近畿で奮戦したのを当時の武士は覚えており、宇都宮氏の主力である紀清両党を畏れていたともされています。
尚、紀清両党は益子氏と芳賀氏を指し、清原氏の流れを汲む芳賀禅可は重臣の筆頭とも呼べる立場となっていました。
芳賀禅可の子である芳賀高貞が上野国那波で直義方と合戦した事も分かっています。
観応の擾乱で足利尊氏が直義に勝利しますが、宇都宮氏の功績は特に大きかったと考えられています。
薩埵山体制
足利尊氏は薩埵山の戦いの前後で、宇都宮氏綱を越後及び上野の守護に任命しました。
直義派の上杉憲顕が越後・上野の守護でしたが、足利尊氏は自分に味方した宇都宮氏綱を優遇したのでしょう。
越後は本来なら幕府の管轄国となりますが、宇都宮氏綱を守護とし鎌倉府の分国として管轄しました。
足利尊氏は畠山国清や平一揆の河越直重、髙坂氏重を重用し、千葉氏胤も上総守護に任命しています。
足利尊氏が自分に味方した者達を関東で優遇したのを、学術用語では薩埵山体制と呼びます。
足利尊氏は足利基氏を鎌倉公方とし、薩埵山体制で支えようとしたわけです。
越後・上野の守護となった時が宇都宮氏の全盛期だと言えるでしょう。
歴代宇都宮氏の当主をみても越後上野など二カ国の守護になった人物はいません。
武蔵野合戦では動けず
観応の擾乱が終わると、新田義宗、新田義興、北条時行らが関東で足利尊氏に対し戦いを挑みました。
さらに、直義派の重鎮である上杉憲顕も南朝として、宗良親王を奉じて戦いとなります。
足利直義は足利尊氏に降伏し亡くなっていましたが、直義を支持していた者達は多くおり、南朝と結びついて戦ったわけです。
足利尊氏は薩埵山体制で厚遇した紀清両党を持つ、宇都宮氏綱に大きな期待を寄せた事でしょう。
金井原や人見原の合戦で配下の芳賀氏が足利尊氏と共に戦った事が分かっています。
足利尊氏は南朝の軍に一時的に敗れ鎌倉も奪われていますが、後に奪還し勝利しました。
これが武蔵野合戦です。
宇都宮氏綱ですが、芳賀氏を足利尊氏への支援として送った程度であり、本隊は宇都宮の本国を守っていたと考えられています。
園太暦に北畠顕信が白河から宇都宮に攻撃を仕掛け芳賀兵衛入道を討ち取ったとあり、北畠顕信と交戦していたのではないかとされています。
配下の益子氏の城である西明寺城でも合戦が起きており、宇都宮氏綱は本国である宇都宮周辺から動けなかったのが実情なのでしょう。
武蔵野合戦がひと段落すると、足利尊氏は京都に戻りますが、足利基氏を武蔵入間川に本拠地を遷させました。
足利尊氏が基氏を入間川に遷したのは、平一揆の河越直重を警戒したとも、直義派への対応だったのではないかと考えられています。
上杉憲顕の復帰
薩埵山体制で厚遇された宇都宮氏綱ですが、足利尊氏が1358年に亡くなると雲行きが怪しくなって行きます。
足利義詮の時代になると、同じく薩埵山体制で厚遇された畠山国清が失脚しました。
足利義詮や足利基氏は直義派の幕府復帰が無ければ、世は収まらないと考えたのかも知れません。
1362年に足利基氏は上杉憲顕を越後守護に復帰させています。
これにより宇都宮氏は越後守護を剥奪され、上野守護だけとなります。
宇都宮家臣で越後守護代を務めていた芳賀氏は猛反発し、上杉勢と数カ月に渡る戦いを繰り広げますが、足利基氏は意に介しませんでした。
さらに、足利基氏は上杉憲顕に関東管領に就任する様に呼び掛けています。
芳賀禅可の反発
上杉憲顕を厚遇する鎌倉府に対し、芳賀禅可は苦林野まで出陣しました。
足利基氏は宇都宮氏が反旗を翻したと考え兵を出し、芳賀禅可との間で岩殿山合戦が勃発しています。
足利基氏との戦いでは芳賀禅可の子である芳賀高家が捕虜になるなど、鎌倉府側が大勝しました。
周辺の勢力が芳賀禅可に味方しなかった事で、芳賀禅可は足利基氏にいとも簡単に敗れてしまったと言えるでしょう。
尚、岩殿山合戦では宇都宮氏綱は関与せず、芳賀氏が勝手にやった事としましたが、何処まで本当なのかは不明です。
ただし、宇都宮氏綱は越後守護を解任され新たに就任した上杉憲顕を苦々しく思っており、宇都宮氏綱の気持ちを汲み取った芳賀禅可が乱を起こした可能性は残っているはずです。
しかし、芳賀禅可が敗れた事で、宇都宮氏綱は苦しい立場となります。
宇都宮氏綱の謝罪
足利基氏は下野の足利に入り、長沼秀直に宇都宮氏綱が下野国塩谷郡藤原に逃亡したとし、逃げ道を塞ぎ退治する様に命じています。
足利基氏は宇都宮氏綱を追い詰めていきます。
足利基氏は下野小山に陣を遷しますが、ここにおいて宇都宮氏綱は謝罪する決意を固めました。
宇都宮氏綱としては独力で鎌倉府と戦うだけの力はなく、降伏する以外に道は無かったのでしょう。
鎌倉公方・足利基氏の陣を訪れた宇都宮氏綱は、次の様に主張し謝罪しています・
・芳賀禅可の件は自分が命令したなどの事は一切ない。
・主に逆らった罪は極めて重い。
・芳賀禅可は既に行方不明となっており、軍勢を動かす事はない。
芳賀禅可の行動を何処まで宇都宮氏綱が知っていたのかは不明ですが、宇都宮氏綱は「知らぬ事」とし、鎌倉府への臣従を求めたわけです。
足利基氏は宇都宮氏綱を許し、兵を引きました。
宇都宮氏綱と足利基氏
宇都宮氏綱は、この頃に嫡子の宇都宮基綱が元服しました。
宇都宮基綱の「基」の字は、足利基氏からの一字拝領となるのでしょう。
さらに、花押の形も足利基氏に似せる様になり、足利基氏に対し、かなり気を遣っている事が分かるはずです。
しかし、宇都宮氏綱は鎌倉府に降伏し、足利基氏が上杉憲顕を重用した事で、宇都宮氏の勢力は弱まりました。
上野守護も上杉憲顕に譲る事になります。
これにより宇都宮氏綱の守護職は全て喪失しました。
平一揆の乱と宇都宮氏
1367年に足利基氏が28歳の若さで世を去りました。
足利義詮は足利基氏の死を聞くと、関東を佐々木道誉に任せようと考えたのか鎌倉に派遣しました。
しかし、足利義詮も間もなく亡くなってしまい10歳の足利義満が後継者となり、細川頼之が中心となり補佐する体制となります。
佐々木道誉は近畿に戻り、基氏の子の足利氏満が鎌倉公方となり、上杉憲顕が支える体制となります。
将軍と鎌倉公方の両方が幼少であり、不穏な空気が流れる中で河越直重と高坂氏重が河越館に籠り乱を起こしました。
これが平一揆の乱です。
宇都宮氏綱は平一揆の乱に呼応しました。
上杉憲顕は敵対勢力となった高氏や三浦氏の排除に乗り出しますが、平一揆の乱の最中から終わった頃に没しています。
河越館は上杉朝房が攻略し平一揆の乱は鎮圧されています。
宇都宮城の戦い
鎌倉府の攻撃対象は宇都宮氏となり、都賀郡植野、吹上などを通り、下野国河内郡横田要害を攻撃しました。
宇都宮氏綱は野戦で対処しようした形跡もありますが、兵力で劣っており贄木城も陥落し苦しい立場となります。
鎌倉府の軍勢は贄木城に陣を置き、宇都宮城が攻撃される事となります。
宇都宮氏綱は田川を渡り鎌倉府の軍勢を攻撃しますが、反撃を受け宇都宮城に戻りました。
鎌倉府の軍勢と激戦が繰り返されますが、遂に宇都宮氏綱は降服しています。
宇都宮氏にとって二度目の鎌倉府への降伏となります。
多くの所領を失う
宇都宮氏綱は降服しますが、鎌倉大日記によると、次のような沙汰があったとされています。
※戎光祥出版 南北朝武将列伝北朝編より
薩埵山の恩賞で観応年間に土地を拝領した者は、本領の三分の一を没収
宇都宮氏綱は観応の擾乱で活躍し足利尊氏から多くの恩賞を貰いましたが、大半は没収されたしまったわけです。
ただし、家名は辛くも残す事に成功しました。
宇都宮氏綱の最後
南方紀伝や下野国志によると、宇都宮氏綱は応安三年(1370年)に近畿に向かい山名氏清の指揮下として、南朝方と戦った記録が残っています。
紀伊まで出陣した理由は、幕府方として戦で活躍し捲土重来の好機だと感じ、近畿にまで遠征したとも考えられています。
宇都宮氏綱としては、薩埵山体制の勢いを取り戻そうとしたのかも知れません。
近畿に遠征した宇都宮氏綱は、南朝方の楠木正儀と戦ったのではないかと考えられています。
しかし、形勢は不利であり粉河寺に入りますが、ここで病となり亡くなったと伝わっています。
これを信じるのであれば、宇都宮氏綱は本国である下野宇都宮ではなく、近畿で最後を迎えた事になるでしょう。
宇都宮基綱が後継者となりますが、小山義政との戦いに敗れて世を去っており、宇都宮氏綱の氏は宇都宮市の停滞を予感させる様な出来事だったはずです。
宇都宮氏の南北朝の動画
宇都宮氏の南北朝の動画となっています。
この記事及び動画は南北朝武将列伝(戎光祥出版)及び中世の名門宇都宮氏(下野新聞社編集局)をベースに作成しました。