倭王武は宋書や南斉書、梁書などに名前がある人物です。
倭王武は倭の五王の一人であり中国の記録を見ると、倭王済の子であり倭王興の弟という事になっています。
倭王武に関してはワカタケル大王の話もあり、大和王権の雄略天皇だったのではないかともされているわけです。
しかし、確証はなく倭王武は安康天皇だったとする説もあります。
倭の五王の他の人物は宋に朝貢を行った事と官爵の叙任の話しかありませんが、倭王武だけは倭王武の上表文が残っている状態です。
上表文に関しては「倭王武の上表文」の記事で書いてあるので、そちらを読むようにしてください。
尚、倭王武の時代に中国の南朝への朝貢を取りやめており、倭の五王の時代は終焉を迎えたと言えるでしょう。
倭王武が何をした人なのかと言えば、中国の南朝へ朝貢を行ったが、何らかの理由で朝貢を取りやめた人物だと言えます。
倭王武の倭国内の実績に関しては、よく分からない部分が多いです。
ただし、埼玉県の稲荷山古墳から稲荷山古墳出土鉄剣が見つかっており、ワカタケル大王と倭王武、雄略天皇が全て同一人物ではないかとも考えられる様になっています。
今回は倭の五王の最後の一人である倭の武王を解説します。
因みに、下記が中国の南朝へ朝貢を行った倭の五王の面々となっています。
477年の朝貢
宋書によると名前の記載がありませんが、477年に倭国が朝貢した記録が残っています。
当時の社会情勢を考えると、475年に高句麗が百済の本拠地である漢城を陥落させ、高句麗は新羅を圧迫するなど朝鮮半島で高句麗が猛威を振るっていた時代です。
百済の文周王は起死回生の一手として、北魏に接近しますが、高句麗は頻繁に北魏に朝貢していた事もあり、百済の北魏への接近は失敗に終わりました。
さらに、南朝の宋も北魏に遼東半島を奪われるなど苦しい立場だったわけです。
こうした中で477年に倭国が宋に朝貢を行った記録があります。
477年に誰が朝貢を行ったのかは記載がありませんが、倭王武だったのではないかともされているわけです。
ただし、477年の倭国の朝貢は記録上のミスであり存在しなかった説や477年に倭王武が使者を宋へ朝貢し方物を献じ、478年に宋の順帝に謁見し官爵の叙任があったなどの説もあります。
他にも倭王武が477年と478年に別に使者を派遣した話もありますが、倭の五王の先代の4名は最初の朝貢で叙任されており、倭王武だけが最初の朝貢で叙任されなかった事になってしまいます。
それらを考慮すると、477年の謁見は先代の倭王興であり、478年の朝貢は倭王武だとする説もあります。
ただし、倭王興は安康天皇に比定される事が多く、日本側の記述で安康天皇は3年ほどしか在位期間がありません。
倭王興が477年まで生きていたのであれば、倭王興の在位期間は10年を超える事になってしまうはずです。
倭の五王に関しては非常に記述が薄く、大和王権との天皇に比定した場合に、整合性を取るのが極めて難しいと言えるでしょう。
倭王武の478年の朝貢
倭王武の要求
478年に倭王興が亡くなり、倭王武が倭国王となった事を宋に通達した話しがあります。
この時に倭王武は「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」を自称しました。
倭王珍が六国諸軍事を自称し叙任を願い倭王済は六国諸軍事に叙任された話があり、倭王武も百済、新羅、馬韓、辰韓などの名目上の軍権を宋に要求した事になります。
さらに、倭王武の上表文を見ると、開府儀同三司まで望んでいた事が分かっています。
当時の宋は北魏に対し軍事的に不利な立場となっており、高句麗を懐柔する為に最高級の待遇を与え開府儀同三司に叙任しており、倭王武もまた高句麗と同等の待遇を望んだわけです。
倭王武の上表文を見る限りでは、倭王武は高句麗との戦いを前提にして宋へ使者を派遣した事が分かります。
高句麗の南下により大和王権は朝鮮半島の鉄資源などの権益を奪われる恐れがあり、高句麗との戦いも考えていた事は間違いないでしょう。
478年の状況だと百済が非常に苦しい立場であり、倭王武は百済の軍権も宋は許可すると考えた可能性も残っています。
それと同時に百済や新羅は高句麗に圧迫されており、倭国としては自らを盟主とする反高句麗同盟を締結したかったはずです。
倭王武の叙任
宋は倭王武の要求に対し全てを受け入れたわけではなく「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」としました。
倭王武の全ての要求を受け入れたわけではなく、百済も宋に朝貢を行っており、百済の軍権は許さなかったわけです。
ここで注目したいのは、今までの倭の五王が「倭国王」だったのに対し、倭王武は「倭王」となっている事でしょう。
「倭国王」と言うのは遠方で宋に対する軍事協力が期待出来ない場合を指し、倭王というのは軍事協力が期待できる場合を指します。
卑弥呼が魏から親魏倭王としたのは、三国志の魏からしてみれば、軍事協力が期待できると判断した為でしょう。
宋としては百済の軍権を認めない代わりに「倭王」としてバランスを取ったと言えるはずです。
尚、宋は倭王武に開府儀同三司は認めませんでした。
宋としては北魏を打倒する為に高句麗を巻き込み北魏包囲網を形成したいと考えており、倭国と高句麗を同列として扱う訳にはいかなかったのでしょう。
倭王武の南斉への朝貢はあったのか
倭の五王は倭王讃から始まり宋に朝貢しましたが、479年に宋の順帝が禅譲を行い蕭道成が皇帝となり南斉が始まりました。
倭王武が朝貢した478年の翌年には宋が滅亡し南斉が勃興した事になります。
南斉倭国伝によると、倭王武を安東大将軍から鎮東大将軍としたとあります。
今までの倭の五王は安東将軍か安東大将軍でしたが、南斉では百済が冊封されていた鎮東大将軍に昇進させたわけです。
480年には南斉は高句麗を驃騎大将軍とし、百済を鎮東大将軍とし倭国と同じとしています。
ただし、479年の倭国の冊封に関しては、倭国が遣使した記述がなく、南斉が勝手に倭国を冊封したとも考えられてきました。
しかし、2011年に諸番職貢図巻が発見されました。
諸番職貢図巻には倭国の事が書かれており「倭が東南大海の中にある」など魏志倭人伝からの、ほぼ引用となっていましたが、次の一文が掲載されていた事で注目を集めています。
※諸番職貢図巻より
斉建元中。表を奉じて貢献してきた。
建元の元号が使用されたのは、479年から482年までであり、南斉書にある倭王武が冊封された記述と合致します。
その為、479年に倭王武が朝貢を行い南斉から冊封されたのではないかとも考えられる様になってきました。
ただし、諸番職貢図巻を描いた張庚は清王朝の時代の人であり、資料としてはかなり新しいと言えるでしょう。
諸番職貢図巻は魏志倭人伝と内容が若干異なる事もあり、魏志倭人伝とは別の資料があったのではないかとも考えられているわけです。
しかし、諸番職貢図巻の資料が新しく他に倭王武が南斉に朝貢した記録がない事から、倭王武は南斉への朝貢は無かったとも考えられています。
それでも、倭王武は478年もしくは479年の朝貢を以って中華王朝への朝貢は取りやめた可能性は極めて高いと言えます。
倭王武はなぜ朝貢を止めたのか
南斉が502年に滅び蕭衍により梁が建国されました。
蕭衍は梁の武帝とも呼ばれています。
梁書によると、梁が建国されると高句麗を車騎大将軍としたり、百済を征東将軍として昇進させ、倭王武を征東大将軍とした話があります。
吐谷渾は西征将軍としました。
梁書の方でも倭国が朝貢したとは書かれておらず、梁側が勝手に倭王武を征東大将軍に冊封したとも考えられています。
実際には、この頃には倭王武が亡くなっていた可能性も高く、倭国が中華王朝への朝貢を行わなかったとも考えられています。
梁が勃興するまでには、倭国と中華の南朝では交流が無くなっていたともされているわけです。
倭が南斉や梁に朝貢を行わなくなった理由ですが、山東半島が北魏に奪われたのが大きいとする説があります。
倭王武の上表文を見ると分かる様に、倭国は百済の協力を経て朝貢していましたが、山東半島が北魏に移れば朝貢を行うのが困難になったとも考えられるわけです。
他にも、南斉の蕭道成は蕭何の子孫を名乗ってはいますが、出自は低く名門ではなく、梁も南斉と同族であり、南朝の最後を飾る陳の初代皇帝・陳覇先も軍人出身であり名門とは言えない事実があります。
南斉、梁、陳の出身が名門ではない事で倭国も朝貢しなくなったとする説があるという事です。
ただし、倭の五王が朝貢を行った宋の初代皇帝である劉裕は明らかに寒門出身であり、名門ではない南斉、梁、陳の家柄を考えて倭王武の時代から朝貢されなかった説は弱い部分もあると言えます。
一番有力だとされている説が倭王武以降の倭国では王権が安定した事で、倭国は冊封を受ける必要が亡くなり、自らが天下だと考えたとするものもあります。
それでも、室町時代に足利義満が明王朝から倭国王として冊封された話もあり、倭国で冊封を必要としなかった説には異論もある状態です。
倭王武の死は何年なのか記録はありませんが、倭王武の時代に中国から冊封を受ける倭の五王の時代は終焉に向かったと言えるでしょう。
南朝の宋、南斉、梁は北方王朝に圧迫されている事実もあり、倭王武は何らかの理由で南朝に魅力を感じなくなっており、朝貢を取りやめたとも言えそうです。