古代日本 古墳時代 天皇の治世

倭王済は倭国の国際的地位を多いに高める

2024年3月30日

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宮下悠史

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名前倭王済
生没年不明
勢力倭国
一族子:倭王興倭王武
年表443年 宋へ朝貢し安東将軍・倭国王に冊封
451年 六国諸軍事が加号
コメント倭国の国際的な地位を高めた人物

倭王済は倭の五王の三番目の人物であり、宋書倭国伝などに記述があります。

倭王済は倭王珍の後継者となり、倭国王になったと考えられています。

宋書倭国伝を読むと、倭王讃と倭王珍の関係は書かれていますが、倭王珍と倭王済の関係が書かれておらず、不明瞭な関係となっています。

それでも、倭王済は倭姓を名乗っている事から、倭王珍と同族だと考えられるわけです。

倭王済の2回目の宋への朝貢では「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍 倭国王」に冊封されました。

これらを考えると、倭王済は倭国の国際的な立場を多いに高めたと言えるでしょう。

尚、倭王済の子が倭王興倭王武だとされています。

下記が倭の五王の人物となります。

倭王済の登場

倭王済は宋の文帝の20年(443年)に宋に遣使した話があります。

倭王珍が宋に438年に朝貢した時は、兄の倭王讃が亡くなった事を告げましたが、倭王済の443年の朝貢では倭王珍が亡くなったとは伝えていません。

倭王珍は宋に「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を称し求めましたが、叙任される事はありませんでした。

443年の倭王済の1回目の朝貢では、倭王済も大きな事を言わず安東将軍・倭国王のみを望んだと考えられています。

宋は倭王済を安東将軍・倭国王に冊封しました。

453年の朝貢

危機に陥った宋

宋書倭国伝によると、倭王済は451年にも宋に朝貢した事になっています。

宋の文帝の元で元嘉の治を謳歌していた宋ですが、倭王済が二度目の朝貢を行う前年である450年に北魏の軍に大敗北を喫しました。

北魏は宋の都を伺う構えを見せますが撤退した事により、山東半島も宋は引き続き領有する事が出来たわけです。

しかし、宋の国内では北魏に大敗した事で皇帝の威信は揺らぎ、国勢が傾き出します。

さらに、朝鮮半島では新羅が高句麗から独立の姿勢を見せ始め、百済は宋に武器を求めるなど不穏な空気が流れていました。

こうした中で倭国が宋へ遣使しており、倭王済の朝貢は威信が揺らいだ宋にとっては好都合であり、喜ばれた事は間違いないでしょう。

23人の臣下を叙任

宋書倭国伝によると、下記の記述が存在しています。

※宋書倭国伝より

宋の文帝の28年(451年)。使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王を加え安東将軍は故の如し。

並び上せられし所の23人を軍・郡に徐す。

上記の記述から倭王済が倭国王に冊封されただけではなく、23人もの臣下が宋から正式に叙任された事が分かるはずです。

軍は将軍であり、郡は郡太守と見てよいでしょう。

朝鮮半島の歴史書である三国史記によると、倭国は440年と444年に新羅を攻撃しており、444年の論功行賞で倭王済は戦争で活躍した豪族らに仮授という形で将軍号を与えていたのではないかともされています。

451年の朝貢で仮授していた将軍号を正式に認める様に倭王済が申請し許可されたのでしょう。

百済なども過去に大量に配下の者が叙任されており、百済の例から見ても何かしらの論功行賞があり、倭王済が配下の者達に将軍号を仮授していた確率は極めて高いと言えます。

六国諸軍事

倭王済の最大の功績は使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事が認められた事でしょう。

宋は倭国に倭、新羅、任那、加羅、辰韓馬韓の軍権を認めた事になります。

倭王珍も六国諸軍事を認める様に要請しましたが、宋は許可を出しませんでした。

倭王珍の時代は宋は国力が充実しており、倭国に対しても強気でしたが、451年の朝貢時には北魏に圧迫されており、宋としては北魏包囲網を形成したかったのでしょう。

こうした事情もあり、宋は倭国を厚遇したとみる事も出来るわけです。

451年の朝貢の時に倭王済は安東将軍から安東大将軍に出世した話もありますが、宋書本紀では安東将軍のままで昇進してはいません。

将軍号に関しては先代の将軍号を引き継ぐのが通例であり、倭王済の後継者の倭王興が安東将軍・倭国王に冊封されており、倭王済は倭王讃と倭王珍と同じく安東将軍・倭国王だったと言えます。

尚、倭は自分の領地でもない新羅の地まで冊封されています。

宋書を見ると新羅の文字は「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の部分位しか見られず、宋の頭の中には新羅はほぼないような状態でもあったのでしょう。

実際に新羅は宋に朝貢するわけでもなく、宋にとってみれば新羅はどうでもよい存在であり、倭国が望んだ事で新羅の軍権も倭国に与えたのが実情だと考えられます。

倭王済は名目上とはいえ、高句麗が支配する地域以外の朝鮮半島の地の軍権を望んだ事は明らかでしょう。

倭王済は20年ほど倭国王でしたが、462年に倭の世子を名乗る「興」が宋に遣使しており、462年までには倭王済は亡くなっていたはずです。

倭王済は倭国の国際的な地位を高めた人物とも言えます。

王統の移行があったのか

倭王済の最大のミステリーは倭王珍と倭王済の関係が書かれていない事でしょう。

倭王済と倭王珍の関係が記録されていない事から、倭の王統が移行したと考える人もいます。

梁書では倭王済は倭王珍の子という設定になっていますが、梁書の姚思廉は話の整合性を取ろうとして、自分の文章を多くつけ加えた事でも有名です。

こうした事情から信用出来ない部分もあり、梁書の倭王珍の子が倭王済とする話を信じる人は少ないと言えるでしょう。

倭王済は倭王珍の系統とは少し遠い王族でありながらも、倭王珍と同程度の勢力を持っていた一族の長だったとも考えられます。

一つの説として、倭王珍の時代に平西将軍に任じられた倭隋が倭王珍と同程度の力を持っていたともされています。

倭王珍の安東将軍と倭隋の平西将軍は同じ三品将軍であり、それほど差がない将軍号だからです。

こうした事情から倭隋の子や一族の代表者が倭王済であり、倭王珍の後継者がいなかった事もあり、倭王済が倭国王になったとも考えられています。

日本側の記録を見ると仁徳天皇が崩御し履中天皇が即位する時には反乱が起きていますし、雄略天皇の時代まで後継者争いによる血なまぐさい話が多いと言えます。

それらを考えれば、倭王済は倭王になる為に、ある程度の苦労があったと考える事も出来るはずです。

倭王済の王統に関しては謎が多いとしか言いようがありません。

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