予譲(よじょう)は、豫譲と書かれる事もあり、智伯配下の武将です。
主君の仇である趙襄子を討つために、刺客となり失敗した事でも有名な人物といえます。
趙襄子と予譲の話に関しては、史記の刺客列伝に詳しく書かれています。
予譲を見てみると、忠臣ではあると思いましたが、刺客としては不器用過ぎて向かない様にも思ったわけです。
ただ、予譲の言った「士は己を知る者のために死す」という言葉は、後世の生き方の一つの指針になったようにも思いました。
今回は、予譲がどの様な人物だったのか、刺客として失敗した理由などを考えてみました。
尚、予譲が趙襄子の暗殺に失敗した理由ですが、個人的には殺気があり過ぎるからなのかな?とも感じたわけです。
上記の画像は浅草寺の予譲を書いた絵馬だと言われています。
予譲が、趙襄子の上衣を斬る所なのでしょう。
余談ですが、法家の代表格である韓非子は予譲の事を痛烈に非難しています。
智伯に仕える
予譲が仕えた智伯と言うのは、春秋時代後期を生きた人物です。
刺客になる前に、どの様な経歴があるのかを記載しておきます。
尚、智伯の死をもって晋は趙・魏・韓に分裂した事から、これが春秋時代と戦国時代の分かれ目だと考える人が非常に多いです。
晋の公室の弱体化
晋ですが、春秋時代に晋の文公重耳が君主になった時は、楚を城濮の戦いで破り覇者になるなど中華で最も実力がある国でした。
しかし、晋の平公の頃より、徐々に公室が弱体化していき、変わりに六卿という6人の大臣が力を持つようになったわけです。
晋は多くの国を滅ぼして多くの領土を獲得して行きましたが、領土が広がれば広がるほど、公室の力は弱くなるという不思議な状態にもなっています。
晋の公室は、家来であるはずの、六卿を制御できなくなっていますし、六卿の方も公室を弱めて自分の権力を高めるために躍起になっていきます。
最終的に晋の公室は、絳と曲沃以外の全ての土地が、六卿の所領となってしまったわけです。
六卿も互いに権力争いをしていて、予譲はそういう時代に生きています。
尚、六卿と言うのは時代によってメンバーが違いますが、晋の後期では范氏、中行氏、趙氏、魏氏、韓氏、智氏となっていました。
智伯に仕える
予譲ですが、最初は六卿の范氏に仕えますが、大して優遇もされなかったわけです。
そこで、范氏は仕官先を変えて同じく六卿の中行氏に仕えましたが、そこでも優遇されませんでした。
六卿の一人である智伯は、韓・魏・趙などと結託して、范氏と中行氏を滅ぼしてしまいます。
この時に、予譲は智伯に仕える事になったのでしょう。
智伯は、予譲の能力を認めて、国士として優遇したわけです。
范氏と中行氏では、並みの者として扱われていたわけですから、予譲の喜びも大きかったのでしょう。
智伯という人物は、趙の当主である趙襄子に宴席で侮辱したり、酒を掛けた話が残っていて、傲慢な人物だったとも言われています。
他にも、趙・韓・魏に土地の割譲を迫るなど、貪欲な人柄だったとも史書には書かれています。
しかし、予譲を可愛がるなど、傲慢だけの人でもなかったように思われます。
智氏の滅亡
智伯は、范氏と中行氏を滅ぼすと、次のターゲットを趙氏にします。
智伯は韓氏・魏氏にも軍隊を出させて、趙を攻撃したわけです。
趙の当主である趙襄子は、晋陽に籠城して迎え討ちます。
智伯は、趙を水攻めにして、落城寸前まで追い詰めていきます。
張孟談は、唇亡歯寒を説き、趙が滅びれば、次は智伯によって韓と魏が滅ぼされると説いています。
韓の当主である韓康子と魏の当主である魏桓子は、張孟談の言葉に心が揺れます。
韓と魏の方も、智伯に難癖を着けられて滅ぼされる事は目に見えていたので、趙に寝返りを決意します。
韓と魏は、智伯によって作られた水攻めの為の堤防を決壊してしまい、智伯に攻撃を掛けます。
趙の方も、水が引いたため、残された力を振り絞って智伯に攻撃を掛けたわけです。
智伯は不意を衝かれてしまい、あっという間に討ち取られてしまいました。
この時に、予譲は戦場を脱出したとも、他国に使いに行っていたとも言われています。
予譲が晋陽の戦いで生き残った事は間違いないでしょう。
予譲の復讐劇
予譲は、智伯の仇を討つために趙襄子に復讐を誓います。
士は己を知る者のために死す
史記によれば予譲は山の中に逃亡したとあります。
さらに、「士は己を知る者のために死し、女は己を説ぶ者のために容つくる」と言い「智伯様は、自分の理解者だった。仇を討って死ぬ。智伯様にご恩を返す事が出来れば、自分の魂もはずべき所がない」とかたき討ちを誓っています。
趙襄子の方は、智伯の事をかなり恨んでいたようで、智伯の髑髏を杯として使ったとか、便器にしたなどの話もあるほどです。
これらの趙襄子の行動も、予譲を刺激した可能性は十分にあるでしょう。
壁塗りをして趙襄子の命を狙う
予譲は、智伯の敵討ちをする為に、便所の壁塗りの仕事をしながら趙襄子の命を狙います。
趙襄子の宮殿の便所の壁塗り職人をして入り込みました。
趙襄子が便所に行った時に、懐に短刀を忍ばせて命を狙うつもりだったのでしょう。
趙襄子がトイレに行った時に、どこか胸騒ぎを覚えます。
家来に命じて、壁塗り職人を捕らえて尋問すると、予譲だったわけです。
予譲は、趙襄子に次の様に言っています。
智伯様の仇を討つためにやった
趙襄子の家来は、予譲を殺そうとしますが、趙襄子は次の様に言っています。
この者(予譲)は義人である。智伯は死に後継者はいないのに、敵討ちをしようとしている。優れた人物だ。
私の方が予譲から避ける事にしよう。
趙襄子は、予譲を釈放して、度量の深さを見せたわけです。
しかし、予譲の方は敵討ちの炎が消える事はありませんでした。
病人の姿となり命を狙う
予譲ですが、便所で見つかってしまった時に、顔を見られてしまったわけです。
もちろん、尋問されて喋ったわけですから、声も覚えられてしまいました。
そこで、予譲は全身に漆を塗り被れさせて今でいう「ハンセン病」患者の様に自分を変貌させます。
さらに、炭を飲み喉を焼き声も潰し、別人の様になったとも言われています。
予譲はボロを纏い市場に行くと、自分の妻を見かけたわけです。
予譲は自分がバレないか調べるために、妻に物乞いをしてみました。
すると、妻は予譲だと気づきもしなかったそうです。
さらに、予譲は友人の家に行き物乞いをしてみました、
すると、古くからの友人であったせいか、予譲だと気づかれてしまったわけです。
予譲の友人の言葉
予譲の友人は、予譲の姿を見ると、涙を流して次の様に語っています。
おぬしほどの才能があり、趙襄子に身を寄せれば、きっと重用してくれるだろう。
おぬしを近づけて目にかけてくれるのであれば、その時に仇討ちをすれば容易く事は成功する。
今、いたずらに、自分の体を傷つけてやる方法では、それこそ恨みを晴らすのは難しい事ではないか
友人の言葉に対して、予譲は次の様に語っています。
いったん仕えておきながら、相手を殺そうとするやり方は、二心を抱いて主君に仕える事だ。
確かに、自分のやっている事は苦しい事ではある。
だが、このやり方を貫くのは、後世に二心を持って主君に仕える者どもに、恥を教えてやるためだ。
この様に言っています。
そして、自分は智伯の家来のまま、敵討ちをするといい、友人の許を立ち去っています。
これを見ると、予譲が智伯の仇討ちをするのは、智伯の為というよりは、後世に二心を持って使える連中に恥を教えてやるためと言う事になります。
単純に智伯のかたき討ちをしたい為だけに、予譲が動いていない事も分かるはずです。
再び趙襄子の命を狙う
予譲は、後に趙襄子が外出するルートを知る事になります。
もしかしてですが、予譲の友人がリークしてくれたのかも知れません。
予譲は、趙襄子が通る橋の下に隠れていて、命を狙ったわけです。
しかし、趙襄子の馬が予譲の殺気に気が付いたのか、暴れ出してしまったわけです。
趙襄子も予譲が近くにいると思い、調べさせると橋の下から予譲が出て来ます。
この時の予譲は、姿が大きく変わっていたはずであり、趙襄子もビックリしたのではないかと思われます。
この時は、趙襄子も予譲を非難しています。
おぬしは昔、范氏や中行氏に仕えていた。両家が滅亡した時もかたき討ちなどを考えずに、智伯に仕えた。
智伯は、とっくにこの世にはいないのに、なぜあいつ(智伯)の為だけに、余の命を狙うのだ。
これに対して、予譲は次の様に語っています。
范氏、中行氏は自分を並みの人物として扱った。それ故に並みの人物として答えたまでだ。
しかし、智伯様は自分を国士として優遇なさってくれた。
国士として優遇してくれたからには、国士として恩を返すのは当然の事だ。
趙襄子は、この言葉を聞くとため息をつき、涙を流して次の様に語っています。
予君(予譲)の智伯に対する忠義は十分に分かった。余は前回の時に赦したため、余の度量はこれで十分であろう
あとは自分の好きな様にするがよい。私は予君を2度は赦しはしない
ここで趙襄子が、予譲の事を予君と呼んだのは、尊敬の念があったからではないかと思われます。
予譲は次の様に言います。
前に私を許してくれた事は、天下にあなた(趙襄子)の英明さを讃えぬ者はおりませぬ。
今日の出来事は、私は死罪をお受けいたします。
ただ、あなた様の上着を頂き、これを斬って智伯様へのかたき討ちとしたいと思います。
叶わぬ望みながら、御上衣を頂きたい。
この言葉を聞くと、趙襄子は義を感じ取り、配下に命じて自分の上着を予譲に渡しています。
一説によれば、予譲はこの時に、趙襄子が自分で上着を渡しにくれば、最後のチャンスとして命を狙っていた話もあります。
しかし、趙襄子は予譲にまだ殺気を感じていたのか、自分で上着を渡さなかったわけです。
予譲は、趙襄子の上着を斬り、次にように言うと自害しています。
私はこれで、地下の智伯様に、ご報告申し上げられるぞ
予譲は自害して果てたわけですが、司馬遷は刺客列伝の予譲の最後を「趙国の心ある人は、この話を聞いて涙を流した」と結んでいます。
予譲は、この苛烈な生き方により後世まで名を残したわけです。
この予譲の話は、悲しい話にも感じますが、多くの人の心に残ったのではないかと感じています。
予譲が暗殺に失敗した理由
予譲が趙襄子の暗殺に失敗した理由は、主に二つあると思います。
まとめると下記にようになるでしょう。
・殺気があり過ぎる
・目的よりも手段を重視しているから
殺気があり過ぎると刺客には向かない
予譲の場合ですが、殺気や気迫などがありすぎるために、趙襄子の暗殺に失敗した様に感じます。
始皇帝を暗殺した荊軻に対しては、私は最後の気迫が足りないとお話しました。
それに対して、予譲の場合は殺気や気迫が全開なのが失敗した理由だと感じています。
史記の刺客列伝は、曹沬、専諸、聶政、荊軻、豫譲の5人を紹介しています。
豫譲以外の4人は、ターゲットの相手に刺殺する直前まで行っているわけです。
曹沫は斉の桓公に近づいた時に、刃を喉元まであてているわけです。
専諸は、焼き魚の中に刃を仕込み、呉王僚に献上して、一瞬の隙をついて暗殺に成功しています。
聶政は、一般人の振りをして、ずけずけと入り込み、侠累を一気に刺殺しました。
荊軻の場合は失敗はしましたが、始皇帝のかなり近くまで行ったわけです。
これら4人は気配を殺して、相手に油断させるまでは、殺気を見せずに近づいた事を指すのではないでしょうか?
それに対して、予譲の場合は気迫や殺気がありすぎるのか、一度目は趙襄子に気づかれていますし、2度目は馬に気づかれているわけです。
殺気を見せるのは、相手を刺せる間合いに入ってから、見せれば良いのであり、最初から殺気を見せてしまっては、刺客にはならないのでしょう。
最初から殺気全開だった所が、予譲が暗殺に失敗した理由にも感じました。
目的よりも手段を選んだ!
よく「目的の為には手段を選ばない」という言葉を聞きます。
しかし、予譲の場合は徹底的に手段に拘った事で、暗殺が失敗したのでしょう。
予譲の友人が言う様に、趙襄子に気に入られて、相手が油断したところで、一気に暗殺すれば事は成功したのではないかと思います。
実際に、東周列国志や呉越春秋で呉王僚の子である慶忌を暗殺した要離は、相手を油断させておいて、一気に刺殺しているわけです。
これをやらずに、予譲はあくまで智伯の家来として仇を討つ事に拘った為に、目的である暗殺が達成出来なかったのではないかと感じます。
目的が大事なのか手段が大事なのか?は、考えさせられる部分もあるわけですが、手段に拘り過ぎると成功は遠のくという教訓にもなるように思いました。
それでも、予譲の様な人物を義人と呼ぶのかも知れません。
尚、仮に予譲が趙襄子を殺す事が出来たとしても、目的を達成したら自害した様にも感じています。
韓非子の評価
韓非子は予譲の行いに対して批判的な目で見ています。
韓非子は「予譲が生前に智伯に対して尽くさず、死後に討ち入りを行い忠臣面するのは忠臣ではない」と断じているのです。
個人的には、予譲の行いは心に来るものはありますが、本当の忠義の臣かと言われれば疑問点もある様に感じています。
ただし、予譲にどれ位の智伯を補佐出来るだけの能力があったのかは不明であり、予譲が出来る最大限の忠義が刺客になる事であれば、予譲も忠臣と言えるのではないかと感じています。