名前 | 弓月君 |
読み方 | ゆづきのきみ |
別名 | 融通王 |
時代 | 古代日本 |
主君 | 応神天皇 |
一族 | 父親:功満王 子:真徳王 |
コメント | 渡来人となって日本を訪れた秦氏の祖 |
弓月君は日本書紀の応神天皇の時代に百済からやってきた事になっています。
日本書紀によれば弓月君は120県の人民を率いてやってきたとあり、かなりの大人数で日本に来ようとした事になるでしょう。
しかし、弓月君は新羅が妨害した事で、多くの民が加羅から動けなくなっていると、応神天皇に訴えました。
これにより応神天皇は葛城襲津彦に迎えに行かせますが、3年が経過しても葛城襲津彦は戻らず、平群木菟宿禰と的戸田宿禰に兵を与え新羅に向かわせています。
新羅王が恐れて、弓月の民を解放した事で、弓月君の配下の120県の者達は日本に来る事が出来ました。
弓月君は渡来人とも言われていますが、帰化した記録があり、渡来人ではなく帰化人と呼ぶべきだとする声もあります。
尚、弓月君は日本書紀の記述が正しければ、元は百済人という事になりますが、実際には新羅人だったのではないかとする説も存在しています。
さらに言えば、弓月国なる国がユーラシアに存在し、弓月君はユダヤの末裔だったのではないかとする説もあります。
弓月君の正体は徐福だと述べる人もいますが、実際には記述が少なく謎多き人物です。
因みに、弓月君は秦氏の祖でもあります。
日本書紀の記述
弓月君の来日
日本書紀の応神天皇の14年に弓月君が、百済から訪れた記述があります。
弓月君は次の様に奏上しました。
※日本書紀より
私は自分の国の120県の人民を率いてやってきたのですが、新羅人に邪魔をされ、加羅に留まっております。
弓月君は応神天皇に自分は大和王権に帰順したいが、新羅に邪魔をされて配下の者達が伽耶で動けなくなっていると窮状を述べた事になります。
弓月君は120県の民と共に行動した事になりますが、1万人を超える人々を日本に入れようとしたとも考えられています。
秦の始皇帝の時代に徐福が3000人を率いて日本にやって来たとする伝承もありますが、弓月君は2万の住民を引き連れていたとする説もあります。
徐福の3000人を比べると数は6倍以上とも考えられ、桁違いの人数だと言えます。
1万や2万もの人々を応神天皇が受け入れたとするならば、弓月の民を朝鮮半島から九州まで船で移動するしかなく、大船団及び食料を用意した事になります。
応神天皇にとっても弓月君を受け入れるのは、大きな決断だったはずです。
応神天皇が秦氏と関係が深い八幡宮の主祭神として祀られているのは、応神天皇が2万人もの民を受け入れてくれた事への感謝の意だとする説もあります。
応神天皇は配下の葛城襲津彦を朝鮮半島に派遣し、弓月君の配下の者達を保護し、日本に連れて来る様に命じました。
しかし、日本書紀には3年が経過しても、葛城襲津彦は戻って来なかったとあります。
朝鮮半島に派兵
応神天皇の16年8月に武内宿禰の子である平群木菟宿禰と的戸田宿禰を朝鮮半島に精鋭と共に派遣しました。
応神天皇は葛城襲津彦が弓月君の配下の者を中々連れて来る事が出来ず業を煮やし、平群木菟宿禰と的戸田宿禰を派遣したのでしょう。
応神天皇は平群木菟宿禰らに新羅の妨害を阻止する様に朝鮮半島に派遣したわけです。
平群木菟宿禰らは朝鮮半島に行き新羅の国境に軍を配置すると、新羅王は詫びを入れて弓月君の民を解放しました。
弓月の民は日本を訪れ葛城襲津彦も一緒に戻りました。
これが日本書記における弓月君の話であり、弓月君が秦氏の祖となります。
ただし、秦氏の正体に関しては、幾つかの謎が出されています。
余談ですが、応神天皇が武神として祀られているのは、朝鮮半島で苦境に陥っていた弓月の民を臣下を派遣し、武力で解決した事が原因とする説もあります。
弓月君の正体
弓月君は百済人なのか
弓月君ですが、日本書紀によると百済からやってきた事になっています。
日本書紀の記述を考えれば、弓月君は百済系の渡来人であり、日本に帰化した事になるでしょう。
百済の弓月君は日本の大和王権を目指しましたが、新羅の妨害により日本に来る事が出来なかったとあります。
日本書紀の記述を見れば、何の問題もないでしょう。
しかし、弓月君が新羅人だったのではないかとする説も存在します。
弓月君は新羅人だったのか
弓月君が新羅人だったとする説があります。
弓月君は秦氏となるわけですが、秦氏の史跡を発掘調査すると、新羅系の遺物が大半を占めており、百済系の遺物が殆ど発見されていません。
秦氏と関係が深い地域を調べてみると、新羅系の瓦紋が多く、全国的に見ても秦氏の拠点になっていた場所は、新羅系の瓦が多数を占めているという事です。
考古学的に見ると、弓月君は百済よりも新羅の方が関係が深いとみる事も出来ます。
弓月君の子孫ともされる秦河勝は聖徳太子とも関りが深く、広隆寺を建立した人でもあります。
広隆寺にある弥勒菩薩半跏思惟像は国宝第一号にも指定されており、材質を調べてみると新羅の領域にある赤松だという事が分かりました。
秦氏を調べてみると、考古学や美術史学などを見ると、秦氏は新羅と所縁が深い人物にも見えてくるわけです。
考古学的にみれば、弓月君は百済ではなく新羅人の可能性の方が高いと言えます。
さらに言えば、正史三国志の魏志韓伝に新羅の全身である辰韓が「秦韓」だったとする記述があり、馬韓が土地を割譲して秦からの難民だった人々に与えた話しがあります。
秦韓(新羅)こそが秦氏の祖先がいた場所だとも考えられています。
弓月君は伽耶人だった
日本書紀の記述を見る限りだと、弓月君及び秦氏は百済人ですが、考古学的には新羅人だった事になります。
日本書紀は政治的な要素を多分に含まれているといいますが、それらを考慮すると何故、弓月君は百済人になってしまったのかという問題があります。
弓月君は少人数で最初に応神天皇に謁見したわけですが、この時に「弓月の民が伽耶にいる」と発言しているわけです。
伽耶地域には過去には弁韓とも呼ばれ、倭人も多く暮らしていたと考えられています。
伽耶は別名として伽耶諸国とも呼ばれ、強力な王権があったわけではなく、幾つもの国に分かれていました。
高句麗が伽耶まで攻め上ってきた話しもありますし、百済や新羅により、伽耶諸国の勢力は脅かされていたわけです。
弓月君の勢力は伽耶にあり、百済に従ったり新羅に従ったりしており、分裂を繰り返していたとも考えられます。
弓月君の勢力は最終的に新羅の勢力下となりますが、弓月君の勢力は最終的に戦乱を逃れて日本に渡来したとは考えられないでしょうか。
日本と百済は神功皇后の頃より、一貫して友好の立場を取っており、最終的には百済が滅亡し、唐と新羅の連合軍に日本が白村江の戦いで敗れ、朝鮮半島での勢力を失いました。
こうした歴史を考えると、秦氏としては、大和王権と敵対し任那を滅ぼした新羅よりも、長く友好国でいた百済人とした方が都合が良かったとも考えられるわけです。
尚、伽耶は別名として任那とも呼ばれており、任那王家は562年に新羅の攻勢により滅んだと日本書紀にあります。
因みに、秦氏は562年の任那が滅んだ時に、難民として日本に逃れてきたとする説や白村江の戦いで敗れて日本にやってきたなどの説もあります。
これらの説を採用すれば弓月君はいなかったか、欽明天皇や天智天皇の時代に日本に来た事にもなるはずです。
弓月君がチベット人だったのか
弓月君がチベット人だったとする説もあります。
弓月君がチベット人だったと考えると、日本と遠く離れている事から「ありえない」と思う反面で、遺伝子的に見るとチベットと日本は関係が近く「ありえない話ではない」と思えて来る人も多い事でしょう。
中国で三国志の世界を統一したのが、西晋ですが、八王の乱があり異民族の侵入もあり、西晋は短期間で崩壊しました。
中国では五胡十六国の時代に入りますが、この中でチベット系の羌族が建国した後秦がありました。
後秦は417年に滅亡していますが、この時に後秦の難民となり、日本に来たのが弓月君だったのではないかとする説です。
秦氏の「秦」は「後秦」の秦だとし、弓月君(ゆずきのきみ)に関してはチベット語で「第一」を指す言葉が「ウズ」であり、長官を指す言葉が「キ」だった事に着目しました。
チベット語だと第一の長官を指す言葉が「ウズキ」となり、これが弓月に当たるというわけです。
弓月君がチベット人だった説は、面白みはあるのかも知れませんが、時代的に新羅の成立などを考慮していないなどの問題点もあり、支持される事は少ないとされています。
弓月国からやってきた説
イリ盆地に弓月国なる国がありました。
弓月国と弓月君の名前が一致する事から、弓月君は弓月国から来たとする説もあります。
応神天皇の一代前は仲哀天皇ですが、仲哀天皇の時代に功満王なる人物が渡来した話があります。
功満王が弓月君の父親であり、功満王の子が融通王とも書かれているわけです。
融通王が弓月君に比定されています。
仲哀天皇は功満王に移民受け入れを快諾しますが、子の弓月君が日本列島に来ようとすると新羅が妨害したとする説です。
尚、弓月国と弓月君を繋ぎ合わせた説は、秦氏のユダヤ人説と繋げられる事が多いと言えるでしょう。
因みに、名前が似ている事を考えると、馬韓に月支国があり、意外と弓月君と関係があるのかも知れません。
弓月君は始皇帝の子孫だった
弓月君が中国人だったのではないかとする説もあります。
古代豪族の出自が記録された新撰姓氏録には、秦氏が秦の始皇帝の後裔だと記録されているわけです。
始皇帝の子は胡亥ですが、そこから5代後の子孫が融通王であり、これが弓月君となります。
新撰姓氏録の記述が正しければ、弓月君は中国系の渡来人にもなるはずです。
尚、秦氏は万里の頂上を手掛けた程の土木技術を持っており、秦氏の知識が大古墳の建造に繋がり、古墳時代の幕開けとなったとする説もあります。
ただし、始皇帝や胡亥は紀元前207年までには既に死去しており、応神天皇の時代は4世紀後半から5世紀頃までとも考えられており、明らかに時代が合いません。
さらに言えば、文献などを調べると、秦氏が始皇帝の子孫を名乗るのは、8世紀後半か9世紀の事であり、弓月君が始皇帝の子孫だとするのは辻褄が合わないとも考えられるはずです。
因みに、秦氏と同時代に渡来してきた漢氏は自分の先祖を後漢の霊帝であるとしました。
当時では貿易を有利に進めるなどの狙いや流行から、自らの祖先を中国人としてしまう場合もあったのでしょう。
弓月君と2万人の民
弓月君が2万人もの民を共に、最終的に日本に訪れた事になっていますが、日本に2万人を受け入れるだけの余裕があったのかなどの問題も存在します。
しかし、一方で当時の日本は食糧が豊富にあったのではないかとする説もあるわけです。
日本で2番目に大きな古墳は応神天皇の誉田御廟山古墳だとされています。
さらに、古墳の大きさで見ると第9位に応神天皇の皇后であった仲姫もランクインされています。
古墳の大きさを考えると、応神天皇の時代に如何に日本で大土木工事が行われていたのかが分かるはずです。
古墳は大規模な土木事業であり、土木事業を行うには、豊富な食料がなければ、作業員は食糧の確保を目指し逃亡してしまう事でしょう。
エジプトのピラミッドなどのクフ王の時代に食糧が豊富にあった事から、造営できたと現在では考えられる様になりました。
これらの事から、応神天皇の時代には食料が豊富にあり、弓月君ら2万を受け入れるだけの余裕があったとも考えられます。
ただし、仁徳天皇の4年に民の竈の話があり、人民が貧しく仁徳天皇は税金を取らなかった話があります。
応神天皇が移民を受け入れ過ぎてしまい、仁徳天皇の時代に食糧が不足したとも考えられないでしょうか。
日本書記の記述を信じるのであれば、応神天皇はかなりの移民を受け入れた事にもなるはずです。
先代:功満王 | 次代:真徳王 |