名前 | 縄文人 |
生息地 | 日本列島 |
時代 | 縄文時代 |
縄文人は日本列島に住んでいて、日本人の祖先でもあります。
縄文人は北や南、朝鮮半島から流入し、日本人の原型となったわけです。
当時の日本列島は世界有数の楽園でもあり、豊かな自然が広がっていました。
縄文人は狩猟採集生活を行うだけではなく、栗などの半栽培や交易も行っていた事が分かっています。
縄文土器や環状列石などを見ると芸術品にもなっており、縄文人は縄文文明を築いたという人もいる位です。
尚、江戸幕府は天下泰平250年とも呼ばれていますが、縄文時代は天下泰平1万であり、この時代に日本列島にいたのが縄文人となります。
今回は縄文時代の生活や暮らし、恋愛、生活、寿命などにスポットを当てて解説します。
縄文人はどこから来たのか
縄文人がどこからやって来たのかですが、主に三方向から来たとされています、
4万年ほど前にスンダランドにいたグループが南方から日本列島に入りました。
中国にいた人々も4万年ほど前に朝鮮半島を経由して、日本列島にやってくる事になります。
2万年ほど前になると北のサハリンを経由して、人々が北海道から日本列島に入りました。
今から2万年まえだとサハリンと北海道は繋がっており、今よりも寒かった事から、マンモスを追いかけて北海道に入ったと考えられています。
12万5千年ほど前に人類は出アフリカにより、アフリカを出て別々に旅立ちましたが、数万年後に日本列島で再開し、混血が進んだのが日本人であり縄文人だとも言えます。
それを考えれば、日本人の原型である縄文人は様々な民族との交配が進んでおり、ハイブリットにも見えて来るわけです。
縄文人の豊かな生活の源
縄文人達を支えたのは日本列島の豊かな自然と生態系です。
世界四大文明などを見ても世界の文明は農耕を始める事で定住を可能としました。
しかし、日本は農耕をしなくても定住生活が可能だったわけです。。
地球規模の温暖化である縄文海進により、気温が現在よりも高くなり、海が内陸部に入って来る事になります。
これにより日本列島は広葉樹の数が増し、その栄養は内湾へ流れ込みました。
内湾部では魚たちが栄養を求めて多く集まり繁殖し、山では鹿やイノシシなどの小動物が繁栄する事になります。
縄文人は旬の食材を食べれる様になり、半栽培も行い縄文時代は世界のどの地域よりも豊だったとも言えるでしょう。
縄文時代の気温の上昇により、日本列島には恵がもたらされ、これが縄文人の生活を支える根源となったわけです。
縄文時代の集落
縄文人達の集落は4軒から6軒ほどで構成されていたと考えられています。
縄文時代であれば、狩りを行うのであり、縄文人が一つの場所に纏まり、大集落を形成するよりも、集落ごとで離れていた方が狩りを効率よく行うことが出来たと考えられています。
(集落と森のイメージ:獣は密集していない為、集落も分散した方が効率よく狩が出来る)
縄文人達は一つの住居に、5人から6人ほどで暮らし、世帯構成は祖父母が同居していたともされています。
ただし、現代であっても世帯構成は様々であり、縄文人の世帯構成ははっきりとしない部分でもあります。
尚、縄文人は通い婚だったとする話もありますが、この辺りははっきりとしません。
縄文人達は普通の平地に比べると1段高い場所に集落を営みました。
台地の上に集落を構成するのは水害を避ける目的があり、それでいて海産物からたんぱく質を摂取する縄文人達は海に近い場所を好み竪穴式住居を建てています。
縄文時代の集落は4軒から6軒で構成されていたとされており、集落の構成は血縁関係が多く、親戚同士で暮らしていたとされているわけです。
ただし、10軒を超えるような大規模な縄文集落も存在しており、広場を中心に家を建て暮らしていたとみれるものも存在します。
三内丸山遺跡などは集会場とも取れるような竪穴式住居も設置されていた事が分かっています。
尚、大規模な集落は拠点集落とも呼ばれ、近くの集落から人が集まり何かしらの儀式を行ったのではないかと考えられています。
縄文人の住居
縄文人の住居といえば竪穴式住居だと言えるでしょう。
地面に穴を掘り柱を立てて茅葺の屋根を取り付けて行きます。
縄文人の集落と言えば茅葺を思いつく方も多いですが、樹皮や草木で下地を作り、土葺を屋根としたものも存在しています。
土葺きの場合は室内の温度は夏で外気よりも10度ほど下がり、冬は暖かくなるわけです。
尚、縄文人の竪穴式住居は男性が5人ほどいれば、造り出す事が可能とされており、集落の男性が協力して建造したのでしょう。
因みに、縄文時代の建築様式としては樹皮葺き、掘立柱建物や大型建物なども存在しています。
一般的な竪穴式住居は直径5メートルほどの円形であり、ワンルームで中央には炉がありました。
竪穴式住居でも上部のスペースは棚にしたりして、様々なものが置かれたのではないかと考えられています。
中国側の史書である正史三国志の魏志倭人伝に倭人は「父母兄弟で寝室や居間を別にした」とあり、弥生時代と縄文時代では家にも違いがあったのでしょう。
縄文人の生活
縄文人は朝起きると、火種を起こして近くの川に土器を持ち水を汲みに行きお湯を沸かしたと考えられています。
前日からの残りの縄文クッキーなどがあれば朝食とし、お湯を飲み1日が始まったとされています。
縄文人達は集落の人々と共に山や川、海などに行き山菜を集め狩りをしたり魚とりをした事でしょう。
食糧の確保が出来れば、縄文人は帰宅し、縄文土器を作成したり、魚とりの為の鏃を造ったり、女性は食事の準備をしたと考えられています。
縄文時代には米の様な保存食がないわけであり、収穫した瞬間から食物は腐敗を始めてしまいます。
こうした理由もあり、縄文人は必要最低限の食料を確保したら、それ以上は採取しなかったのではないかと考えられているわけです。
食事が出来上がれば、炉を囲み人々が今日の出来事などを話しながら、夕方には食事を終えたとされています。
縄文人達は、直ぐに寝てしまう場合もあれば、近所同士の話で盛り上がるなどしていたのでしょう。
この辺りは現代人にも通じる部分がある様に感じています。
縄文人のトイレ事情
縄文人のトイレ事情ですが、意外にも分からない事が多いです。
男性などは狩りに行った時に、便意や尿意が出て来れば、そこら辺の山でしたとも考えらます。
縄文時代にはトイレットペーパーが存在せず、葉っぱなどでお尻を拭いていたとも考えられるわけです。
他にも、ウォシュレットの如く、川でお尻を洗ったともされています。
排泄物に関しては、流れの速い川に流していたなど、様々な説がありますがはっきりとはしません。
貝塚から噴石と呼ばれる化石化した排泄物が発見される事があります。
噴石を分析すれば縄文人達の食生活や健康状態が分かるとも考えられますが、現時点で噴石が人間なのか、動物なのかの判断が出来ないとされています。
縄文貝塚
貝塚は過去には、縄文人たちのゴミ捨て場だとも考えられてきました。
しかし、貝塚からは貝殻の他に、土器や石器なども発見されており、縄文人や犬の骨まで一緒に見つかる事もあります。
貝塚から見つかる貝は350種類を超えており、縄文人達は様々な種類の貝を食べていた事が分かるはずです。
大量に出た貝は干す事で鍋の出汁にしたとも考えられています。
最近の見解では、貝塚は不要になったものを埋葬する為の儀礼の場所だったのではないかとも考えられる様にもなっています。
人間が貝塚に埋められている事からも、あの世に送り出す為の何らかの儀式が執り行われたのではないかともされているわけです。
見方を変えてみれば貝塚は縄文人のゴミ捨て場ではなく、墓地だった可能性もあります。
縄文犬は縄文人の家族
縄文時代に生きた犬の事を縄文犬と呼びます。
因みに、弥生時代に生きた犬の事を弥生犬と呼びます。
縄文犬は現在の犬と比べると、キツネの様な顔をしていたとされています。
ユーラシアの国々と日本で動物に対する考え方の違いがあるとされています。
ユーラシアでは牧畜を行うわけであり、動物が人間を管理する事になります。
ユーラシアの国々では繁殖に必要な雄以外は去勢してしまうのが普通です。
動物は人間よりも下の存在であり、さらにいえば、人間にも奴隷という下の身分を作りました。
縄文人達にとっては縄文犬は相棒であり、狩りの助けをしたとも考えられています。
縄文犬を見ると歯が折れていたり、骨折した跡が残っているものも多く、さらには骨折から回復したとみられる痕跡も発見されています。
縄文犬が出土されると全身の骨が揃う事も多く、人によってきちんと埋葬されたと考えられているわけです。
ユーラシアの国々では家畜は人間よりも下の存在でしかありませんが、縄文人にとって縄文犬は家族の様な存在だったと考えられています。
動物やメイドさんを家族として扱うのは、日本くらいのものだとする意見もある程です。
縄文人の顔と体型
縄文人の身長の平均は男性で158センチほどで、女性で153センチ程だった事が分かっています。
現代人に比べると、縄文人は身長が低く小柄でした。
しかし、縄文人は狩りをしたり、野山を歩くなどしていたはずであり、小さくても肉体的には筋肉質でがっちりとしていたのではないかと考えられています。
過去には縄文顔と弥生顔で比較された事があり、縄文人は堀が濃いソース顔であり、弥生人はのっぺりとしたしょうゆ顔だと言われてきました。
縄文人と弥生人は別の民族だったのではないかとする説もありますが、DNA検査を行った結果として、縄文人と弥生人は繋がっている事が分かったわけです。
縄文人と弥生人は同じ民族であり、食生活の違いなどで顔の変化が起きたなどの話もあります。
縄文人の服装
縄文時代には植物の繊維で作られた編布(あんぎん)と呼ばれる布があった事が分かっています。
縄文人達は動物の骨や角で作った針と食物繊維で作った糸を使い編布を縫い合わせて、シンプルな服を作ったともされているわけです。
一つの説として編布を造れるのであれば、刺繍などの模様も入っていたのではないかと考えられています。
編布は女性の仕事ともされており、裁縫関係は昔も今も女性の仕事になるのでしょう。
女性に関しては、裁縫だけではなく食物採集や家庭の子育て、縄文土器の作成などマルチに活躍していたと考えられています。
尚、編布編みで出来上がった布は、そのままだと固くて縫う事が出来ず、ごわごわしているので、木槌などで叩き生地を柔らかくしてから縫い合わせたとされています。
完成した布に関しては、顔料で染めるなどもしていた事が分かっています。
因みに、1着作るのに食物を刈り取り、糸にする作業があり、それを毎日やるわけでもなく、1着作るのに1年以上の歳月が掛かったのではないかと考えられています。
現代と比べると、途方もない程に生産量が低いのが縄文時代だったわけです。
縄文人の靴に関しては、夏は裸足だったのではないかと考える人もいれば、足を守るために簡単な靴の様なものがあったのではないかともされています。
縄文人は冬になると、イノシシやシカの毛皮で作った服を防寒具として、着用していたとも考えられています。
冬になると縄文人であっても、流石に裸足はきついと思われますので、動物の毛皮による防寒具はあった事でしょう。
縄文人の靴に関しては、動物の革だけではなく、サケの皮も使用しギザギザした背びれなどをソールにして使い、滑り止め効果を得たともされています。
一つの説として、縄文人は季節に合わせた服の着こなしをしていたとするものがあります。
ただし、冬用の動物の毛で作ったコートもあった事が分かっていますが、夏服の上に冬用のコートを着るなどは普通にあった事でしょう。
尚、縄文時代の土偶を見ると派手な服装を着ている様でもあり、縄文人は派手な服装をしていたとも考えられています。
ただし、派手な服装をするのはお祭りの時だけだともされています。
縄文時代の髪型
縄文人達の髪型ですが、土偶を見れば分かるとも考えられています。
土偶の髪型を見ると、頭から角が出ている様であり、かなり奇抜な髪型の様にも見えるはずです。
土偶は縄文のヴィーナスを代表される様に、年頃の女性が多くモチーフにされていると考えられており、土偶は出産適齢期の女性の姿だったともされています。
尚、土偶の髪型が複雑である事から、縄文時代には美容師という職業が存在していたのではないかとも考えられています。
縄文人の入れ墨
土偶を見ると口の周りや目の下などに線が引かれている事が分かるはずです。
この線が縄文人が入れ墨をしていた証だともされています。
もちろん、縄文人の骨は見つかっていますが、縄文人の皮膚が出土されていない事から、本当に入れ墨をしていたのは不明です。
しかし、多くの研究者が縄文人は入れ墨をしていたと考えています。
尚、入れ墨には魔除けの意味や所属する集落を表すものとされています。
海外の資料ですが、魏志倭人伝に「倭人が入れ墨をしていた」とする記録があります。
魏志倭人伝は3世紀の事が書かれており、日本で考えれば弥生時代だった事になります。
倭人の入れ墨というのは、縄文時代からの名残だったのかも知れません。
尚、縄文人は朱色でペインティングの様な事もしていたともされています。
因みに、現在の入れ墨は機械を使って行いますが、縄文時代の入れ墨は鹿の角などを使って皮膚を傷つけ顔料を入れたと考えられています。
これだけでも、かなり痛そうなのですが、縄文人は顔や全身に入れ墨を入れていたとも考えられており、入れ墨を入れる時の痛みはかなり酷かった事が想像できるはずです。
縄文時代の遊び
縄文時代の子供たちですが、日常生活が遊びの場だったのではないかと考えられています。
女の子であれば母親と祖母と共に料理の手伝いをしたり、森に入り山菜取りを行ったり、薬草の知識を蓄えたとされています。
男性であれば父親と共に狩りの為の道具を作ったりしていたのでしょう。
縄文人にとってみれば仕事と遊びの境界線が無かったとも考えられています。
尚、原始的なかけっこや木登り、幅跳びなどの遊びも縄文人はしていたと考えられているわけです。
勿論、釣りも行っていた事でしょう。
成人式に抜歯が行われていた
縄文人の発見された骨を見ると、抜歯が行われていた事が分かっています。
抜歯に関しては現代の様な歯科治療があるわけではなく、大きな石に歯をぶつけてグラグラさせた後に、紐をつけて一気に引っ張ったなどとも考えられています。
縄文時代は麻酔が存在せず、健康な歯を抜歯すれば激痛が体に走った事でしょう。
抜歯の理由ですが、成人の儀式として「痛みに耐えてこそ一人前」という考えがあった様です。
抜歯を行う歯に関しては、前歯や犬歯など人から見える位置の歯を抜くのが普通となります。
女性は子共から大人になると胸が膨らんだり肉体的な変化がありますが、男性は体が大きくなるだけであり、代わりに抜歯をして大人になったとする証にしたとする説もあります。
「抜歯を行った者は勇者であり、抜歯をしていない者は一人前ではない」としたのかも知れません。
さらに言えば、成人式意外にも結婚や親の死など人生の節目で抜歯していたとされています。
これらの事から抜歯は、通過儀礼の一つとしても見る事が出来ます。
尚、縄文人の抜歯はシャーマンが行っていたのではないかとも考えられているわけです。
祭りは男女の出会いの場だった
縄文時代は他集落とは距離があり、日常的に他集落と交流するのは難しかったと考えられています。
こうした中で、集落の枠を通り越しての祭りが一つのイベントだったとされています。
祭りは基本的には「収穫」「子宝」「健康」などを祈るものでしたが、神を祀るだけではなく祭りも行っていたとされているわけです。
縄文遺跡からは土笛や太鼓と思われる土器も発見されており、歌や音楽があったのではないかとされています。
有孔鍔付土器などは太鼓の役目を果たしたのではないかと考えられているわけです。
縄文人にとっては祭りはレジャーでもあり、多くの人が楽しみにしていた事でしょう。
さらには、他集落との男女の出会いの場にもなっていたのではないかともされています。
男女が焚火の周りで宴を楽しみ、恋に落ちる事も考えられるはずです。
縄文時代の恋愛
縄文人達は集落内で結婚する場合もあったとは思いますが、お祭りなどで他集落の者と知り合い恋に落ちた可能性もあると考えられています。
遺伝子の問題を考えると、集落内は一族の者が多く出来る限り、結婚相手を避けたいとする思惑もあったのではないかとされているわけです。
お祭りで男女はお互いの家族構成などの情報を交換し、大きな木の下など目印を決めて再び会ったともされています。
縄文人であっても、日が昇るのは分かるはずであり、何日後かを決めて男女が再会したとも考えられるはずです。
男女は山菜を取って見たり、キノコや採ったりして楽しんだのではないかとされています。
男女は相手の様子を観察し、男女の関係になったとする説もあります。
その半面で、縄文時代は集落間でネットワークがあり、親同士が結婚相手を決めたのではないかとも考えられているわけです。
婚姻が成立すれば、集落同士の繋がりも出来るわけであり、縄文人は自由恋愛は禁止で、集落同士のネットワークの形成の為に行われたとする説もあります。
ただし、現代でも結婚には紹介やお祭りで知り合ったなど多数の出会いのパターンがあり、縄文時代も結婚においては複数のパターンがあったともされています。
男女の行為を何処でしたかですが、竪穴式住居の中はワンルームであり、そういう行為はしにくいと考えらえます。
それらを考慮すると、昼間からしていたとか、縄文人の性行為は気にせず行っていたのではないかとされているわけです。
尚、縄文人にとって子供を作るとする行為は子孫を残す為の重要な行いであり、大切な事として認識されていた可能性もあります。
縄文人の出産
縄文人の出産ですが、初産が18歳から19歳くらいだったのではないか?とされています。
縄文人は多様なものを食べていたとは言われていますが、栄養に関しては現代人に劣り女性の初潮が来るのが、15歳か16歳くらいだったのではないかとされています。
それで、縄文人女性の初の出産が18歳くらいになったのではないかとされているわけです。
縄文人は弥生時代と違って離乳食がありません。
離乳食が無ければ、女性は授乳期間に子供を授かる可能性は極めて低くなります。
それらを考慮すると、縄文人の女性は数年に一度しか出産する事が出来ず、出産人数は多くても4人程度だったとも考えられています。
縄文時代はピークでも人口が26万人程度であり、人口が増えなかったのは離乳食が無かった事も大きく関わっているはずです。
縄文時代の遺跡からは人骨が見つかる事があります。
最近では人骨を調べるだけで、性別や年齢、身長なども分かる様になっています。
人類は妊娠や出産を経験すると、骨盤と仙骨の関節面である耳状面付近に、その妊娠痕が刻まれるわけです。
つまり、出土した縄文人の骨の妊娠痕を調べれば、当時の妊娠や出産の状況が分かる事になります。
縄文人の子育て
縄文人であっても子供は育てなければならなかったはずです。
縄文時代の子育てを知るすべとして、土偶や土製品から読み取ることが出来ます。
土偶の中には子共を抱っこして、乳をのませるが如く作られたものも存在しています。
他にも子供の手や足の形がある土版も発見されています。
(関塾タイムス)
現在でも子供の手形や足形を取る風習が残っている地域もあり、縄文時代からの名残なのかも知れません。
縄文時代は子供の死亡率も高かったはずですが、集落では子供の健康を祈って手形や足形の土版を作ったのでしょう。
尚、土偶は現在では2万点以上も発見されていますが、完全体のままで出土した土偶はせいぜい5パーセント程です。
残りの95パーセントの土偶は意図的に壊した様な形跡があるわけです。
中には土偶をバラバラにして230メートルも離れた場所で、分配されていたケースもあります。
完全体の土偶は僅かで、壊される土偶、体の一部のみを壊される土偶、バラバラにされてしまった土偶が発見されているわけです。
縄文人が土偶を壊した理由は、イマイチ不明であり分かっていません。
ただし、土偶の多くは女性をモチーフにしており、中には妊娠した女性に表れる正中線がある土偶すらあります。
これらを考えると、出産と土偶が何かしらの関係があったのではないかと読み取ることが出来るはずです。
縄文人達は何かしらの事を祈り、土偶を破壊したのかも知れません。
縄文人のアクセサリー
縄文人達は耳飾りやネックレスなどアクセサリーを身に着けていた事が確実視されています。
人間は衣食住が整うと、アクセサリーを身に着けたりおしゃれに気を遣う様になるわけです。
アクセサリーの素材は翡翠や琥珀や粘土、貝、動物の骨や角、石、イノシシの牙など様々な材質があります。
ただし、縄文時代の宝石である翡翠を全員が身に着ける事は不可能であり、海沿いに近ければ貝のアクセサリーが多く山の獣が多い場所では、動物の骨や角がアクセサリーとなりました。
翡翠などは男性が女性のプレゼントしたともされています。
縄文人は子供の頃にピアスの様に耳に穴を開け、年齢に応じて穴のサイズを大きくしていったと考えられています。
縄文時代の代表的なピアスは「滑車型耳飾り」と「けつ状耳飾り」の二つです。
どちらも大きな穴を耳たぶに空ける必要があり、大きい耳飾りだと直径で9センチ以上もあり、怖いくらいの大きさの耳飾りが存在しているわけです。
高貴なアクセサリーなどは、集落のシャーマンが身に着けていたともされています。
アクセサリーと言えば女性が身に着けるものと思うかも知れませんが、男性も身に着けていたのではないかと考えられています。
さらに、縄文時代は赤ん坊や子供であっても、ネックレスやブレスレットをつけていたとされています。
ネックレスやブレスレットに魔除けの意味もあるのであれば、赤ちゃんや子供が身に着けていても不思議ではない様に感じました。
縄文時代は交易も行っており、黒曜石や翡翠は生産地が限られており、アクセサリーとして使う場合も取り寄せていたのでしょう。
縄文人と病気
縄文時代は労働時間が短く平和だったとする意見がある一方で、怪我をしても病院が無く不便すぎるという声もあります。
縄文人ですが、がんなどの現代人と同じような病気が既にあった事が分かっています。
縄文時代に病気になったらどうしたのかという問題があります。
縄文時代には医術が存在せず、シャーマンが祈祷を行ったり、日々の生活で養った薬草の知識で賄っていたのでしょう。
病気になったら狩りは他の仲間に任せて休養するなどもしていたはずです。
縄文人の人骨を見ると、怪我や関節炎を患っていると思われるものも発見されており、女性よりも男性の方が怪我の率が高い事が分かっています。
縄文人も虫歯に苦しんでいた
縄文人の骨を見ると、虫歯や歯槽膿漏に苦しんだ形跡があります。
さらに、世界の狩猟採集民族と比べても、特に縄文人は虫歯が多い事が分かっているわけです。
虫歯といえば、チョコレートなどの甘いものと感じるかも知れません。
当然ですが、縄文時代に現代の様なチョコレート、ケーキ、お菓子などは存在しません。
お菓子がない縄文人がなぜ虫歯になってしまうかと言えば、木の実やイモ類などのデンプン質を多く含む食べ物が原因です。
主食が木の実だった縄文人は虫歯に掛かる率が極めて高く、北海道の様な木の実を殆ど食べなかった地域は、虫歯になる確率が極めて低いと言えるでしょう。
縄文時代には当然の如く、歯医者が存在せず、虫歯になってしまたら薬草を詰めるしか道はなかったと考えられています。
そうなると、縄文人は歯磨きをしていたのか?という問題があります。
縄文人は木の棒を噛む事で歯磨きの代わりにしていたともされており、歯の間に挟まった食べかすなどに関しては、楊枝の様なもので対処していたと考えられます。
それでも、現在の様には医者が存在せず、歯石取りも出来ない縄文人は大変だった事でしょう。
尚、縄文人が世界の狩猟民族よりも虫歯が多いのは、豊かさの証だとする見解があります。
世界の文明では虫歯が増えるのは、農耕の時代になり人工的な栄養価の高い穀物を摂取する事で、糖分摂取量が増加した結果として虫歯になります。
つまり、栄養価の高い食事を摂取していれば虫歯になるわけであり、縄文人は栄養価の高い食べ物を食べた結果として、虫歯になったとも考えられるわけです。
縄文人も介護をしていた
縄文時代の人骨の中で、既に体が動かなくなってしまったのではないかと思われるほどのものも発見されています。
大腿骨が変形した様な骨をみると、足が動かなくなってしまったのは確実視されています。
しかし、骨を調べてみると、動けなくなってしまった縄文人であっても50歳ほどまで生きた事が分かっており、縄文時代から介護があったのではないかとされているわけです。
尚、縄文人の骨に残された微量のコラーゲンを調べたり、レントゲンを撮る事で縄文人が「骨粗鬆症」に掛かっているなど様々な事が見えてきます。
縄文人であっても、動けなくなれば見捨てられるわけではなく、助けあいの精神があった事は明らかでしょう。
縄文人の寿命
過去には縄文人の平均寿命は30歳以下だと考えられてきた時代もありました。
しかし、現在では骨などを調べた結果として40歳ほどだったのではないかとする見解が有力視されてきています。
縄文時代は10歳まで生きられるのが10人いたら6人から7人くらいで、15歳まで生きる事が出来たのは全体の5割くらいだったと考えられています。
医療が発達した現代では考えられないかも知れませんが、縄文人は15歳までに半分が亡くなっている事になります。
子供は体が弱く乳児死亡率も高く、半分は大人になる前に亡くなったという事なのでしょう。
ただし、縄文人の人骨を調べてみると、60歳を超えている人骨も多く出土しており、縄文時代であっても長生きする人は、長生きをしたのでしょう。
縄文時代であっても、旬の恵を効率よく最初した縄文人は長生きだったとも考えられています。
縄文時代のお墓
縄文人は亡くなると土坑墓と呼ばれる地面に穴を掘ったお墓に埋められる事になります。
墓の場所に関しては、集落によって異なり、環状集落の真ん中が墓所になっている事もあれば、三内丸山遺跡の様に集落の入り口に墓所がある場合も存在します。
他にも、集落から少し離れた場所が墓地になっていたり、大人と子供で別の墓地が用意されているケースもありました。
赤ちゃんを含めた小さな子供が亡くなった場合は、土器に入れて埋葬する事もあったようです。
埋葬のされ方は地域や集落によって異なり、膝を伸ばした状態で埋葬される伸展葬の場合もあれば、膝を抱えた様な形で埋葬する屈葬の場合もあります。
尚、縄文人が屈葬にして埋葬するのは、死者が蘇って危害を加えない様に封じ込める為とするものがあります。
日本神話でイザナギがイザナミを迎えに黄泉の国まで行き戻ると、禊を行っており、日本は古代から死体は汚らわしいものと考えていた節があります。
腐敗した人間の姿は恐ろしく、縄文人であっても忌諱する存在だったのかも知れません。
ただし、乳幼児が死亡した場合は、家族が暮らす住居の入り口や母親が座っていたとされる席の下に埋められる場合もあり、必ずしも縄文時代に死体が忌諱されたわけでも無いようです。
縄文人は副葬品と共に埋葬される例は殆どありません。
ただし、村の有力者やシャーマンとみられるお墓からは副葬品が見つかっており、縄文時代でも身分制度があったのではないかとされています。
尚、縄文時代のシャーマンはファッショニスタであり、知識人、医者などの役割を担っていたとも考えられています。
縄文人と自然災害
日本列島は噴火や地震が多いわけですが、縄文時代でも大地震や時には大噴火も起きていたわけです。
特に紀元前5200年頃に起きたとされる鬼界カルデラの噴火は、九州の縄文人たちを壊滅状態にしたと考えられています。
火山灰により植物が生えなくなり、動物が消え、縄文人は食を求めて東に移動したともされています。
中には、縄文人が船で海に乗り出し長江文明を築いたとか、メソポタミアまで行きシュメール人になったなどの話もありますが、その辺りは定かではありません。
しかし、地震や火山で森の木の実が動物がいなくなれば、縄文人達は新天地を求めて移動した事だけは間違いないでしょう。
縄文人は気候などにより、捕れるはずの獣が取れなかったり、得られるはずの山菜が得られないなどもあったと考えられており、自然に関してはかなり敏感だったはずです。
縄文人は現代人と比べても、自然の声を聴く耳に長けていた事でしょう。
縄文人の食糧事情
縄文時代の最大の仕事は、なんと言っても狩りだったはずです。
縄文時代を連想するとワイルドな男が肉を食らっている姿を連想する人もいるのではないでしょうか。
男性の縄文人は狩りに出かけ、動物を捕えて食料としました。
縄文時代の遺跡からは兎、熊、キツネ、リス、ニホンザル、シカ、イノシシ、ムササビなどの骨が見つかっています。
これらが食用の動物だと考えられ、縄文人は多くの哺乳類を狩りで捕えていたのでしょう。
縄文人男性の最大の仕事は狩りにより、家族の食料を持ってくる事だと言えます。
ただし、縄文人が毎日の様に狩りに出かけて、獲物を追い回していたわけではなく、狩りに出かけるのは1週間に3日程だったとも考えられています。
雨の日などに縄文人が狩りに出かけたのかなどは不明です。
縄文人はイノシシを狩る事も多かったわけですが、現在のイノシシよりも縄文時代のイノシシの方が体が大きく、体重200キロほどのイノシシもいた事が分かっています。
巨大なイノシシを一人の縄文人で狩る事は難しく、仲間と協力しイノシシを追い立てたり、弓矢で待ち構えたりして狩りを行ったのでしょう。
狩りというのは、大量に獲物が取れる場合もあれば、少ししか取れない場合もあり、皆で分かち合いの精神がなければ縄文人は滅んでしまったはずです。
それを考えると獲物を多く捕れたものは、捕れなかったものなどに分け与えたと考えられています。
狩りに関しては、縄文人の間で、持ちつ持たれつの精神でやっていた部分もあった事でしょう。
縄文人の食事は狩りだけではなく魚介類、山菜、鳥類、昆虫、果物類などもありハチミツや塩なども食用としていた事が分かっています。
縄文土器により煮炊きが可能となり、様々なものが食べれる様になり、縄文時代の食を支えたとも言えます。
縄文時代には縄文クッキーなるものも存在しており、その名は多くの人が知っている事でしょう。
縄文鍋も存在し、肉を切り分け、山菜を入れ縄文人達は家族で縄文鍋をつついたりする事もあったはずです。
縄文時代は石がフライパンやオーブンの役目を果たしてもいました。
現代の調理器具の先祖は縄文時代にあったと言えるのかも知れません。
尚、縄文時代は新しい木の実や山菜などを見つけた場合は、実際に食べてみないと安全かどうかは分からず、自ら毒見をしていたとも考えられています。
縄文人は交易も行っていた
縄文時代は縄文人同士で交易も行っていた事が分かっています。
翡翠、琥珀、天然アスファルト、黒曜石などは産地が決まっており、交易をしなくては手に入る事が出来ません。
交易といっても、タダで黒曜石などをくれる可能性は低く、毛皮や何かしらのアクセサリーなどを対価として渡していました。
縄文人は狩りや漁業をしていましたが、地域により偏りがあり、それらを使って交易していたと考えられています。
縄文人は丸木舟を使って、海にも乗り出し交易を行っていたのは確実です。
縄文人の半栽培
縄文時代からクリなどの半栽培が行われていた事が分かっています。
三内丸山遺跡では栗林があった事が分かっており、縄文人達が美味しい栗を選別して地面に植えたのでしょう。
縄文人の栽培は栗だけに留まらずツルマメや野生種を栽培化した大豆などもあります。
縄文人は森に行き木の実を採取していただけではなく、栽培を行い効率よく食料確保をしていた様子が伺うことが出来ます。
縄文人の祈り
縄文時代には神社やお寺の様な現代人がお参りをする様な施設は存在しませんでした。
しかし、縄文人は様々なものに祈ったとされています。
縄文人は三内丸山遺跡の大型掘立柱建物や大湯環状列石などを見るように冬至や夏至が分かっており、季節の節目でもお祈りをしていたと考えられています。
人間には仲間以外の拠り所も必要であり、それが縄文人の祈りであり神だったのかも知れません。
特に縄文人は自然災害で大きく左右される部分もあり、天変地異に関しては敏感であり、神の存在を考えていた可能性もあるはずです。
土偶、石棒、環状列石などは祈る為の道具だったと考えられています。
石棒は男性器をイメージしたと考えられており、不思議な力が宿ると考えたのかも知れません。
尚、縄文人は農耕民族に比べると自然と共存しており、超自然的な世界を信じる傾向が強いとも考えられています。
牧畜や農耕などは主導権が人間にありますが、狩猟採集生活においては、自然の方に主導権があるからです。
人間は自らの意思でコントロールが出来ない場合に神にすがる傾向にあり、お祈りをするともされています。
現代人だと「まじない」「占い」「呪術」などは非科学的な方法だと考える場合が多いですが、科学が発達していない縄文人達とは感覚的な違いがあった事でしょう。
稲作の始まり
縄文時代は西の方から終わりを告げる事になります。
現在の研究では縄文時代から稲作があった事が分かっていますが、縄文人は中々稲作を始めなかったわけです。
縄文人が稲作を始めなかった理由に関しては、稲作を行うには灌漑設備が必定であり、莫大な投資が掛かります。
日本列島は豊かであり、縄文人達は稲作を行わなくても食べて行く事が可能であり、稲作をなかなか始めなかったわけです。
東日本では青森県の砂沢遺跡でいち早く稲作を始めた事が分かっていますが、僅か10年ほどで放棄しています。
ただし、砂沢遺跡で稲作が放棄された理由は分かってはおらず、稲作は結果が出るまでに半年ほど掛かるともされており、結果が出るまでに自然災害で壊滅したなどの説もあります。
縄文人と弥生人
縄文人と弥生人は同じ民族だという事が分かっています。
過去には縄文時代の男性の平均身長が158センチで、弥生人の平均身長が163センチ前後で、身長が違う事から、渡来人がやって来て縄文人を征服したなどの説もあったわけです。
縄文人よりも弥生人の方が身長が高い事から別民族とも考えられましたが、食生活の違いにより身長が伸びたとも現在では考えられる様になってきています。
日本では明治時代以降に食生活が変わり、この100年間で平均身長が15センチ程伸びています。
それを考えれば、身長を理由に縄文人と弥生人が別民族だとする事は出来ないはずです。
縄文顔、弥生顔などとも言われていますが、人間の顔は食生活においても変化する事が分かっています。