バビロン第一王朝(古バビロニア)はアムル人がメソポタミアの地で建国した国です。
メソポタミアの中南部を合わせた地域をバビロニアと呼び、バビロン第一王朝はバビロンを首都としました。
メソポタミアはチグリス川とユーフラテス川の間を指す言葉ではありますが、バビロンはユーフラテス川の湖畔に建造された都市です。
話を進めますが、アムル人は元々はメソポタミアの地にいたわけではありません。
アムル人はシリア内陸部からメソポタミア北部の地域に暮らしていましたが、
コーカサス山脈を越えて来たフルリ人に押し出される形で移民となり、シュメール人のウル第三王朝に流れ込んでくる事になります。
難民であったはずのアムル人が、どの様にしてメソポタミアで繁栄し滅亡したのかを解説します。
因みに、バビロン第一王朝の6代目の王がハンムラビ王でありハンムラビ法典を制定した事でも有名な王様です。
尚、アムル人の呼び方ですが、シュメール語で「西から来た人々」という意味があります。
余談ですが、アムル人から土地を奪ったフルリ人はミタンニ王国を建国しています。
バビロン第一王朝の動画
バビロン第一王朝のユーチューブ動画です。
ゆっくり解説ですが、視覚でバビロン第一王朝が分かる様になっています。
アムル人の民族移動
アムル人はセム系の民族です。
古代オリエントでは、メソポタミア地方の南部はウバイド人からシュメール人に代わり、セム系の民族は元は、アラビア半島にいました。
しかし、気候変動が起きた事でアラビア半島からメソポタミアを含む肥沃な三日月地帯に移動します。
肥沃な三日月地帯の一角で生計を立てていたアムル人ですが、紀元前2000年頃になると北方からミタンニ人(アムル人)が押し寄せてきます。
アムル人は、ミタンニに敗れた事で難民となり、シュメール人が治めるウル第三王朝に雪崩込む事になるわけです。
この時にシュメール人から見て西側からやってきた民族だった為に、「西から来た人」という意味のアムル人と呼ばれる様になります。
尚、大量に押し寄せて来るアムル人に対してシュメール人が壁を作り防ごうとした話もあります。
バビロン第一王朝の建国
バビロン第一王朝の建国に関してのお話です。
ウル第三王朝の滅亡
アムル人が押し寄せる前のメソポタミア地方は、シュメール人が統治するウル第三王朝が治めていました。
シュメール人は、高度な文明を持っていたとも言われていますが、大量の難民の前に社会混乱が引き起ります。
さらに、大飢饉やウル第三王朝の将軍であったイシュビエラがイシン第一王朝を建国した事でウル第三王朝は衰退に拍車が掛かります。
ウル第三王朝は、結局は東から来たエラム人の侵攻により滅亡します。
エラム人もイシン第一王朝の攻撃を受けたりして、メソポタミアの地に根付く事が出来ずに、メソポタミアは群雄割拠となります。
バビロンでアムル人が建国
こうした戦乱の中でアムル人は、バビロン(都市名)を本拠地としたバビロン第一王朝を建国します。
バビロン第一王朝は、フルリ人に土地を奪われて難民だったはずのアムル人がメソポタミアの地で建国した国となります。
尚、最初にも少し解説しましたが、バビロンという呼び方とバビロニアという呼び方がありますが、バビロンは都市名でありバビロニアは周辺の地域(メソポタミア中南部)を指します。
バビロニア地方と言えば、メソポタミアの中部と南部を合わせた地域だと覚えておきましょう。
メソポタミア文明の初期にシュメール人とアッカド人がいた場所がバビロニア地方となります。
ハンムラビ王の躍進
戦乱が続いたメソポタミアですが、バビロン第一王朝に英雄的な君主が現れます。
ハンムラビ王の富国強兵策
それがハンムラビ王(在位紀元前1792年~紀元前1750年)です。ハンムラビ法典を制定した王様と言えば分かる人も多いはずです。
ハンムラビ王が即位するまでのバビロン第一王朝の領地は、それほど大きくはありませんでした。
しかし、ハンムラビは兵士を優遇するなどの政策を取り富国強兵を実現します。
結果として、ハンムラビの軍は強くバビロン第一王朝がメソポタミアを統一し覇者となっています。
ハンムラビは25の戦いで勝利し広大な領地を手に入れた記録もあるほどです。
広大な領地を手に入れたハンムラビ王は、ハンムラビ法典を制定し国の安定を図ります。
宗教改革も行う
ハンムラビ王と言えば、ハンムラビ法典ばかりに目が行きますが宗教改革も行っています。
バビロン第一王朝の支配者側であるアムル人は、マルドゥク神を祀っていましたが、
支配される側のシュメール人は、エンリル神を祀っていたわけです。
ハンムラビは、マルドゥク神が神々の最高位に登る資格がある事を立証しようと考えます。
そこで、ハンムラビは天地創造の物語である「エヌマ・エリシュ」を作り上げたとされています。
ハンムラビの宗教改革も成果を挙げてバビロン第一王朝の首都であるバビロンは宗教都市になった話もあるほどです。
バビロンでは宗教行事も盛んになり新年祭などは12日間に渡って行われ、祭りの終盤では王や神官が行進した話も伝わっています。
バビロン第一王朝の滅亡
バビロン第一王朝は、ハンムラビが亡くなると急激に衰えていき滅亡に向かっていきます。
カッシート人の侵入
バビロン第一王朝はハンムラビが亡くなると、サムスイルナが即位しますが反乱が勃発し、国力を大きく落とします。
エラム人の侵攻やメソポタミア地方の南部では、イルマイルムが反乱を起こし海の国第一王朝を建国する事になります。
バビロン第一王朝の栄華は僅か20年しかないとも言われています。
こうした状況の中で、東の方からカッシート人がバビロン第一王朝に入ってきます。
カッシート人は、メソポタミア南部に居住し人口を増やして行きます。
カッシート人は最初は日雇い労働などをして暮らしていました。
カッシート人の事は詳しくは分かっていませんが、専門家によってはカッシート人の侵入がバビロンの衰退に拍車をかけたと指摘する人もいます。
尚、バビロンの言葉でカッシートは「日雇い労働者」の意味です。
因みに、バビロン第一王朝が滅びた後に、カッシート人がバビロンを首都としたカッシート王国を建国する事になります。
ヒッタイトの侵攻により滅亡
衰えたバビロン第一王朝にヒッタイトの軍が遅い掛かります。
小アジアにいたヒッタイトがバビロン第一王朝まで遠征してきたわけです。
一説によるとこの時にヒッタイトは、ヒッタイト王ムルシリ1世が自ら指揮を執りバビロン第一王朝に攻めて来たとも言われています。
バビロン第一王朝の王であるサムス・ディターナとヒッタイト王ムルシリ1世の戦いとなるのですが、ヒッタイト軍が圧倒的な戦力で勝利します。
バビロンの軍は青銅器の武器が主流でしたが、ヒッタイトは鉄の武器を持っていました。
青銅器は高度があるのに折れやすい欠点があり、ヒッタイトの鉄の武器を青銅器で受けてしまうと、青銅器は折れて壊れてしまいます。
鉄は金属ですが柔軟性があり曲がる事はあっても折れる事は少ないです。
その為、武装度の違いが勝敗の差となりバビロンは首都も陥落し多くの捕虜と財宝をヒッタイトに取られて滅亡しました。
尚、バビロン第一王朝を滅ぼしたヒッタイトですが、バビロンを放棄し本国である小アジアに引き上げています。
ヒッタイトは強力な武器を持ちながらも領土獲得意欲がない国だったとも考えられています。
因みに、過去にアムル人から土地を奪い取ったフルリ人が建国したミタンニ王国もヒッタイトに滅ぼされています。
カッシート王国の建国
バビロン第一王朝は滅びたわけですが、滅ぼしたヒッタイトが小アジアに撤退した為に権力の空白地となります。
バビロンの地には、バビロニア地方の南部にいた海の国第一王朝が制圧する事となります。
ただし、メソポタミアの南方にいたカッシート人が団結しバビロンを抑えてカッシート王国を建国したとも考えられています。
カッシート王国の首都はバビロンでありバビロン第一王朝と同じです。
カッシート王国はバビロン第三王朝と呼ばれる事もあります。
カッシート人が台頭した原因として、ヒッタイトに痛めつけられたアムル人ではバビロン第一王朝を復興する力が無かったのかも知れません。
バビロン第一王朝の滅亡後のバビロニアは北部がカッシート王国、南部が海の国第一王朝という時代に突入しますが、最後はカッシート王国がバビロニアの地を統一する事になります。
尚、バビロン第二王朝は海の国第一王朝であり不明な点が多い王朝でもあります。
後に、前1200年のカタストロフで地中海を暴れ回る、「海の民」と「海の国」の関係性はよく分かっていません。
アムル国の建国
アブディ・アシルタが15世紀末にアムル国をレバノンで建国した事が記録されています。
ただし、アムル国はエジプトの従属国であり、バビロン第一王朝(古バビロニア)時代の様な国力はなく弱小国だったようです。
アムル国はアナトリア半島のヒッタイトとエジプト新王国の間になる緩衝国であり、後にエジプトの傘下を離れてヒッタイトの傘下となりました。
ただし、アムル国は先にも述べた様に弱小国であり、特筆するべき事件はありません。
尚、アムル国の1200年のカタストロフで民族移動が活発となると、海の民などの圧力により滅亡したとも言われています。