名前 | 呉慶(ごけい) |
生没年 | 不明 |
登場 | 戦国策、キングダム(漫画) |
コメント | 戦国策に名前があり実在した人物の可能性が高い |
画像 | キングダム公式ガイドブック英傑列紀 |
呉慶は戦国策に魏策に登場する魏の安釐王の時代の人物です。
漫画キングダムでは信陵君の食客だった過去があるという設定になっています。
以外に思うかも知れませんが、呉慶は実在した人物です。
キングダムの設定では武将に思うかも知れませんが、実際には弁舌を得意していた遊説の士だったのでしょう。
今回は史実の呉慶がどの様な人物だったのか解説します。
尚、キングダムの様に呉慶将軍が魏火龍七師の筆頭だったとか、子に呉鳳明がいたなどの記録はありません。
当然ながら麃公に討たれたとする記録もないです。
戦国策の呉慶
邯鄲籠城戦
秦は長平の戦いで勝利し一旦は趙と和睦しましたが、再度趙に侵攻しました。
邯鄲籠城戦は激戦でしたが、秦は邯鄲を抜く事が出来ず、魏の信陵君や楚の春申君の援軍が来た事もあり撤退しています。
趙の孝成王は長平の戦いで大敗北を喫しましたが、平原君の活躍もあり邯鄲を守り抜いたわけです。
この後に秦は魏の寧邑を攻撃し抜きました。
寧邑が陥落した時に、魏の安釐王が秦に接近し合従の同盟を抜けるのではないかと心配したのが呉慶となります。
呉慶の弁舌
呉慶は魏の安釐王の前で弁舌を振るいました。
ここで呉慶は秦が魏を攻める理由を天下の者達は、次の様に述べているとしました。
・秦に近く弱いから
しかし、呉慶は魏の国は趙よりも秦に近くはないと述べ、秦に近いから魏が攻められるのは間違いだとしたわけです。
さらに、魏が弱いと言っても東周や西周よりも強く「弱いから秦に攻められる」は妥当ではないと述べます。
呉慶は秦が趙の邯鄲の攻略を諦め東周と西周をよぎって魏を攻めているのは「与しやすい相手」だと思われる事が原因だと結論付けました。
ここまでが戦国策の内容であり、この後に魏の安釐王がどの様な行動を取ったのかは書かれていません。
呉慶の言いたかった事
戦国策を見ると呉慶は魏が秦に与しやすい相手だと思われているとは述べました。
しかし、呉慶は「魏が何故、秦に与しやすい相手だと思われているのか」については話してはいません。
あくまでも憶測ですが、呉慶は魏が秦に与しやすい相手だと思われるのは「信陵君がいないからだ」と言いたかったのでしょう。
趙が秦の王齕、王陵、鄭安平らに首都の邯鄲を囲まれた時に、魏の安釐王は将軍の晋鄙を援軍に派遣していますが、国境である鄴から出ない様に命じました。
安釐王の弟の信陵君は趙を救いたいと考えており、侯嬴の策で朱亥に晋鄙を殺害させ兵権を奪い趙を救いました。
信陵君は当然ながら、魏の安釐王に背いた事になり、魏に帰る事が出来ず趙で暮らす事になります。
呉慶は天下に名声がある信陵君が魏に不在なのが、秦が魏を攻める理由だと暗に言っている様に感じました。
魏は中原の大都市を傘下にしていますが、大都市は自立性が強く纏まりが欠けるのが現状です。
食客三千人を集め天下に名声がある信陵君がいなければ、大都市を一つにまとめる事は出来ないと言いたかったのでしょう。
ただし、信陵君は10年ほど魏には帰らず、10年後に帰国すると合従軍を率いて秦の蒙驁を破りました。
呉慶は何者なのか
戦国策を見ると呉慶の素性に関しては一切書かれてはいません。
東洋文庫の戦国策を見ると注釈の部分に「呉慶はおそらく、楚、趙ないし斉に親しむものであろう」とする記述があります。
実際に戦国歳の呉慶の行動を見ると、連衡論者には見えませんし、楚、趙、斉辺りに与する説客であった可能性が高いです。
さらに言えば、状況から考えて信陵君が魏の安釐王の怒りを解く為に派遣した食客の一人だった可能性もあります。
キングダムの原泰久先生が呉慶を魏の信陵君の食客の一人としたのは、あながち間違いでもないのかも知れません。
呉慶と麃公(キングダムこぼれ話)
キングダムを見ると呉慶は趙に滅ぼされた甲の王族という設定になっています。
後に顔に入墨を入れ信陵君の食客になったとあります。
信陵君は「どんな人にも礼を尽くした」とする話があり、呉慶に入墨が入っているからと言って邪険に扱う事もなかったと感じました。
キングダムの呉慶は蛇甘平原の戦いで、麃公との一騎打ちに敗れ戦死した事になっています。
史実を見ると呉慶が魏の安釐王の前で弁舌を振るったのが、紀元前257年頃であり、麃公が史書に最初に登場するのが紀元前246年の嬴政が秦王になり、将軍になった時です。
年代的に呉慶と麃公には、10年位の隔たりがなく二人が戦場で相まみえてもおかしくはないでしょう。
ただし、呉慶と麃公が一騎打ちをしたと言うのは、創作だと感じました。