周の文王(姫昌)と言えば聖人の代名詞の様な人物です。
五帝の堯や瞬、夏の始祖である禹、殷の湯王などに匹敵する徳を持った、人物ともされています。
周の文王の時代は、殷の最後の王である紂王の時代でした。
周の文王は、自らが紂王を討つ事はしませんでしたが、子である武王が周王朝を開く土台を築いたとも言えます。
周の文王は儒教などでは、自分の子である姫発(周の武王)や周公旦と並ぶ聖人とされています。
周の文王は徳により勢力を広めたとも考えられていますが、実際にはしきりに周辺国を討伐した事で勢力を拡大させた様です。
周の文王は名君である事は間違いなさそうですが、聖人とまでは行かない様に感じています。
今回は周王朝を開く土台を作ったともいえる周の文王を解説します。
因みに、周の文王(姫昌)は、殷から西方の諸侯の頭に任命され、西伯昌と呼ばれる事もあります。
後継者に指名される
周の文王の祖父を古公亶父と言います。
古公亶父も争いを好まぬ聖人の風貌があった話があります。
古公亶父は豳(ひん)を本拠地にしていましたが、異民族の侵入などもあり岐山の麓に移動しました。
岐山の麓の地が周原であり「周」の始まりとも考えられているわけです。
周原は水資源も豊富で豊かな土地だったとも伝わっています。
古公亶父には、太伯、虞仲、季歴の3人の子供がいました。
季歴の妻は太姜と言い、姫昌(後の周の文王)を生む事になります。
姫昌が生まれると古公亶父は、次の様に述べています。
古公亶父「我が子孫で興隆する者がおり、おそらく姫昌の時ではなかろうか。」
太伯と虞仲は弟の季歴の子である姫昌に、父の古公亶父は周を継がせたいと考えている事を知り、太伯と虞仲は出奔する事になります。
この時に太伯と虞仲は入れ墨を入れて周に戻る意思がない事を示し、荊蛮の地に行き呉の始祖になったと伝わっています。
ただし、太伯と虞仲が行った場所は呉ではなく、虞だったとする説もある状態です。
それでも、太伯と虞仲が周を出たお陰もあり、姫昌は周の後継者への道が開かれる事になります
尚、姫昌には虢仲、虢叔、潘季孫などの弟がいた話しもあります。
古公亶父が没すると季歴(公季)が周の後継者となりますが、義を行った事で諸侯の信頼を得て、多くの諸侯が服従したとあります。
公季が亡くなると、姫昌が即位する事になったわけです。
余談ですが、竹書紀年に古公亶父は、殷の文武丁により餓死させられた話があり、周の文王や文王が殷を討とうとした理由の一つだと考える専門家もいます。
殷と周の関係の謎
史書などでは殷の配下に周がいる事になっています。
しかし、甲骨文字の中には、殷が周を征伐するのか占った記録もあるわけです。
これを見ると、殷と周は敵対関係だった様にも見えます。
その反面で、殷が周に命令した記録や周から嫁いできた妃の病気を案ずる様な甲骨も見つかっています。
甲骨文字からは史書にはない、殷と周が婚姻関係だった話もあり、内容が分りにくいとも言えます。
この状態を考えると、周は殷に常に服属していたわけではなく、時には敵対したり、婚姻関係を結んだりして同盟を行ったりしていたのでしょう。
古公亶父が周原に移り、官制を整えだした頃から周は強大になって行った様に思いました。
士が帰服する
姫昌(周の文王)は即位すると、古公亶父や季歴の善政を継承し、仁に篤く、老を敬い、賢者に礼したので、多くの士が周に帰服した話があります。
姫昌が善政を好んでいる事を知ると、散宜生、太顛、閎夭、辛甲大夫らも周に帰服する事になります。
狐竹国の伯夷・叔斉 も姫昌の許に行ったと伝わっています。
周の武王時代に、殷の紂王を牧野の戦いで破る事が出来たのは、周の文王が集めた人材の力による所もあるでしょう。
太公望呂尚を得る
周の文王や武王の軍師と言えば、太公望を思い浮かべる人も多いはずです。
姫昌が狩りに出かけようとして占ってみると、次の様に出た話があります。
「獲るところは、竜でも虎でも羆でもなく、覇王の補なり」
つまり、姫昌が狩りに出れば、自分を覇王に押し上げる事が出来る有能な人材を得る事が出来ると出たわけです。
周の文王は渭水の畔で釣りをしている呂尚と出会い、話をしてみると大いに喜び次の様に述べています。
姫昌「あなたこそ、我が太公(古公亶父)が望んだ人物である。」
この様に述べて、呂尚を太公望と呼び師と仰ぐ事になります。
軍師の代名詞ともなる太公望呂尚ですが、漢の劉邦の軍師であった張良や陳平、三国志の劉備配下の諸葛亮などに比べると不透明な部分も多いです。
中には、太公望呂尚はいなかったのではないか?とすらする説もあります。
ただし、周の文王と召公奭の周召同盟を結成させたのは、太公望の手柄ではないか?とする説もある様です。
太公望は伝説上の人物にも見えます。
西伯昌に任命される
周は大国になり殷からは西伯昌に任命される事になります。
西伯昌は、西方の諸侯の頭を意味します。
殷の三公の一つにもなり、周は大諸侯となるわけですが、史書によれば殷の紂王に幽閉される事になります。
史記では、同じく三公の九侯、鄂侯が処刑されたのを見て、周の文王がため息をつくと、姫昌は幽閉される事になったわけです。
しかし、三公になると言う事は、周の文王の代になる頃には、強大な勢力になっていた事が分かります。
羑里に幽閉
史書によれば周の文王は、殷の紂王により幽閉された事になっています。
羑里に幽閉された理由は、先に述べた様に「ため息」の話もありますが、崇侯虎が讒言した話もあります。
崇侯虎は次の様に殷の紂王に述べた話が史記にあります。
崇侯虎「西伯(姫昌)は善を積み徳を重ね、諸侯はみな姫昌に関心を寄せています。そのうち帝(殷の紂王)に背く事になるでしょう。」
史記の周本紀では、崇侯虎の讒言により姫昌は幽閉される事になっているわけです。
周の文王の配下である太顛、閎夭や殷の紂王に貢物を送り、殷の紂王は満足し姫昌を釈放しています。
尚、西伯昌が釈放される前に、殷の紂王は姫昌の長子である伯邑考を肉餅(ハンバーグの様なもの)にし、姫昌を試した話もあります。
周の太顛、閎夭らは、殷の佞臣である費仲にも賄賂を贈った事で、費仲が殷の紂王に進言し、姫昌に王位が与えられる事になった説もある様です。
羑里からの釈放後に、殷の紂王から忠臣と認められ、周の文王になった説も存在している事になります。
周の文王は釈放されると、殷の紂王に土地を献上し、炮烙の刑などを廃しする様に訴えた話が残っています。
周の文王の治世
姫昌は、先にも述べた様に善政を行っています。
虞と芮が争った時に、紛争が解決せず、周の文王に調停を依頼しています。
虞と芮の君が周に入ると、周では田を耕す人々は畔を譲り合い、民の風習は長者に譲り合う姿を目撃しました。
これを見た虞と芮の君は次の様に述べています。
「我々の争う所は、周人の恥とする所である。ここで訴えに行けば恥をかくだけである。」
この様に言うと虞と芮の君は、領地に帰り譲り合った話があります。
この話を聞くと、諸侯は「西伯は天命を受けた君である」と述べ、周に心を寄せた話があります。
これを見ると、文王は徳により政治を行い聖王という感じがするはずです。
しかし、殷では文武丁の頃から中央集権化を行っており、殷の紂王の頃には、殷に対する反発が強くなっていました。
そうした諸侯の不満の受け皿になっていたのが、周であったように個人的には感じています。
尚、甲骨文を見る限りでは、殷の紂王は怠惰な君主ではなく、真面目で精力的な君主です。
ただし、殷の首都から近い盂で反乱が起きてからは、振るわなくなった話があります。
周の文王の策略
韓非子に、周の文王が殷の混乱を狙った話があります。
周に玉版があり、殷の紂王が玉版を欲し、配下の膠鬲に求めさせた話があります。
しかし、周の文王は膠鬲が賢臣である事を知ると、玉版を渡そうとはしませんでした。
殷の紂王は玉版を諦める事が出来ず、費仲を周の文王に派遣する事になります。
周の文王は費仲が佞臣だと気が付き、玉版を渡す事にします。
殷の紂王は費仲の手柄により、玉版を手に入れる事になったわけです。
周の文王が賢臣の膠鬲ではなく、佞臣の費仲に玉版を渡した理由は、殷の紂王が賢臣を遠ざけ、佞臣を近づける事を望んだ為と言われています。
これを考えると、周の文王には野心があり、殷の転覆を狙っていたとも言えるでしょう。
韓非子の話が史実であれば、周の文王は仁義の人というわけではなく、策略も好んだ野心家だった事が伺い知る事が出来ます。
周の勢力拡大
実際の周の文王は、徳ではなく戦いにより勢力を拡大した様に感じています。
史記によれば犬戎を討ち、密須を討ち、周辺国をしきりに討伐した話があります。
周の文王の晩期には、崇侯虎も討ち取っており、周の武威を大いに見せつける事になったわけです。
周の文王は崇侯虎を討つと、本拠地を岐山の麓にある周原から、豊邑に遷都した記録もあります。
周の文王は国力が盛んになった事で、新都を大規模に造営したのでしょう。
ただし、周の武王の時代になると、周の首都は豊邑から鎬京へと移されています。
史記によれば、周の文王の在位は50年だとされていますが、その間に多いに国力を高める事に成功した事が分かります。
尚、戦国時代に長平の戦いで敗れた趙が首都の邯鄲を秦に囲まれる事がありました。
趙の宰相である平原君は食客の毛遂を連れて、楚に救援を求めに行く事になります。
毛遂が楚の考烈王に語った言葉で、次の話があります。
「殷の湯王は70里の地をもって諸侯の王となった。周の文王は100里の地をもって諸侯を臣とした。」
この言葉を見ると、周は文王が季歴から跡を継いだ頃には、土地は少なかったが、50年の歳月を得て強大になったとも読み取る事が出来るはずです。
それか周に武力はなかったが、徳の力で諸侯を臣従させたとも考える事が出来ます。
ただし、毛遂の言葉は楚に援軍を出させる為のパフォーマンスであり、真実ではない可能性もあるでしょう。
尚、周の文王の時代に天下の三分の二は、周のものになったとする記述もありますが、「ありえない」と考える人もいるようです。
それでも、周の文王が亡くなる頃には、周は殷を凌ぐほどの勢力になっていた事も十分に考えられます。
周の文王の最後
周の文王の最後は、よく分かっていません。
物語である封神演義や横山光輝さんの殷周伝説などでは、崇侯虎を討伐した後に、体調を崩し亡くなったとしています。
異説としては、殷の紂王により羑里に幽閉され、亡くなったとする説もあります。
羑里に幽閉された時に亡くなった説ですが、周の武王が殷の紂王を討伐する時に、文王の位牌を持っていた話があります。
周の武王が位牌を持った理由に関しては、周の文王が羑里で亡くなってしまい、父の無念を晴らす為という意味があるのではないか?と考えられるからです。
周の文王の最後として統一される見解としては、周の文王の代で、周は強大な勢力にはなったが、殷を滅ぼす前に亡くなったと言う事です。
史実の周の文王を見る限りでは、徳により国を発展させた聖王ではなく、武力により国力を増大させた名君だと言えるでしょう。
周の文王の子孫
周の文王の子孫に関して解説します。
周の文王の皇后は、太姒であり10人の子供を生んだ事になっています。
子孫は次の様になっています。
伯邑考→殷の紂王に処刑される、子孫はどこに封じられたのか不明
姫発→周の武王となり周王朝を開く
管叔鮮→殷周革命後に管に封じられるが三監の乱で命を落とす
周公旦→聖人として名高い人物。息子の伯禽が魯の始祖となる
蔡叔度→殷周革命後に蔡に封じられるが、周の成王の時代に起きた三監の乱で敗れて流罪となる。
曹叔振鐸→曹の始祖となる
成叔武→殷周革命後に成に封じられる
霍叔処→霍に封じられるも三監の乱で敗れ追放される。周公旦によって子が霍に封じられた話もある。
衛康叔→衛の始祖となる。
冉季載→三監の乱の後に、冉に封じられる。司空となり周の成王を補佐する。
周王朝は続きますが、代を重ねる事に血縁は薄れていき互いに討伐しあった話もあります。
周の文王が基礎を築いた周王朝は紀元前770年に周の幽王が申公や犬戎に殺害されるまでを西周王朝と呼び、紀元前256年に周の赧王が秦に滅ぼされるまでを、東周と呼んだり春秋戦国時代と呼びます。
尚、中国史上最も長く続いた王朝は、前漢、後漢を合わせて400年の歴史があるとされる漢王朝ですが、周王朝は西周と東周を合わせれば700年続いたとする説もあり、歴代最長の王朝は周王朝だと言う人もいます。
それを考えれば、基礎を造り上げた周の文王は偉大な人物だと言えるでしょう。
ただし、周王朝は首都を鎬京から洛陽に移した、周の東遷以降は振るわなくなり、名目だけの天下の主となっています。
周の文王と曹操
曹操は後漢王朝において、圧倒的な権力を手中に納め丞相になっただけではなく、魏王にまでなっています。
後漢王朝において、献帝を抑えた暴君と言われた董卓ですら、相国であったのに対し、曹操は魏王にまでなっています。
しかし、曹操は皇帝になろうとはしませんでした。
配下の夏侯惇が曹操に天意に沿って天下の主になる事を勧めますが、曹操は「自分は周の文王だ。」と言い聞き入れなかった話があります。
つまり、曹操は自分は皇帝になるつもりはない、皇帝になるとしたら息子である曹丕だと言いたかったのでしょう。
実際に、曹操は周の文王を見習ったのか、最後まで皇帝に即位する事はありませんでした。
ただし、曹操の子である曹丕は後漢の献帝から禅譲という形で皇帝に即位しています。
尚、曹操は故人と同じ行動をする事を好んだと見られる部分があり、配下の司馬懿が隴を取った時も「隴を得て蜀を望む」の言葉を残し蜀を攻め取ろうとはしませんでした。
「隴を得て蜀を望む」の言葉は、後漢王朝の創始者である光武帝劉秀が残した言葉でもあり、曹操も故人にならったのでしょう。
ただし、光武帝は後に蜀の公孫述を配下の呉漢が降し天下統一しますが、曹操は最後まで蜀の劉備を倒す事は出来ませんでした。
話しを戻しますが、曹操は周の文王の生き様を見本にした部分の多々あったのでしょう。