斉(春秋) 春秋戦国時代

斉の桓公は卓越した君主だった

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宮下悠史

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名前斉の桓公
姓・諱姜小白
生没年生年不明ー紀元前643年
在位紀元前685年ー紀元前643年
時代春秋戦国時代
一族父:僖公 兄弟:襄公、公子糾、文姜、宣姜
配偶者:王姫、徐嬴、蔡姫、長衛姫、少衛姫、
鄭姫、葛嬴、密姫、宋華子
子:公子無詭、孝公、昭公、懿公、恵公、公子雍、斉姜
コメント春秋五覇に必ず数えられる人物

斉の桓公は春秋時代の斉の君主であり、晋の文公と並び春秋五覇にも必ず入る人物です。

人肉を食べたなどの話でも、有名ではないかと感じています。

史記などの影響から、斉の桓公は凡庸な君主だと思っている人も多いのではないでしょうか。

しかし、同時代資料に管仲の名前が登場しない事もあり、管仲の実在性が疑われ、斉の桓公自身が卓越した能力を持った君主だった可能性も高いはずです。

斉の桓公は父親の斉の僖公襄公が築いた諸侯同盟の体制を継承し、盟主となり中原を支配しました。

斉の桓公の最後はウジ虫が湧くなど悲惨極まる姿としても、有名な事でしょう。

それでも、生きている内は、大きな間違いをせず、斉覇の全盛期を築く偉大な君主だと言えるのではないでしょうか。

斉の桓公の即位

春秋左氏伝によると、小白は斉の襄公の時代に身の危険を感じたのか、莒に亡命しました。

兄の公子糾は魯に亡命しています。

紀元前686年に斉の襄公が公孫無知に襲撃され亡くなりました。

公孫無知が斉の君主となるも、直ぐに雍廩に討たれています。

斉の君主の座が空白となりますが、一早く斉に帰ったのが、小白であり、これが斉の桓公です。

史記だと小白が斉に向かう最中に、管仲が弓矢で暗殺しようとした話がありますが、春秋左氏伝にはありません。

近年の研究では、斉の桓公が即位した後に、魯の荘公が自国に亡命していた公子糾を斉に入れようとして動いたと考えられています。

春秋にも斉と魯で勃発した乾時の戦いが記載されており、斉と魯の戦いが起きた事は間違いなさそうです。

乾時の戦いでは、斉軍が圧勝しました。

斉の鮑叔が軍を率いて魯に行き、公子糾は自害し召忽は殉じましたが、管仲は斉に入りました。

公子糾が世を去った事で、斉の桓公が後継者争いの勝利が確定する事になります。

春秋左氏伝には鮑叔の言葉もあり、管仲が国政の中心になった話が掲載されています。

斉の桓公の覇者体制構築

宋の乱を平定

宋の湣公が紀元前682年に南宮万により、命を落としました。

宋子游が宋の君主となりますが、南宮万と共に大夫たちとの戦いに敗れ他界する事になります。

宋では桓公が立ちました。

宋は乱れますが、翌年である紀元前681年に斉の桓公は北杏で宋、陳、蔡、邾の人々と会合を開いています。

斉の桓公は宋の内紛を平定しました。

尚、北杏の会に遂が来なかった事で、斉の桓公は遂を滅ぼした話があります。

この年に斉の桓公と魯の荘公は、柯で会盟を行いました。

魯は斉の後継者争いで、公子糾に味方した事で敵対関係となっていましたが、柯の会で講和が成ったと言えるでしょう。

ただし、同年に宋が北杏の盟約に背く行為を行いました。

斉が周と諸侯の軍を率いて宋に侵攻

宋が北杏の会に違約した事で、斉と宋は敵対関係となります。

斉と宋が敵対するのは、30年ぶりであり、斉の桓公も驚いた事でしょう。

紀元前680年に斉、陳、曹の軍で宋を討ちました。

この時に斉の桓公は東周王朝に連絡を入れており、兵を出す様に要請しています。

周の釐王は単伯に命じて、斉軍に合流させています。

斉は宋との講和に成功しました。

春秋左氏伝よると、同年に周の単伯、斉の桓公、宋の桓公、衛の恵公、鄭の厲公が鄄で会合を行っています。

宋が服従した事で、改めて会合を行ったのでしょう。

斉の桓公が覇者となる

翌年である紀元前679年に再び斉の桓公は鄄で会合を開きました。

斉の桓公の呼びかけに応じ、宋の桓公、陳の宣公、衛の恵公、鄭の厲公が集まる事になります。

史記及び春秋左氏伝では、紀元前679年の会合で、斉の桓公が初めて覇者になったと記録されました。

これ以降の会合では、爵位の順位ではなく、斉の桓公を上位に置く書法が採用される様になります。

尚、2度目の鄄の会で中原諸侯は全て、斉との同盟関係になったとも考えられています。

斉の桓公の覇者体制が完全に構築されました。

覇者体制の整備

同盟内平和

紀元前679年に鄭が宋に出兵しました。

鄭も宋も斉の桓公の同盟国でもあります。

紀元前678年に斉の桓公は、宋と衛に兵を出させ鄭を討つ事になります。

斉の桓公が鄭を討つ決断をしたのは、同盟国内の和を乱したからだと考えたからでしょう。

鄭は宋を攻めた事で、覇者の斉の桓公による、懲罰を受けた事になります。

この頃の、斉の桓公は同盟内の平和を強制し、争いを抑制する様になりました。

同年にが鄭を討つと、鄭は斉や宋との講和し、幽において斉の桓公、魯の荘公、宋の桓公、陳の宣公、衛の恵公、鄭の厲公、許の穆公、滕の文公らが盟約を結んでいます。

この頃にでは60年続いた内乱が終わり、肥曲の武公が晋侯として認められました。

紀元前676年には晋の献公が虢公の仲介により、東周王朝に朝しています。

秩序の構築

紀元前677年に鄭が斉の同盟から離反しました。

斉の桓公は鄭が朝見しなかった事を理由に、鄭の執政である詹を捕らえました。

斉の桓公が詹を捕らえた理由を「朝見」としており、斉の桓公は同盟国内で東周王朝に対する朝見を義務付けていたのでしょう。

紀元前675年には斉が宋、陳と共に魯の西部を攻撃しており、会盟への不参加が原因だと考えられています。

春秋経によると、紀元前674年に斉で大災があったと記録されていますが、何があったのかは不明です。

災害があれば、「悪い事の前兆」と見る事も出来る様にも見えますが、斉の桓公は覇者体制の構築に邁進する事になります。

斉魯関係の強化

紀元前672年に魯の荘公が斉に行き、斉の桓公に納幣を行った話があります。

同年に魯は斉の高傒と防にて盟約を行いました。

斉魯関係は回復に向かったとみる事が出来ます。

紀元前671年には、魯の荘公は斉へ社祭の見物に行こうとしますが、曹劌が諫めた話があります。

それでも、魯の荘公は斉に出かけて行きました。

春秋左氏伝では「礼に合していない」と批判されていますが、斉の桓公との関係の良好さを示すとみる事も出来るはずです。

紀元前670年には斉と魯で通婚が行われており、斉・魯関係は強化されたと言えるでしょう。

斉陳関係の回復

紀元前672年に陳完が斉の桓公の元に亡命してきました。

これにより斉の桓公と陳の宣公の関係が、悪化する事になります。

陳完の子孫が田常であり、斉の公室を乗っ取り田斉を立ち上げる方向に向かいました。

紀元前667年に幽の会を開き、斉の桓公、魯の荘公、宋の桓公、陳の宣公、鄭の文公が会見を行っています。

斉の桓公にとって、2度目の幽の会となりましたが、関係が悪化していた陳や鄭との友好関係が回復したとも言えるでしょう。

斉の桓公の衛への出兵

紀元前667年に周の恵王は召伯廖を斉に派遣し、斉の桓公に衛への出兵を要請しました。

周の恵王は衛が王子頽に味方した事を、問題視したのでしょう。

紀元前666年に斉の桓公は衛を攻撃し、勝利しています。

衛の懿公は斉に対し賄賂を贈り、斉の桓公は賄賂を受け取り講和が成立しました。

斉の桓公は東周王朝の命令で衛を討伐したにも関わらず、賄賂を受け取り講和を結んでおり、不名誉な講和だとみる事も出来ます。

それと同時に、斉から見て西方に位置する衛は、興味が薄かったのでしょう。

それでも、この時期に斉の桓公は離反する中原諸侯を上手く纏め上げ、覇者体制の整備を行ったとみる事が出来ます。

斉の桓公の対外政策

斉の桓公が燕、邢、衛を救う

紀元前664年に山戎が北燕に侵攻しました。

燕の荘公は斉の桓公に援軍を要請したわけです。

斉の軍は北燕を救いました。

紀元前662年には斉の桓公は宋や曹と共に、狄の攻撃を受けた邢を助け、夷儀に遷都させています。

斉の桓公が邢を救った事例を春秋左氏伝では「礼に合している」と高く評価しました。

朝歌を本拠地としていた衛は、紀元前660年に狄の攻撃を受けて滅亡しました。

この戦いで、衛の懿公も亡くなっています。

紀元前658年に斉の桓公は諸侯と共に、楚丘に築城し衛を再建しました。

斉の桓公が楚の野望を砕く

は斉の桓公の時代である紀元前684年及び、紀元前680年の二度に渡り、蔡を降しました。

こうした事情もあり、蔡は北杏の会以降の斉の桓公の会盟に参加出来なかったわけです。

蔡は紀元前680年には、楚に従属する事になりました。

楚は紀元前678年以降は鄭に出兵しており、斉の桓公は中原の諸侯を率いて鄭を救っています。

紀元前658年に斉の桓公は江や黄と同盟関係を促進しました。

江や黄は楚に近い地域であり、斉の桓公は徹底抗戦の態度を示したとも言えるでしょう。

紀元前656年に斉の桓公は宋の桓公、陳の宣公、衛の文公、鄭の文公、許の僖公、曹の昭公らと共に蔡に侵攻し降しました。

史記では蔡姫に腹を立てた斉の桓公の話がありますが、それ以前から蔡への出陣を決めていたのでしょう。

斉の桓公を総大将とする軍は、さらに楚に侵攻する事になります。

ここで管仲が楚を非難した話もありますが、斉の桓公は楚の成王との間で召陵において盟約を結ぶ事になります。

楚の成王は斉の桓公により、中原進出の野望は砕かれました。

この時期に魯では魯の閔公と僖公の皇位継承における内紛が勃発していますが、斉の桓公が介入しています。

斉の桓公は覇者としての役目を果たし、諸国に対しても威厳があったのでしょう。

尚、紀元前656年は斉の桓公は申候の言葉もあり、陳に侵攻し不義を働いた轅濤塗を捕虜とした年でもあります。

斉の桓公と東周王朝

首止の会

紀元前655年に、斉の桓公は魯の僖公、宋の桓公、陳の宣公、衛の文公、鄭の文公、許の僖公、曹の昭公、周の世子鄭(周の襄王)と首止の会を開きました。

この時に、周の恵王は宰公を派遣し、の援助が受けられると説き、鄭の文公は斉の桓公の同盟から離脱し、帰国してしまったわけです。

東周王朝の恵王は王子帯を寵愛して、晋や楚に接近しており、結果として太子の周の襄王は斉との関係を強めました。

斉の桓公は紀元前654年に、諸侯の軍を率いて鄭の新城を包囲しています。

斉の桓公と周王の思惑

紀元前653年に周の恵王が亡くなりました。

周の襄王は太子でしたが、弟の叔帯が反乱を起こすのではないかと心配し、斉の桓公に相談しました。

紀元前652年に斉の桓公は洮で、魯の僖公・宋の桓公・衛の文公・許の僖公・曹の共公・陳の世子款らと会合を開いています。

斉の桓公は王室の混乱を平定しました。

紀元前651年には、斉の桓公は葵丘で再び会盟を行い、周の宰孔、魯の僖公、宋の桓公、衛の文公、鄭の文公、許の僖公、曹の共公らと会見を行っています。

この時に周の襄王は宰孔を派遣しており、文王や武王の胙を斉の桓公に下賜しました。

周の襄王は斉の桓公に、文王や武王を補佐した太公望と、同じ活躍を求めたと考えられています。

これを見ると、宰孔は斉の桓公に好意的に見る事が出来ますが、態度が傲慢と考えたのか、晋の献公に斉の桓公が主催する会盟に参加しない様にと告げました。

尚、この年に晋の献公は没しており、の内部では混乱があった事で、斉の桓公は高梁にまで出兵しています。

晋の恵公を擁立

秦の穆公は夷吾を晋に入れました。

夷吾が晋の恵公です。

紀元前650年に東周王朝では、周公忌父と王子党を派遣し、斉の桓公も隰朋を向かわせ、晋の恵公擁立に協力しました。

斉の桓公と王子帯

紀元前649年に、王子帯は戎に王城を攻撃させますが、晋とが救援に入りました。

晋は東周王朝と戎を講和させています。

紀元前648年になると、斉の桓公は管仲隰朋を派遣し、東周王朝・と戎を調停しました。

翌年の紀元前647年には斉の桓公は王子帯の帰国を斡旋するも、失敗に終わっています。

同年に斉の桓公は鹹の会を主宰し、魯の僖公、宋の襄公、陳の穆公、衛の文公、鄭の文公、許の僖公、曹の共公と会合を行いました。

尚、周の襄王は斉の桓公の支援で周王になれましたが、東周王朝は西方にあり、斉とは離れていた事から、晋や秦に接近する事になります。

徐への救援

紀元前645年に斉の桓公は牡丘で、魯の僖公・宋の襄公・陳の穆公・衛の文公・鄭の文公・許の僖公・曹の共公と会合を行いました。

斉の同盟に参加した徐がに圧迫されており、徐を助ける為の相談をしたわけです。

斉の桓公は徐を救援するために、曹と共に厲を攻撃した記録も残っています。

しかし、徐は楚に敗れました。

紀元前643年に斉の桓公は英氏への侵攻を決断し、楚が徐を破った事への報復としています。

築城の失敗

紀元前644年に、斉の桓公は淮で魯の僖公・宋の襄公・陳の穆公・衛の文公・鄭の文公・許の僖公・曹の共公と会見を行い鄫に城を築く決断をしました。

鄫での築城が行われましたが、作業環境がかなり悪かったのか、服役者が疲労困憊となり、夜間に丘に登り「斉に乱が起きるぞ」と叫びました。

斉の桓公は鄫での築城は不可能と考えたのか、城は完成しないままで撤退に移る事になります。

斉の桓公と人肉

斉の桓公が「人間の子供だけは、また食べた事がない」と述べた事がありました。

これを聞いた料理人の易牙は、自らの子を蒸し焼きにし、斉の桓公に献上し、出世する事になります。

斉の桓公は人肉を食べてしまった事になるでしょう。

易牙は料理が得意であり、斉の桓公は気に入りますが、人肉の話は人道的に普通ではなく、管仲は易牙に政治を任せるのに反対しました。

管仲の死

紀元前645年に管仲が亡くなりますが、この時に斉の桓公に易牙・豎刁・公子開方を遠ざける様に進言しました。

さらに、列子では鮑叔にも政治を任せてはいけないと、告げた話が残っています。

管仲は不義な者に政治を任せてはいけないとしたわけです。

管仲は自分の後継者に、隰朋を推薦して亡くなりますが、隰朋も同年に亡くなりました。

ここで、斉の桓公は易牙・豎刁・公子開方を近づけてしまった話が、史記や春秋左氏伝にあります。

斉の桓公の後継者

斉の桓公の三夫人である王姫、徐嬴、蔡姫には男子が生まれませんでした。

色好みな斉の桓公には、夫人と同様の寵愛を受けた者が6人いたわけです。

下記が斉の桓公の夫人と子の一覧となります。

武孟恵公(元)孝公(昭)昭公(潘)懿公(商人)公子雍
長衛姫少衛姫鄭姫葛嬴密姫宋華子

斉の桓公は昭(孝公)を後継者に指名し、宋の襄公に託し太子としました。

管仲が亡くなると、昭以外の公子らは、自らが後継者になろうと争う様になります。

さらに、斉の桓公が病に倒れると、公子たちの争いも激化しました。

斉の桓公の最後

斉の桓公は在位43年で亡くなりました。

紀元前643年に亡くなった事になるのでしょう。

斉の桓公が亡くなると、公子たちの争いは熾烈を極める事になります。

これにより、太子昭は国君になる事が出来ず、宋に逃亡しました。

公子たちは争い、斉の桓公の遺体は、納棺もされず放置される事になります。

斉の桓公の屍は寝台の上に置かれたままであり、うじが湧き出る始末だったと史記にあります。

無詭が後継者になると、漸く斉の桓公の死が発表され、葬式が行われました。

先代:襄公桓公次代:無詭

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