
| 名前 | 韓の昭侯(釐侯) |
| 姓・諱 | 韓武 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前333年 |
| 在位 | 紀元前363年ー紀元前333年 |
| 時代 | 戦国時代 |
| 一族 | 父:懿侯 子:宣恵王 |
| コメント | 申不害を宰相にした記録がある。 |
韓の昭侯は春秋戦国時代の韓の君主です。
史記の記述を見ると、韓の昭侯の時代に申不害が宰相となっており、韓が強かった様な記述があります。
申不害がいた韓の昭侯の時代が、韓の全盛期だったとする見方も存在している状態です。
しかし、実際のところ韓の昭侯の時代であっても、魏や趙とは同盟を結んだり、敵対したりを繰り返しました。
韓の昭侯の晩年は秦を盟主とする同盟に加わったりもしており、韓の圧倒的な強さは感じられない状態です。
今回は韓の昭侯を解説します。
尚、韓の昭侯は釐侯と書かれる場合もあります。
三晋の争いと講和
韓の昭侯の父親である韓の懿侯の時代の後期に、趙と魏が結び韓は秦に接近しました。
しかし、趙と魏の仲が悪化すると、韓は秦との好誼を断ち趙に接近する事になります。
紀元前362年に趙と韓の連合軍は澮の戦いで、魏と戦いますが敗れました。
史記の韓世家には韓の懿侯の時代に、澮水の畔で韓と魏が戦って敗れた記録がありますが、澮で戦ったのは韓の昭侯の時代だと考えられています。
この後に、韓の昭侯と趙の成侯は上党で会見を行い、魏との戦いを継続しました。
韓と趙は魏と戦ったり、秦に攻め込んだりするも結局は上手くいかず、魏と講和する事になります。
竹書紀年によると、韓の昭侯は巫沙で魏の恵王と会見を行い、土地の交換などを行いました。
韓、魏、趙の三晋は団結して、秦に当たろうとした表れでもあります。
ただし、この時の趙はかなり国が疲弊していた様です。
紀元前360年に東周王朝が秦の孝公に胙を贈っていますが、韓の昭侯が中心となり、韓、魏、趙で秦を懐柔しようとしたのでしょう。
秦の方でも独力で三晋連合と戦いのは、困難であり講和が成立しました。
韓魏対立
三晋講和が成立した紀元前361年頃に、魏の恵王は首都を安邑から大梁に遷しました。
魏は趙と共に斉に出兵するなどしており、東方での勢力拡大を考えたとも言えるでしょう。
しかし、大梁は韓の首都である新鄭に近い場所でもあり、韓の昭侯にしてみれば脅威でもありました。
竹書紀年には魏が大梁周辺の土地開発事業を活発に行った記録がありますが、これが韓の権益とぶつかる事になります。
趙の方はこの時期に先の戦いでの損害が大きく弱体化しており、竹書紀年によると紀元前358年に韓の昭侯は趙から屯留、長子などの三邑を割譲させました。
この時に、屯留にいた晋の孝公は端氏に遷したと考えられています。
韓の昭侯は趙の弱体化に伴い、上党への進出も目指したわけです。
しかし、韓の上党地方の強化は魏の旧都である安邑と、東の首都大梁の連絡を脅かすものでもあり、結局は魏と韓の仲は悪化しました。
韓の昭侯の苦難
魏と韓の戦いが始まりますが、竹書紀年に紀元前358年に楚が黄河まで侵入した記録があります。
楚は韓を助ける為に現れたとも考えられており、韓の昭侯が楚の宣王に救援要請をしたのでしょう。
楚は魏と対立しており、韓の昭侯の要請に応じたと考えられています。
しかし、魏と韓の戦いが始まった事を見た秦は韓の西山を攻撃し勝利しました。
秦と楚は長きに渡り同盟関係にありましたが、楚は韓に味方しており、楚秦戦争の可能性もありましたが、楚と秦は争わず婚姻により関係を強化しました。
結果として楚軍も撤退し、韓の昭侯は苦しい立場となります。
紀元前357年に宋が韓を討ち黄池を取り、魏が韓の禾を取った記録が史記にあります。
魏が宋と共に韓への攻勢を強めたのでしょう。
魏に屈する
韓の昭侯は楚には撤退され、秦、魏、宋を敵に回し苦しい状態になっていました。
状況を打破する為に、韓の昭侯は魏の恵王に講和を打診する事になります。
紀元前357年に韓の昭侯は魏の恵王と巫沙で会見を行い、魏は韓の宅陽の包囲を解き釐邑を返還しました。
韓の昭侯は魏に大梁から近い平丘や首垣(長垣)などの諸邑を割譲するだけではなく、上党から南陽に抜ける主要街道を割譲しています。
魏は韓に鹿邑を与えました。
韓の昭侯は魏に屈する形となり、宋、衛、魯などの国々も魏に朝しています。
これにより魏の覇権が復活したかに見えましたが、趙が斉に接近するなどもしており、魏の覇権は長く保つ事は出来ませんでした。
焦城の戦い
紀元前354年に秦の孝公は韓に侵攻し、焦城を包囲しました。
さらに、秦は上枳、安陵などに築城を行っており、韓の新鄭と魏の大梁の連携を断とうとしました。
韓の昭侯を屈服させる狙いがあったのでしょう。
しかし、韓の昭侯は屈せず、焦城を守り切る事に成功しました。
韓が東周王朝を攻撃
竹書紀年によると、紀元前353年に韓の昭侯は東周王朝を攻撃し、陵観、邢丘を取り、さらには高都や利を割譲されました。
韓が東周王朝を攻撃したのは、前年の秦の侵攻に東周王朝の一部が加担していたからだとされています。
東周王朝は領地を韓に囲まれていましたが、韓に囲まれ介入されるのを嫌がり、秦と繋がったのではないか?と考えられています。
しかし、韓の昭侯にしてみれば、東周王朝が叛いたと感じたのか、東周王朝を攻撃したのでしょう。
周の顕王は韓の攻撃に焦り、土地の割譲を裁可したとみる事も出来るはずです。
尚、東周王朝と秦の繋がりは、秦の中原進出への大義名分になっているとも考えられています。
韓の昭侯が魏に接近
竹書紀年に紀元前353年に韓の昭侯が、中陽にいた魏の恵王に朝した話があります。
秦に対抗する為に、韓の昭侯は魏の恵王に頭を下げたと言えるでしょう。
当時の魏は襄陵を斉に攻められていましたが、紀元前352年に韓の昭侯は魏の為に兵を出し、襄陵の包囲を解きました。
斉も魏と講和する事になります。
さらに、魏は趙と講和し秦の孝公は中原への進出を断念せざるを得なくなります。
紀元前350年までには、秦や楚も魏と講和しました。
晋の滅亡
韓の昭侯が晋の静公を誅す
紀元前350年に趙の成侯が亡くなり、趙の粛侯と公子緤が後継者の位を争いました。
戦いに敗れた公子緤は韓に亡命しており、公子緤の背後には韓の昭侯がいた可能性があります。
この翌年である紀元前349年に晋の静公が、端氏を接収し、晋の静公は屯留に移動しました。
この時の、屯留は韓の領地であり、晋の静公を韓の昭侯が対処する事になります。
史記の韓世家の韓の昭侯の時代の記述に「韓姫が主君の悼公を誅した」とあります。
ここでいう悼公が晋の静公であり、韓姫は韓の大臣とする説もありますが、韓の昭侯ではないかと考えられています。
韓の昭侯配下の大夫が晋の静公を殺害した場合は「盗」と記載され、名前を記載しないのが普通であり、韓姫は晋の静公の直臣でもある韓の昭侯だとされています。
韓の昭侯が晋を滅ぼした可能性は高いと言えます。
韓の昭侯が晋を滅ぼした理由
竹書紀年によると、紀元前351年に趙は晋に泫氏を割譲しています。
名前だけの超弱小勢力である晋が実力で泫氏を趙から取るのは難しく、韓の昭侯が晋の公室に与える名目で趙に要求したと考えられます。
当時の趙は弱体化しており、韓の要求を突っぱねる事が出来ず、泫氏を晋の公室に割譲しました。
土地を割譲された晋は韓に誼を通じたとも言えます。
紀元前350年の趙の粛侯の即位にあたっては、後継者争いが勃発しますが、戦いに敗れた公子緤は韓に亡命しました。
趙の粛侯は晋の静公が韓に通じていると考え、追放してしまったのでしょう。
晋の静公は韓が領有する屯留に行きますが、この時点で魏の恵王の在位年数は20年を数えており、韓の昭侯が晋の正卿になれる大義名分はありませんでした。
韓の昭侯は晋の静公に対し「利用価値がない」と判断し、晋の静公を誅したと考えられています。
韓の昭侯により晋は滅亡しました。
秦を盟主とする同盟
後に公子范(公子緤)が邯鄲に侵攻しましたが、戦死しています。
後に趙と魏が対立し、紀元前343年には秦が軸となる趙、韓、斉の同盟も出来上がる事になります。
東周王朝の周の顕王も秦の孝公を覇者として認めました。
この頃に魏の恵王は称王を行っており、東周王朝の覇者体制の根絶を目指し、韓に侵攻しました。
韓の昭侯は魏との戦いに敗れますが、援軍要請を行い斉が動く事になります。
竹書紀年によると紀元前342年に、韓は魏に梁赫の戦いで敗れたとあります。
しかし、魏軍は斉に馬陵の戦いで大敗北を喫しました。
この後に、秦軍が逢沢までやって来て、趙、韓、斉で圧力を掛け魏の恵王は一時的に降伏したと見られています。
韓の昭侯らは同盟の盟主である秦を迎え、魏にプレッシャーを掛けたのでしょう。
韓の昭侯の晩年
紀元前341年に秦の商鞅が魏を破りますが、紀元前338年に秦の孝公が亡くなると、魏への侵攻は中断する事になりました。
秦の恵文王が即位しますが、東周王朝は秦による覇者体制を認めており、韓、楚、趙、古蜀が秦に朝しており、韓の昭侯も秦に再び頭を下げたのでしょう。
ただし、魏が斉に接近しており、斉は同盟から離脱しました。
紀元前334年に魏の恵王と斉の威王が共に「王」と呼び合い、東周王朝の権威から離脱し、秦、韓、楚、趙、古蜀の同盟と対峙する様になりました。
韓の昭侯の晩年は秦を盟主とする同盟に加わり、どう転ぶのか分からない状態だった事でしょう。
韓の昭侯の最後
韓の昭侯は紀元前333年に亡くなったと考えられていますが、史記には韓の昭侯の最後にまつわる逸話が残っています。
韓の昭侯は高門の造営を始めますが、屈宜臼は韓の昭侯が奢侈になっている事を理由に「高門から出られない」と予言しました。
史記には、屈宜臼の予言が的中した話が掲載されており、韓の昭侯は本当に高門から出られずに亡くなっています。
韓の昭侯が亡くなると、韓の宣恵王が後継者となりました。
韓の宣恵王の時代から、韓も王として認められる事になります。
| 先代:懿侯 | 昭侯 | 次代:宣恵王 |