
| 名前 | ディルムン |
| 場所 | バーレーン島、タールート島、ペルシア湾沿岸など |
| コメント | 古代に交易大国を形成した。 |
ディルムンは一般的には、バーレーン島やタールート島などの、ペルシア湾一帯の地域を指します。
シュメール人以前のウバイド文化の頃から、南メソポタミアとペルシア湾の沿岸地域では交易が行われていた事が分かっています。
ウルク古拙文字には「ディルムンの徴税官」とする言葉もあり、ディルムンの存在を確認する事が出来ます。
ディルムンでは多くの古墳も作られており、その数は15万基を超える程です。
ウル第三王朝が崩壊した頃に、ディルムンは交易により大発展し、壮麗な宮殿や神殿が造営されました。
紀元前1745年にディルムンの銅の取引の記録が途絶えており、この頃までには衰退したと考えられています。
最終的にディルムンはアッシリアや新バビロニアなどの属国となり、過去の栄光を取り戻す事はありませんでした。
それでも、ディルムンはメソポタミア文明と、インダス文明の交易の中継地点だったともされており、注目されている地域です。
尚、ディルムンの動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できる様になっています。
ディルムンの起源と初期交易の成立
ディルムンはバーレーン島などと関連がある土地とされていますが、初期の頃のディルムンは、ペルシア湾岸の全体を示す言葉にもなっています。
ディルムンと呼ばれたバーレーンは、メソポタミアが金属を使う時代になっても、石器を使っていた事が分かっています。
初期の頃のディルムンを代表する遺跡が、バーレーン島のマルフ遺跡です。
現在のマルフ遺跡があった場所は、バーレーン島の一部になっていますが、遺跡が活用されていた当時は、バーレーン島とは切り離されていたと考えられています。
シュメール人が栄えた頃のメソポタミア南部は海面が高く、今の海岸線よりも内面に食い込んでいたと言われていますが、バーレーンも海面の高さから、島が分離していたことが分かります。
南メソポタミアでは、シュメール人以前にウバイド文化があった事が分かっています。

ウバイド人とディルムンの間では、土器と真珠などが取引されていました。
紀元前5000年頃には、既に真珠が装身具として使われていた事が分かっています。
ペルシア湾の北岸は真珠があまり採れなかったため、真珠が採れる南方のバーレーンまで来ていたと考えられます。
また、ディルムンの方でもウバイド式土器を真似て土器を作っていたようなのですが、その質は粗悪なものが多かったと言われています。
このことからウバイド期の時代から南メソポタミアとディルムンの地域で交易があった事は確実であると考えられます。
しかし、紀元前4000年頃になると、地球規模の寒冷化や乾燥化により人が住めなくなり、ウバイド文化も崩壊に向かっていきました。
人々は豊かな生活を求めて新天地に向かうことになります。
メソポタミア文明の発展と「ディルムン」の登場
南メソポタミアでは、紀元前3800年から紀元前3300年頃にウルクが栄える様になり、メソポタミア文明が誕生しました。
ウルクには城壁があり、巨大な神殿なども建造され、4万もの人々が暮らす様になりました。
ウルクの周辺を合わせれば、10万を超える人々がいたと言われています。
チグリス川とユーフラテス川を利用した灌漑農業が、メソポタミア南部の人々の生活を支えていました。
メソポタミアでは穀物は豊富にあったものの、金属や良質な木材が不足しており、資源を周辺地域から獲得する必要がありました。
シュメール人は東方のエラムの方まで拠点を置くようになり、エラム人との同化が進んだり、争いが起こったりしました。
ウルクからは古拙文字が誕生する事になります。
シュメール人と言えば楔形文字というイメージのある方も多いと思いますが、ウルク古拙文字が一番古いと言えます。
このウルクの古拙文字には「ディルムンの徴税官」という言葉が登場しており、これが世界最古の「ディルムン」に言及した言葉となります。
徴税官が置かれていたことから、、メソポタミアの南部とディルムンは、交易をよく行っていたことが分かるはずです。
古拙文字にはディルムンの用語と共に「織物」や「銅」と言ったキーワードが出て来ており、南メソポタミアで製造された織物が、ディルムンが取り扱う銅と交換されたと考えられています。
ただし、この時代のディルムンの場所に関しては諸説があり、謎が多いです。

これは、初期王朝時代にディルムンの中心地であったタールート島やアッカド帝国の時代以降に栄えたバーレーンも、この時期に人が居住した形跡がないためです。
こうした事情から、最初にも述べた様に、ディルムンとは特定の地域ではなく、ペルシア湾岸地域の全体を指す言葉なのではないかと考えられています。
封球と円筒印章
ここで注目されるのが封球と呼ばれるものです。
今でいうと送り状のようなもので、封球の中に商品を現わすトークンを商品の数だけ入れ、封球を閉じる、というような使い方をします。
封球は粘土で出来ており、すぐに固まるため、中身を入れ替える事が出来なくなります。
最後には粘土に円筒印章を打ちます。
トークンや封球などの文化は南メソポタミア特有だったのですが、バーレーンに近いサウジアラビア東岸のダーラン近郊でも発見されています。
こうした事例から、ディルムンにもメソポタミアの文化が伝わっている事が分かるはずです。
封球に関しては、南メソポタミアの人々が現地にやってきて、本国と交易を行う為に使ったか、現地の人々が南メソポタミアとの交易により学んだかのどちらかだと考えられています。
また、円筒印章もアラブ首長国連邦のアブダビ近郊で発見されており、メソポタミア文明のウルク期に発明されたものだと言えます。
ハンコの代わりとも言える円筒印章は絶えず身に着ける必要があったと考えられているため、アブダビ近郊で見つかった円筒印章は、何らかの理由で紛失したものではないかとされています。
ディルムンとメソポタミア地方は関わり合いを持っていた事は間違いないでしょう。
ディルムンとメソポタミアの交易は続く
南メソポタミアではウルク期の次に、移行期のジェムデト・ナスル期が始まりました。
これは紀元前3300年から紀元前3000年頃の時期を言います。
この時代に古拙文字から本格的な楔形文字が誕生したとされています。
社会の複雑な出来事などが楔形文字で記録されていく事になっていきました。
紀元前3000年から紀元前2300年頃が初期王朝時代であり、メソポタミア南部の地ではウルク、ウル、ラガシュ、ウンマ、ニップルなど、シュメール人の諸都市が派遣を争う群雄割拠の時代となりました。
都市ごとに違った神を祀っていたことなどから、争いは耐えなかったようです。
最終的にメソポタミア南部の地は、ウンマとラガシュの100年戦争に勝利したルガルザゲシにより統一されました。
ウンマのルガルザゲシはウルクに本拠地を遷し、ウルク第三王朝が誕生します。
この頃にメソポタミア中部ではアッカドのサルゴンが大きな勢力を持ち、ルガルザゲシと天下分け目の戦いとなりました。
アッカドのサルゴンが勝利し、アッカドはメソポタミアを統一し、その勢力は地中海まで到達したと言われています。
アッカド帝国前の初期王朝時代の女王プアピの墓が見つかっており、金やメソポタミアにはないラピスラズリを用いた飾り物が発見されています。
さらに、初期王朝時代のメソポタミア南部では、銅や銀が貨幣の代わりとして使用されていました。
メソポタミアの地は穀物が豊富でも金属がなかなか手に入らず、輸入に頼っていました。
シュメールの代表的な土地の一つであるラガシュでは、東方のエラムと交易を行っていました。
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また、ディルムンとも海上交易を行っていた記録があります。
ラガシュ王ウルナンシェには、神殿の建設に必要な木材を異国の地から集め、ディルムンの船で運ばせたという記録があります。
さらに、ウルナンシェから100年程後の時代であるルガルアンダの時代にも、商人が南メソポタミアの特産品である大麦、ラード、織物などを持ちディルムンに行き商売を行ったとされています。
都市内であれば、通貨交換も可能でしたが、外国のディルムンは物々交換を必要としていました。
ディルムンの王女
ディルムンの王女がラガシュ王女にナツメヤシなどの贈答品を贈ったという話もあります。
ただ、この王女はかなり謎の多い人物であるようです。
しかしながら、王女がいたということは、ディルムンには発展した都市があったと考えられます。
初期王朝時代だと、バーレーンはまだ無人の土地だったようです。
タールート島の繁栄とディルムンの形成
ディルムンの中心地・タールート島
サウジアラビア東部のタールート島が、初期王朝時代のディルムンの中心地だと考えられています。
タールート島は小さな島ではあったものの、真珠を採ったり湧水を使った灌漑農業や海上交易などを行ったりして、栄えていました。
タールート島の墓からは大量の副葬品が発見されています。
その副葬品の中から南メソポタミアとの繋がりが見えました。
また、メソポタミアの初期王朝時代の土器多く出土し話題にもなりました。
そのため、南メソポタミアの時代のディルムンといえば、タールート島の可能性が高いということが考えられます。
ラガシュ王女に贈り物をしたディルムンの王女もタールート島にいたと考える事が出来ます。
ただし、タールート島の調査はほぼ手つかずでもあり、今後の発見に期待されています。
先ほど述べた様に、メソポタミア南部の初期王朝時代は、ウルク第三王朝のルガルザゲシがアッカドのサルゴンに敗れた事で、メソポタミア南部がアッカドの支配下になってしまいました(アッカド帝国の誕生)。
アッカド帝国が誕生した時期に、人が大していないはずのバーレーンに多くの人が移住したと考えられています。
しかし、初期王朝時代に最も栄えたタールート島から、バーレーンに移住したというわけではないと考えられています。
タールート島の墳墓
バーレーン島では紀元前2300年から紀元前1700年にかけて、7万5千基もの古墳が造られました。
人間は墓の造営に関してきわめて保守的であり、その形式を大きく変更することは少ないと考えられます。
タールート島では、砂丘に穴を掘って遺体を埋葬する土壙墓が一般的であり、バーレーンのように石材や土を盛り上げて墳丘を築くような形式は採用されていないといいます。
バーレーンの古墳とそっくりなお墓が西アジアの内陸砂漠の北部に拡がっていると言われています。
紀元前1700年頃に建造されたディルムンの最後の王墓から、ディルムン王の名を刻んだ石製容器の破片が出土し、ディルムン王の名前が書かれていました。
王の名はヤグリ・イルであり、その名がアムル系の名前であった事から、バーレーンの王はアムル系だと考えられる様になりました。
ディルムンの王はアムル系だったのか?
アムル系と言えば、バビロン第一王朝のハンムラビなどが有名だと思います。
アムル系の人々は、メソポタミアだけにやってきたわけではなく、ディルムンのバーレーン島にも住み着いたと考えられています。
実際に、紀元前2150年頃のメソポタミアの文献資料にも、「ディルムンにはアムル人の土地、アムル人の街がある」と記録されています。
アムル人がディルムンに移った理由としては、ペルシア湾の海上交易による一獲千金を狙ったことが大きいと考えられています。
マガンの海
話は前後しますが、アッカド人のサルゴンによるアッカド帝国は拡大を続け、エラムや北方のマリにまで支配下にしてしまいました。
さらに、孫のナラムシンの時代には全盛期を迎え、自らを四方世界の王と名乗っています。
アッカド帝国ではペルシア湾岸のマガンにも派兵を行っており、征服する、反乱を起こされる、を繰り返していたようです。

ナラムシンもマガンと戦いその王を捕虜にしたという記録があります。
マガンでは銅が産出されることなどが、攻撃対象になる要因であると考えられます。
しかし、気候変動のためかアッカド帝国も弱体化し、グティ人により滅亡してしまいました。
その後、メソポタミアの群雄割拠を制したのが、ウル第三王朝でした。
ウル第三王朝はシュメール人の最後の王朝です。
ウル第三王朝は二代目シュルギの時代が全盛期であり、マガンとの交易を重視していました。
マガンの支配者もウル第三王朝の珍奇な品島を贈っており、関係は良好だったようです。
メソポタミアの人々はペルシア湾を「マガンの海」と呼んでいたそうです。
ディルムンも全く活躍の場がなかったわけではなく、水や食料の補給や船の修理は行っていました。
ウル第三王朝の崩壊とディルムン海洋帝国の成立
繁栄を続けていたウル第三王朝も気候変動による食糧不足により、紀元前2000年頃に崩壊してしまいました。
ウル第三王朝は東方のエラムに滅ぼされてしまったという説が有力です。
ウル第三王朝の衰退期に海上交易に積極的に乗り出したのが、ディルムンでした。
ディルムンでは湾岸式印章を使用していたのですが、紀元前2050年から紀元前2000年頃になると、南メソポタミアからインドなどにかけて広範囲で使用された事が分かっています。
広範囲の地域からディルムン商人による湾岸式印章が出土していることは、彼らが広域的な交易活動を展開していたことを示す有力な証拠となるでしょう。
ディルムンの活動が活発になると城壁や都市が出来るようになります。
ウル第三王朝が衰退する一方で、ディルムンは発展していきました。
ウル第三王朝が崩壊すると、メソポタミアではイシン・ラルサ時代に突入します。
イシン第一王朝はウル第三王朝の後継国を名乗りました。
イシン・ラルサ時代は群雄割拠であり、イシンとラルサの二大勢力を中心に争った時代です。
ディルムンは海洋帝国として発展していったとされています。
メソポタミアの勢力が争っている裏では、ディルムンが貿易で利益を上げていきました。
メソポタミアの諸王にとっても、戦いを有利に進める為に、ディルムン王との友好は重要でした。
ディルムンの発展は古代日本で言えば、出雲・吉備型の発展だったと言えます。
海上交易の要衝の地で右から左に商品を流して利益を得る、というやり方でした。
ディルムンはペルシア湾の海上交易を独占し、紀元前2000年から紀元前1700年頃に全盛期を迎えます。
しかし、海洋帝国となっていたディルムンも、最終的には上手く交易ができなくなり、放棄されてしまいます。
その頃、王墓の造営が終焉を迎えます。
また、水神を祀ったバルバル神殿や農村のサール遺跡も放棄され、ディルムンの植民地であるファイカラ島の宮殿や神殿も廃絶されてしまいました。
銅交易の崩壊とディルムンの衰退
ディルムンはどうして衰退したのでしょうか。
ディルムンは紀元前1745年に、銅を輸入したとする記録を最後に名前が消える事になります。
この頃には既にディルムンから銅が買われなくなったということです。
ディルムンからメソポタミアに輸出する商品で、とにかく重要だったのが銅だと言われています。
その銅がメソポタミアで買われなくなってしまった。
ディルムンから銅を買わなくなった理由は、キプロスが商売敵になったという説が有力だとされています。
バビロン第一王朝はハンムラビによってメソポタミアを統一しましたが、その後、息子サムス・イルナの時代になると、ディルムンおよびアラシアから銅を輸入していたことを示す記録が残されています。
アラシアとはキプロスの事を指します。
これから先はディルムンの銅が売れなくなり、キプロスの銅がユーフラテス川の上流から、流入する様になったと考えられています。
ハンムラビのメソポタミア統一が、キプロスとの関係を生んだと考えられます。
キプロスの銅が台頭し、代わりにディルムンの銅が買われなくなっていきました。
ディルムンは交易国家であったため、ディルムンは衰退してしまいました。
バビロン第一王朝も、紀元前1595年にヒッタイトの攻撃により滅亡しています。
ヒッタイトは略奪目的であり、バビロンを破壊するだけ破壊して、アナトリア半島に撤退してしまいました。
バビロンの地には「海の国第一王朝」が成立しましたが、その支配は短期間で終わり、やがて彼らはバビロンから追われました。
その後に成立したカッシート王国が、いわゆるバビロン第三王朝です。
バビロン・アッシリア・ペルシア時代のディルムン
カッシートはバビロンの王朝の中で最長を誇り、この時代にディルムンは、カッシートの属国になってしまいました。
カッシートがディルムンの属国だと証明する粘土板も発見されています。
カッシートがディルムンを支配下に置いた主な理由は、ラピスラズリの流通拠点として重要であったためと考えられています。
ディルムンを支配したカッシートも、紀元前1200年のカタストロフと呼ばれる海の民が地中海東岸を暴れ終わった頃に、滅亡する事になります。
カッシートが滅び400年程経った世界では、新アッシリアが勢力を持っていました。
紀元前700年位の記録で、ディルムンの王のウペリが朝貢を行ってきたとする記録があります。
ここで注目したいのが、ウペリという名前はアムル系ではなく、エラム系の名前だということです。
ディルムンの支配者がエラム人に代わったことが分かります。
ディルムンとエラムについては、シュメール人の時代から、シュメール人とエラム人の中が険悪になると、ディルムンを通して交易を行っていたのではないかと考えられています。
ディルムン王は新アッシリアのセンナケリブ、エサルハドンと代々に渡り朝貢を続け、アッシュル・バニパルの時代になると、新アッシリアの版図に正式に組み込まれてしまいました。
新アッシリアはオリエント統一を成し遂げるも、短期間で滅亡し(紀元前609年)、その地はメディアと新バビロニアに分けられました。
メソポタミアを統治した新バビロニアは、ディルムンも支配下に収めています。
ディルムンの統治が、新アッシリアから新バビロニアに代わっただけとも言えます。
新バビロニアが滅亡すると、メソポタミア文明の時代は終焉を迎えました。
その後、ディルムンはアケメネス朝ペルシアの支配下となります。
アケメネス朝ペルシアは大国だったものの、アレキサンダー大王によって滅ぼされてしまいました。
インドからバビロンに帰還したアレキサンダー大王は、アラビア遠征を計画しました。
アレキサンダー大王はアラビア半島の調査を行い、艦隊を派遣しました。
この艦隊がティロスとアラドスへ向かったという記録がありますが、ここで言及されるティロスはバーレーン島、アラドスはムハラク島であると考えるのが通説です。
アッカド語では、ディムルンは「ティルムン」と読みます。
ティルムンをさらにギリシア風にして、ティロスになったと考えられています。
アレキサンダーの死後に帝国は分裂するのですが、セレウコス朝が誕生すると、ディムルンはその支配下に入っています。
セレウコス朝が弱体化すると、南メソポタミアでは、カラケーネー王国が建国されました。
そして、カラケーネー王国がディムルンの支配を引き継ぐことになります。
ディルムンの動画
ディルムンを題材にしたゆっくり解説動画となっています。
この記事及び動画は「謎の海洋王国ディルムン-メソポタミア文明を支えた交易国家の勃興と崩壊 (中公選書)」を元に作成しました。