古代オリエント

シドンは東地中海に栄えた都市

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宮下悠史

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名前シドン
コメントフェニキア人の交易都市

シドンはフェニキア人の都市であり、交易で栄えました。

フェニキア人の都市の中のティルスとは戦争を行ったり、交易のライバルとなっていました。

地中海に大植民都市を築いたのはティルスでしたが、シドンの方が栄えた時代もあった事が分かっています。

シドンは現在ではサイダと呼ばれる街になっており、存続していると言えます。

シドンとティルスの戦い

エジプト新王国の時代に、フェニキア人都市のビブロスとエジプトの交易が盛んになり、中間都市であるシドンやティルスも発展しました。

エジプト第18王朝のアクエンアテンの時代にエジプトの外は放置される様になり、ミタンニ王国が衰えヒッタイトやアッシリアが勢力を伸ばす事になります。

こうした中でシドン王のズィムレッダは、同じくフェニキア人の都市のティルスを攻撃しました。

シドン王ジィムレッダはティルスの対岸のウシュを占拠し、ティルスを追い詰めています。

ティルス王のアビ・ミルクはエジプトに援軍を求めましたが、アクエンアテンは宗教改革に没頭していたため援軍は送られませんでした。

この時のアビ・ミルクの訴えはアマルナ文書に残されており、当時の緊迫した状況を伝えています。

ただし、この戦いが最終的にどう決着したのかは記録が残っておらず、不明のままです。

後の事を考えると、シドン側がティルスを落とさず兵を引いた可能性も残っています。

鉄器時代とシドンの発展

鉄器時代に入ると、フェニキア都市の中で最も発展が速かったのはシドンであったと考えられています。

ティルスは島を本拠地としていたため、交易には適していたものの、食料生産には不向きで、対岸のウシュなどに依存する必要がありました。

一方、シドンは後背地に肥沃な土地を持ち、ベカー高原を通じて内陸部との交易も可能でした。

灌漑農業が行われていたかは不明ですが、天水農業程度であれば可能だったと考えられます。

こうした事情が重なりシドンが発展が目覚ましかったとされています。

シドンとアッシリア

アッシリアのセンナケリブの時代にティルスが中心となり、エジプトやユダ王国の支援を受けアッシリアと戦いますが、結局は敗れました。

この時にティルスは粘りますが、シドンは一早くアッシリアに鞍替えしています。

センナケリブはエトバアルをシドン王に任命し、アッシリアの影響下にある政権を樹立しました。

このエトバアルは、アッシリアに忠実に従うことでフェニキア諸都市の安定を保ったとされています。

この頃には、フェニキアの中心はティルスからシドンへと移りつつありました。

センナケリブは後継者問題により息子に暗殺され、紀元前680年に側室の子エサルハドンが即位しました。

シドン王アブディ・ミルクティはこの機に反旗を翻し、エサルハドンは紀元前677年にシドンを攻撃し、翌年にはアブディ・ミルクティを処刑したとされています。

シドンの住民は反乱防止のため内陸部へ強制移住させられました。

アッシリアが崩壊すると、連れ去られていたシドンの人々は、国許に変える事を許されています。

アケメネス朝ペルシアとシドン

アケメネス朝ペルシアのキュロス2世が新バビロニアを滅ぼすと、シドンも含めたフェニキア人の都市はアケメネス朝ペルシアの傘下に入りました。

アケメネス朝ペルシアの時代にフェニキア諸都市の中で最も発展したのがシドンでした。

ペルシア戦争ではフェニキア人の王が自ら参戦していますが、フェニキア人の諸王の中でシドン王テトラムネストが上座に座った話があります。

ただし、ペルシア戦争は敗れてフェニキア人の支配力は衰えました。

紀元前350年ころに、シドンはアケメネス朝ペルシアから離脱しますが、攻撃を受け制圧されています。

時代は下りアレキサンドロス大王の時代になると、ティルスは戦いを選択しますが、シドンは降服しました。

後にシドンはローマ帝国の属州となっています。

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