
| 名前 | ハットゥシリ3世 |
| 生没年 | 生年不明ー前1236年頃 |
| 在位 | 前1266年頃ー前1236年頃 |
| 国 | ヒッタイト |
| 一族 | 父:ムルシリ2世 兄:ムワタリ2世 配偶者:プドゥヘパ |
| 子:トゥドハリヤ4世、サウシュカヌ | |
| 年表 | 前1269年頃 カデシュ条約 |
| コメント | エジプト第19王朝と同盟したヒッタイト王でもある。 |
ハットゥシリ3世はヒッタイト王ではありますが、ムルシリ3世から王位を簒奪した人物でもあります。
この為、王位継承に不安があり悩まされる事になります。
ただし、重要拠点を任されカデシュの戦いでも奮戦し、戦後処理も行うなど有能な人物でもありました。
ハットゥシリ3世がヒッタイト王になってからは、長年の敵であったエジプト第19王朝とカデシュ条約を締結させています。
これによりヒッタイトとエジプト第19王朝は同盟関係となりました。
しかし、ハットゥシリ3世の時代から食糧不足に陥っており、国力は低下したともみられている状態です。
ハットゥシリ3世の出自
ハットゥシリ3世はムルシリ2世の末子として誕生しました。
兄にはムワタリ2世がいます。
ムワタリ2世が即位すると、ハットゥシリ3世はハクピシュ王としてカシュカ地方の経営を任される事になります。
ヒッタイトの北方にはカシュカ族があり、ヒッタイトの脅威になっており、ムワタリ2世は重要な地域を任せた事になるでしょう。
それと同時にムワタリ2世がハットゥシリ3世の手腕を高く評価していた事も分かるはずです。
ハットゥシリ3世の有能さ
ハットゥシリ3世はカデシュの戦いにも参戦し、野戦でラムセス2世を苦しめた話があります。
カデシュの戦いではエジプト第19王朝側は勝利を主張していますが、実際にはヒッタイトがカデシュを守り切り、アムル国も傘下としている事から、実質的にヒッタイトの勝利とも見られている状態です。
カデシュの戦いが終わると、兄のムワタリ2世は帰還しますが、ハットゥシリ3世は現地に残り戦後処理を行っていました。
アムル王国がカデシュの戦いとも関係していると考えられていますが、ヒッタイトはアムル王のベンテシナをヒッタイトに連行しています。
ハットゥシリ3世は戦後処理が終わると、ヒッタイトに戻りますがベンテシナの身柄を預かる事になりました。
ハットゥシリ3世はベンテシナをハクピシュに置く事になります。
アナトリアの北方にはカシュカ族がいましたが、宗教都市のネリクが壊滅状態になっていました。
ここを再興させたのも、ハットゥシリ3世です。
これらは即位前の話ではありますが、ハットゥシリ3世の有能さが分かるのではないでしょうか。
それと同時にヒッタイトの国内で求心力を高めていったのでしょう。
ハットゥシリ3世とプドゥヘパ
ハットゥシリ3世はエジプトとの戦いが終わった後に、アナトリア南東部のキズワトナを訪れた事がありました。
この時に出会ったのが、イシュタル神官の娘のプドゥヘパだったと伝わっています。
ハットゥシリ3世はプドゥヘパを妻として迎えました。
プドゥヘパは後に政治においても参画し、ラムセス2世と書簡のやり取りをするなどしています。
フラクティンの浮彫でのハットゥシリ3世は、王妃と共に姿が描かれています。
ヒッタイト王に即位
ハットゥシリ3世はムルシリ3世に対し、反旗を翻す事になります。
ムルシリ3世に対してハットゥシリ3世は王位簒奪を行った事になりますが、自身の言うにはムルシリ3世により権力を削がれていき、反乱を起こしたと述べています。
ハットゥシリ3世はカデシュの戦いや戦後処理など重要な任務を任されており、ヒッタイトの国内でも注目され、結果としてムルシリ3世は警戒し権力を削ごうとしたのかも知れません。
ムルシリ3世をハットゥシリ3世は追放しヒッタイト王にはなれましたが、この簒奪劇が後に尾を引く事になります。
尚、ハットゥシリ3世は即位するとアムル国のベンテシナを復位させました。
カッシート王へ愚痴を告げる
ムルシリ3世は王位奪還に動きますが、ハットゥシリ3世は全て阻止しました。
こうした中でムルシリ3世がエジプトにいるとする情報を得て、ハットゥシリ3世はエジプト第19王朝に書簡を送りました。
ファラオのラムセス2世はムルシリ3世を「対ヒッタイトで利用できる」と判断したのか、ヒッタイト側にまともな返事をしなかったわけです。
当時のヒッタイトとカッシート王国の仲は良好だった様であり、ハットゥシリ3世がカッシート王のカダシュマン・トゥルグにエジプト側に対する愚痴を伝えた話が残っています。
ハットゥシリ3世とカダシュマン・トゥルグは親しくやっていたようで、エジプトとヒッタイトが争う場合は、カッシートはヒッタイトに加勢するとする言葉も貰っていた話もあります。
ただし、カッシートがヒッタイトに味方するというのは、カダシュマン・トゥルグの表面上の言葉であり、本当は味方する気もなかったとする説もあります。
それでも、この時代にエジプト第19王朝とカッシート王国の関係は悪く、第19王朝とカッシートの仲が改善されるのは、カッシート王にカダシュマン・エンリル2世が即位してからだともされている状態です。
カダシュマン・トゥルグがエジプトと不仲であれば、ハットゥシリ3世と誼を結びたいと考えるのは自然の成り行きにも見えます。
尚、この時代の書簡にカッシートを表す言葉があり「メソポタミア南部には藁よりも馬の方が多くいた」などの言葉もあります。
ハットゥシリ3世とラムセス2世
紀元前1269年頃にハットゥシリ3世とラムセス2世の間で、カデシュ条約が結ばれました。
カデシュ条約ではお互いを侵略しない事や助け合う事を約束する事になります。
ヒッタイトの首都だったハットゥシャの遺跡では書簡が多く発見されていますが、ラムセス2世とハットゥシリ3世の時代のものが圧倒的に多いと言えます。
ここで注目したいのは、ヒッタイト王のハットゥシリ3世と第19王朝のラムセス2世だけではなく、王妃や王子など両王家の様々な人物がやりとりを行った事が分かっています。
例をあげればヒッタイトの王子が、エジプトのファラオに書簡を送ったりもしているという事です。
マッシャナウジの為に医者の派遣を要請
ハットゥシリ3世の姉にマッシャナウジがいました。
マッシャナウジが子を望んだのか、ハットゥシリ3世がエジプト第19王朝のラムセス2世に、医者を寄越す様に依頼した話が残っています。
この時にラムセス2世は、マッシャナウジの年齢が既に50歳を超えていた事を把握していました。
現代で考えても高齢出産であり難しい状況ではありましたが、ラムセス2世は神の力と医術を組み合わせれば何とかなると考えたのか、医者と神官を合わせて、ヒッタイトに派遣した記録があります。
尚、ラムセス2世がマッシャナウジの年齢を知っていたのは、先王のムルシリ3世がエジプトに亡命していたからではないかと考えられています。
因みに、カデシュ条約では亡命者の引き渡し条項があり、条約を守るのであれば、ハットゥシリ3世が要請すればラムセス2世はムルシリ3世を引き渡す必要があったはずです。
しかし、ラムセス2世はとぼけて、ムルシリ3世をヒッタイトに引き渡す事をしませんでした。
ハットゥシリ3世の最期
ハットゥシリ3世は紀元前1236年頃に亡くなったとされています。
ムルシリ3世から王位を簒奪しましたが、最後まで王位を奪われる事はなく、息子のトゥドハリヤ4世が後継者となりました。
トゥドハリヤ4世は失政もなく世を去った様に思うかも知れませんが、この時代から気候変動もありヒッタイトの食糧事情は厳しくなっていたとも見られています。
食料の産地であるエジプトに頼る部分も大きかったはずです。
ヒッタイトは坂道を転げ落ちる様に滅亡に向かって行きますが、ハットゥシリ3世の時代には既に始まっていたとも見られています。
孫のシュッピルリウマ2世の時代にヒッタイトは滅亡しました。