
| 名前 | カデシュ条約 |
| 年表 | 前1296年頃 |
| 対象国 | ヒッタイト、エジプト第19王朝 |
| コメント | 世界最初の平和条約 |
カデシュ条約はヒッタイトとエジプト第19王朝の間で行われた平和条約です。
ヒッタイトとエジプト第19王朝はレヴァント地方を巡ってカデシュの戦いが起きるなどしましたが、ここにきて平和条約を結びました。
カデシュ条約によりヒッタイトとエジプト第19王朝は、敵対勢力から同盟国に移行したと言えます。
その後に、ヒッタイトの王女がラムセス2世に嫁ぐなどしており、関係はさらに強固なものとなりました。
カデシュ条約の成立により、ヒッタイトとエジプト第19王朝の戦いはなくなっています。
尚、カデシュ条約は世界最古の国際条約としても有名であり、レプリカが国連に置かれている状態です。
カデシュ条約は平和の象徴にもなっているのでしょう。
エジプトとヒッタイトの平和条約
ラムセス2世の治世21年(紀元前1269年頃)にエジプト第19王朝とヒッタイトの間で平和条約が結ばれる事になります。
ただし、直ぐに平和条約が締結されたわけではなく、使者の行き来や条約のすり合わせなどを考えても、数年の歳月を必要としたのではないかとも考えられています。
既にカデシュの戦いから15年程が経過していましたが、平和条約が締結されました。
これがカデシュ条約と呼ばれるわけですが、内容に関してはカルナク神殿やラムセウムにレリーフとして残されています。
ヒッタイトの方でも粘土板に刻まれたものが見つかっており、エジプト第19王朝とヒッタイトが平和条約を結んだのは事実なのでしょう。
尚、ボアズキョイで粘土板が見つかったわけですが、既にエジプト側の内容は知られており、多くの専門家が驚いた話もあります。
ただし、いずれも原本の写しとなっており、カデシュ条約の原本は未だに見つかっていません。
条約文は銀製だった
ヒッタイトでは条約締結の為の文章には粘土板で記録するのが普通です。
カデシュ条約の原本は、銀製の板に書かれていたとする記録も残っています。
先にも述べた様に、銀板は残念ながら発見されていません。
エジプトとヒッタイトのカデシュ条約では、銀板にエジプトとヒッタイトが、アッカド語で内容を刻み交換したと考えられている状態です。
カデシュ条約ではエジプト側はハットゥシリ3世が一人称となっており、ヒッタイト側はラムセス2世が一人称となっており、碑文の交換をした事は明らかでしょう。
さらに、銀板には刻印がされており表面には嵐の神に抱かれたハットゥシリ3世が描かれており、裏面にはアリンナの太陽女神に抱きかかえられている妻のプドゥヘパが描かれていた事が分かっています。
カデシュ条約を結んだ理由
アッシリアの脅威
カデシュ条約を結んだ理由ですが、メソポタミア北部を本拠地とするアッシリアの力が強くなったからではないかとされています。
アッシリアはシャムシ・アダドの時代に興隆するも衰えますが、再び勢力を盛り返してきたわけです。
エジプト第18王朝のアクエンアテンが宗教改革に取り組んでいる間に、ヒッタイトはミタンニ王国の勢力を大きく削ぐ事に成功し、最終的には属国となりました。
紀元前13世紀に入るとアダド・ニラリ1世は、ヒッタイトからミタンニを奪い属国としています。
さらに、シャルマネセル1世の時代になると、ミタンニ王国を滅ぼし直轄地としてしまいました。
アッシリアは好戦的であり、エジプトとヒッタイトの双方にとって脅威に感じていた事でしょう。
エジプト第19王朝とヒッタイトはカデシュの戦いでは激戦を行ったのかも知れませんが、共通の敵が出来た事で手を結んだとも考えられています。
アヒヤワの脅威
ヒッタイトは東のアッシリアだけではなく、西のアヒヤワも脅威だったと考えられています。
アナトリア半島をヒッタイトは統一しているわけではなく、度々アヒヤワと対立しており、脅威だったのでしょう。
ヒッタイトは東西に敵を抱えており、これもエジプト第19王朝とのカデシュ条約を結ぶ原因の一つだったとみられています。
尚、アヒヤワに関しては分からない部分も多く、研究が続いている状態です。
国内の心配
ハットゥシリ3世はムルシリ3世から王位簒奪を行いヒッタイトの君主となりました。
ムルシリ3世は亡命しますが、ヒッタイトの君主への返り咲きを目指していたわけです。
他にも、ムルシリ2世の弟のクルンタもハットゥシリ3世の王位を脅かす存在だったと考えられています。
ハットゥシリ3世はヒッタイト王にはなれましたが、不安も負い目も多くあり、心配事も多かったのでしょう。
さらに言えば、アナトリア半島はエジプトに比べると、穀物の収穫量が圧倒的に少なく、穀物不足の懸念があり、ナイル川付近の圧倒的な穀倉地帯を持つエジプトと手を組みたかったというのもあるはずです。
カデシュ条約が成立した背景には、ヒッタイトの国内事情への不安もあったとみられています。
カデシュ条約の内容
領土の不可侵
カデシュ条約ではエジプトとヒッタイトの間で、お互いの領土を侵略しないという事を決定した事が明記されています。
平和条約なのですから、当然なのですが、侵略戦争を起こさない事を条約として締結したわけです。
カデシュの戦いの様な大国間の戦いはメリットが少なく、損害などのデメリットの方が上回ると考え、お互いの侵略を取りやめたのでしょう。
ただし、エジプト第19王朝とヒッタイトの間で具体的な領土の境界線が明記されておらず、普通に考えれば、この部分は完全なる平和条約とも言えない部分でもあります。
それでも、永遠の平和を望んだ条約という事にはなっています。
敵対勢力に対する協力
外部の敵に対して協力して戦う事をエジプト第19王朝とヒッタイトは条約で締結させました。
敵に関しては具体的に言えば、勢力を拡大させてきたアッシリアに対抗するという事なのでしょう。
他にも、内乱が起きた場合や軍事支援などの取り決めも行っています。
ヒッタイトの王位継承
カデシュ条約ではエジプト第19王朝がヒッタイトの王位継承を保証する事を約束しました。
これはヒッタイト側からエジプトへの取り決めはなく、エジプト側が条約でヒッタイトの王位継承を保証する事を約束したわけです。
エジプト側だけが負う決まり事になったわけですが、カデシュ条約を結んだハットゥシリ3世の身の安全を考えた上での内容だったのでしょう。
先にも述べた様に、ハットゥシリ3世はムルシリ3世から王位簒奪を行っており、自分も同じ目にあう事を恐れていたとみる事が出来ます。
エジプト第19王朝と条約の中で王位を保証してくれれば、自分の後ろにはエジプトがいるとみられ、国内の野心家に対する牽制にもなると考えたのでしょう。
亡命者の身柄の引き渡し
カデシュ条約には亡命者の身柄を引き渡す条項もあります。
ヒッタイトでは条約を結ぶ時によくある条項であり、これも王位を安定させる為の措置でもあったはずです。
それと同時に、エジプト第19王朝に亡命しているとされたムルシリ3世の事も、気掛かりだったとみることが出来ます。
お互いに亡命者を擁立して、攻め込んでこない為に「亡命者(危険人物)の身柄は引き渡すようにしましょう」という事だったのでしょう。
神々の承認
カデシュ条約ですが、証人として神々の名前が記録されています。
現在ではキリスト教、イスラム教、ユダヤ教など一神教も多くありますが、古代オリエントの世界では多神教が主流でした。
こうした事情もあり、カデシュ条約の証人として神々の名が多く記載されています。
エジプト文明の世界だけではなく、ヒッタイトにも多数の神々がおり、カデシュ条約の証人となっているわけです。
銀板を運んできたヒッタイト人
カデシュ条約で銀板を、エジプトに運んできた使者の名前が分かっています。
ヒッタイトの使者として「ティリ・テシュブ」「ラモーゼ」とあり、ヒッタイトの副王がいるカルケミシュからはヤプシリなる使者が訪れた事が分かっています。
ラモーゼはエジプト人の名前でもあり、ヒッタイトで仕事をしていた「お雇いのエジプト人」だったと見られています。
因みに、ティリ・テシュブやラモーゼは他の記録でも確認する事が出来ており、かなり優秀なヒッタイトに仕える者だったのではないでしょうか。
他にも、カルケミシュで仕事をしていたと思われるアマンシャなる人物がいますが、アマンシャはエジプト人のアメンメスであり、エジプト人だったのではないかと考えられています。
古代オリエントの世界では、生まれた地を離れた異国で働く者も多くいたのでしょう。
カデシュ条約と政略結婚
エジプト側の記録
ラムセス2世の治世34年(紀元前1257年頃)に、ヒッタイトの王女がラムセス2世に嫁いだ話があります。
ヒッタイトの王女はエジプトでは、マアトホルネフェルウラーと呼ばれる事になります。
エジプト第19王朝とヒッタイトの間で婚姻が成立したわけであり、カデシュ条約の平和はより強固なものになったと言えるでしょう。
アブシンベル神殿に、ヒッタイトとの婚姻の話が掲載されている状態です。
エジプト軍によりヒッタイトは大敗を喫し、周辺国から攻撃を受け悪天候も重なり、ヒッタイトは困難な状況になったと言います。
ヒッタイトは打開策として、エジプト第19王朝に金銀、奴隷などを送り、ヒッタイト王の長女を差し出したと記録しました。
ラムセス2世は、これを聞くと大いに喜んだとあります。
同盟国相手に酷いと思うかも知れませんが、ラムセス2世が国内向けにアピールしたのではないかとも考えられています。
ラムセス2世の願い
ヒッタイトの王女でエジプトではマアトホルネフェルウラーと呼ばれる女性は、陸路でエジプトまでやってきたと考えられています。
これに対しラムセス2世はレヴァントまで出迎えの部隊を出し合流し、首都のペルラムセスに向かいました。
レヴァントの人々がこの光景を見て、驚いた話があります。
尚、エジプト側の記録でラムセス2世がレヴァントに部隊を派遣した後に、天候を心配しセト神に祈った話があります。
レヴァント地方では雪が降る事から、ラムセス2世は天候を心配したのでしょう。
レヴァントでは人気があるバアル神と同一神ではないかとされていたのが、セト神でもありました。
セト神はラムセス2世の願いを叶え冬だったにも関わらず、温暖な天気が続き迎える事が出来たとあります。
政略結婚ではありましたが、婚姻は無事に成功しカデシュ条約はさらに強固になったと言えます。
尚、ヒッタイトからエジプトにやってきたマアトホルネフェルウラーの、名前が入ったパピルスも発見されています。
大国からの妻を娶るラムセス2世
ラムセス2世はマアトホルネフェルウラーの他にも、ヒッタイトの王女を娶った事が分かっています。
ただし、二人目のヒッタイト王女がどの様な人物だったのかはよく分かっていません。
他にも、ラムセス2世はカッシート王国から王女を妻として迎えていた事も明らかになっています。
カデシュ条約は機能していたのか
カデシュ条約の後にヒッタイト側が第19王朝側に、医者を派遣してくれるように依頼したりしており、仲良くやっていた様子を伺う事も出来ます。
ただし、共通の敵に対し共闘していたのかは分からない部分があります。
ヒッタイトはトゥドハリヤ4世の時代に、アッシリアとニフリヤの戦いで大敗北を喫しました。
カデシュ条約を見ると共通の敵とは共闘する事になっていますが、ニフリヤの戦いでエジプト軍がヒッタイト側として参戦したのかは不明です。
ヒッタイト側が何らかの理由でエジプトに援軍要請をしなかった可能性もあり、何処までカデシュ条約が機能していたのかは分からない状態です。
それでも、カデシュ条約によりヒッタイトとエジプトの間で、戦争が起きなくなった事だけは事実なのでしょう。
ベントレシュ・ステラの記録
ルーブル美術館にあるベントレシュ・ステラにラムセス2世の事が記録されています。
この碑文は紀元前6世紀以降に造られたと考えられており、ラムセス2世の時代よりもかなり遅れます。
そこにはラムセス2世とバクトリア王女のネフェルウラーが結婚した事が書かれています。
ラムセス2世とヒッタイトの王女マアトホルネフェルウラーの結婚をオマージュしたものなのでしょう。
ただし、バクトリアは中央アジアにあった国であり、真実ではないはずです。
尚、グレコ・バクトリア王国がセレウコス朝シリアから独立したのが紀元前250年頃であり、グレコ・バクトリアとは別なのでしょう。
カデシュ条約ではエジプトとヒッタイトが平和条約を結んだわけですが、その記録は長きに渡り人々の心に残り、想像が掻き立てられベントレシュ・ステラに記憶として残ったのではないでしょうか。
※この記事は有村元春先生のNHKカルチャー講座【エジプトとヒッタイト~二大帝国の交流史300年~】をベースに作成してあります。