古代日本 天皇の治世

神武東征を徹底解説

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宮下悠史

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名前神武東征
時代古代日本
コメント神武東征が完了し日本が建国された

神武東征は九州の日向にいたイワレビコ(神武天皇)が大和の地に入った出来事を指します。

イワレビコは兄の五瀬命、稲飯命、三毛入野命と共に東征を始めましたが、三人の兄は命を落とした事になっています。

神武東征で戦いになるのは近畿に入ってからとなりますが、決して楽な戦いではなく、大和の土地を得る為の征服戦争だったと言えるでしょう。

最終的に大和の地でナガスネヒコを戦いで破り、饒速日命が登場し、神武天皇が橿原で即位した事で神武東征を成し遂げました。

神武東征が成し遂げられた事で、日本が建国されたとも言えるでしょう。

日本書記の記述から、神武東征が実在したとも考えられており、合わせて紹介します。

尚、神武東征の動画も作成してあり、地図の最下部から視聴できる様になっています。

古事記中巻と九州の勢力

舞台は『古事記』の中巻(ちゅうかん)です。

『古事記』の中巻は、神話の世界から歴史時代への架け橋となる重要なパートであり、その冒頭を飾るのがこの「神武東征」です。

天皇の祖先は九州に存在したとされています。

日本の初代天皇とされる神武天皇(イワレビコ)は、祖先の拠点であった九州から、本州の大和の地(現在の奈良県)を目指して移動を開始しました。

当時、大和朝廷の前身となった九州の勢力は、九州全域を統治する統一政権ではなかったと考えられています。

(神武東征前の九州の勢力予想図)

当時の九州には複数の強国が並立しており、たとえば福岡平野の周辺には、歴史の古い奴国が存在していたとみられます。

奴国は『後漢書』東夷伝などの中国の歴史書にも記述が残る有数の強国です。

西暦57年には後漢へ朝貢し、107年には倭国王帥升が生口(奴隷)を献上した記録が残されています。

さらに九州には、のちに邪馬台国となるような勢力や、『魏志倭人伝』でそのライバルとして描かれる狗奴国の前身となる国々も存在していたと考えられます。

さらに、大和王権のルーツとされる天孫族(日本神話でヤマト王権を築いたとされる神々やその子孫)の拠点も日向に存在していました。

このように神武東征の前夜の九州には、奴国、邪馬台国の前身、狗奴国の前身、そして大和王権のルーツとなる国の4つの主要勢力が並立していたと考えられます。

のちの『魏志倭人伝』の記述に当てはめると、戸数2万の奴国、戸数7万の邪馬台国、そして戸数5万の投馬国の前身にあたると考えると分かりやすいでしょう。

このうち投馬国こそが、大和朝廷と深い関わりがあった国だと考えられています。

その所在地については、薩摩(鹿児島県)説と宮崎の都萬(つま)説があり、はっきりしていません。

瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメ)と都萬の地で暮らしたという伝承があることから、宮崎県説に強い説得力があるとも考えられます。

もっとも、古代史には断定できない部分が多いのも事実です。

神武東征の動機

神武東征を行うには相応の「動機」が必要だったと考えられます。

食糧や資源が豊富であれば、わざわざ危険を冒して東征する必要がないためです。

東征の動機については、主に以下のような説が存在します。

五瀬命とイワレビコ(神武天皇)は自国の現状について話し合い、水田稲作による人口増加の一方で森林資源が枯渇しつつあることや、
日本の西端という現在の拠点の位置では全国の統治が困難であることを共通認識として持ち、新天地への移行を決意しました。

なぜ神武東征が行われたのかという理由について、『古事記』では「国を良く治めるための本拠地を探していた」という趣旨の記述がなされています。

しかし、東征が一大事業であったことを考えると、国内に深刻な資源問題や人口増加などの課題が存在していたと考えるのが自然でしょう。

稲作によって穀物を得ても、それを煮炊きするための薪(森林資源)が不可欠となります。人口増加に伴い森林の伐採速度が上がったことが、
移動の大きな要因になったとする説が有力です。

何らかの国内に問題を抱えており、東征を決意したのでしょう。

イワレビコらは塩土老翁から大和の地がある事を聞き、神武東征の契機になりました。

東征決定と日向の後方体制

東征の開始にあたり、天孫族の内部では以下のような協議と決定が行われたと考えられます。

塩土老翁から得た情報をもとに一族で協議した結果、東方の地(大和)は盆地で水資源が豊富であり、山を越えれば海にも面しているため、防衛・生活の双方において極めて適した土地であることが確認されました。

そこで、皇太子であるイワレビコを総大将とし、兄の五瀬命、稲飯命、三毛入野命らが補佐する体制で東征を開始することが決定します。

また、一行が東征に向かうにあたっては、本国の守りと後方支援(補給路の維持)が極めて重要な課題となりました。

万が一、東征軍が全滅した場合のリスクヘッジとして後継者を残す必要もあったため、イワレビコは日向の地を次男のキスミミに託すこととなります。

なお、『魏志倭人伝』の九州説に基づくと、当時戸数が万を超える大国は奴国・邪馬台国・投馬国の3カ国でした。

東征という大規模な計画を継続的にバックアップできた背景を考えると、天皇家(天孫族)のルーツとなった九州の拠点もまた相応の大国であったと推測されます。

日向に残ったキスミミとその子孫が治めた国こそが「投馬国」であり、4世紀から7世紀にかけて西都原古墳群が築かれた地域(都萬神社周辺)に
その拠点があったのではないか、という興味深い説も存在します。

神武東征で目指した東方の地・大和は、古代における立地条件が極めて優れていました。

当時は奈良盆地の中心に奈良湖が存在しており、豊富な水資源によって水路の確保や水田稲作が容易でした。

さらに、四方を森に囲まれて森林資源が充実していたほか、生駒山の西側に広がる湾を利用した漁業や水上交易も盛んに行える環境が整っていました。

このような条件に恵まれた地を制圧したからこそ、大和王権は勢力を拡大していくことができたと考えられます。

美々津での出航準備と宇佐での歓待

イワレビコは演説を行い神武東征の準備が出来ました。

安全祈願を終えた一行は、出航に適した追い風を待っていたわけです。

夜中に都合の良い風が吹き始めたため、寝静まっていた船乗りや兵士たちを急いで叩き起こし、即座に出航を果たしました。

この夜間の急な出航に際し、兵士たちを起こして回ったという伝承が、宮崎県日向市美々津町の伝統行事「おきよ祭り」
(短冊飾りのついた笹竹を手に「起きよ、起きよ」と家々の玄関を叩いて回る祭り)の由来とされています。

美々津町:おきよ祭り

出航後、北上した一行は豊国の宇佐(大分県宇佐市)に到着し、地元の豪族ウサツヒコから手厚い歓迎を受けました。

イワレビコは東征中の後方警戒と政治的安定を図るため、重臣のアメノタネとウサツヒコの妹であるウサツヒメとの婚姻を取り決めました。

この政略結婚によって背後の安全を確実に確保するとともに、強い協力関係を築きました。

なお、このアメノタネの子孫は、のちに古代国家の重要勢力となる中臣氏や藤原氏へと繋がっていくことになります。

筑紫の岡田宮への北上

宇佐を出発したイワレビコ一行は、すぐに瀬戸内海へ東進するのではなく、一度北上して筑紫の岡田宮(現在の福岡県北九州市周辺とされる)へ進路をとりました。

一行がわざわざ北上して筑紫の岡田宮を訪れた理由や背景については、主に以下の説が挙げられます。

・背後に位置する強国「奴国」に対する警戒と牽制のため
・高い航海術を持つ強力な海上勢力「宗像氏」との連携・懐柔を図るため

なお、『古事記』の記述では一行は岡田宮に1年間滞在したとされていますが、1年間の滞在目的の詳細は記載されていません。

奴国との外交交渉や、宗像三女神を祀り高度な航海技術を有していた宗像氏との協力関係構築に多くの時間を充てていたと考えられています。

※当時の暦法である「春秋暦」の適用を前提とすれば、実際の滞在期間は半年であった可能性もあります。

安芸国・吉備国での長期滞在

イワレビコ一行は、筑紫の岡田宮を出発したのち、安芸国の多祁理宮(たけりのみや)へと移動しました。

伝承によれば、一行はこの多祁理宮に7年もの長期間滞在したとされています。

これほどの長期間にわたって滞在した正確な理由は定かではありません。

しかし、拠点のあった日向から遠く離れた地であったため、補給路(兵站)の確立や周辺勢力の懐柔・協調関係の構築など、政治的・軍事的な調整を重ねていたと考えられます。

また、大規模な船団を維持するためには、食料や飲料水の絶え間ない確保はもちろん、長旅による船員たちの健康管理や疲労回復など、細やかな配慮と多大な労力が必要でした。

本格的な戦闘こそまだ発生していなかったものの、一行の心理的な負担は計り知れないものがあったと推測されます。

安芸国の多祁理宮を後にしたイワレビコ一行は、吉備国の高島宮へと移動しました。

一行は吉備の高島宮に8年間という長期間滞在しました。

吉備は食料が豊富なだけでなく砂鉄の産地でもあったため、船の補修や武具・食料の拡充を行い、戦力を大幅に強化することができました。

速吸の海峡でのシイツネヒコ加入

肥沃で資源豊かな吉備の地で万全の準備を整えた一行は、いよいよ大和平定に向けた本格的な進軍を開始します。

なお、吉備はのちに吉備氏が興隆し、大和王権を脅かすほどの勢力を誇る地域となります。

※のちに壬申の乱を経て備前・備中・備後に分割され、さらに備前北部が美作に分かれました。

日向も同様に薩摩や大隅などが分割されたという歴史があります。

イワレビコの一行は吉備を出発しますが、途中で大亀に乗ったシイツネヒコが仲間に加わりました。

白肩津到達と古地形学による史実性

シイツネヒコの案内を得て難波(なにわ)の水門に達した船団は、激しい潮流からその地を「浪速(なみはや)」と名付けました。

そして、満潮の上げ潮に乗って川を遡り、生駒山の麓にあたる河内国草香村の「白肩津(しらかたのつ)」へと上陸を果たしました。

この「船で白肩津(生駒山麓)に到達した」という『日本書紀』の記述こそが、神武東征の実在性を物語る最大の歴史的証拠とされています。

実際に長浜浩明氏は、ここに目を付けて神武東征は実在したと考えました。

現在の地形では、生駒山の麓は完全に内陸部であり、船でアプローチすることは不可能です。

しかし近年の地質学・古代地形学の研究により、紀元前1世紀頃の大阪平野は海水が流入する「河内潟(かわちがた)」であったことが判明しています。

(画像:まっぷる)

河内潟の時代であれば、上げ潮に乗って海水が深く内陸(生駒山麓)まで入り込み、引き潮とともに河川水と混ざり合って海へ流れるため、
記述どおり「川を遡って白肩津へ船で渡る」ことが可能となります。

変遷を整理すると、以下のようになります。

・縄文海進期(河内湾の時代):巨大な湾となっており、「川を遡る」という表現とは一致しません。

・弥生時代中期~後期(河内潟の時代):潮の満ち引きを利用して川を遡上し、白肩津へ直接船でつけることができた唯一の時期です。

・紀元前50年以降(河内湖の時代):砂州の発達により淡水湖化し、海水が途絶えたため、船で白肩津まで遡上することは困難となりました。

実際に東大阪市からはマッコウクジラの化石も発掘されており、生駒山麓がかつて海と繋がっていたことが確実視されています。

『日本書紀』が編纂された7世紀(飛鳥~奈良時代)には、すでに生駒山の麓は内陸化しており、当時の編纂者たちが創作でこのような地形描写を描くことは不可能です。

この事実から、記紀の記述は口伝や古記録を通じて古くからの事実を正確に継承していたと推測され、神武東征の史実性を裏付ける決定的な根拠となっています。

孔舎衛坂の戦いと五瀬命の死

こうして生駒山の麓へと到達したイワレビコの軍勢は、この山を超えさえすれば目的地である大和の地へ足を踏み入れられるという直前まで迫っていました。

しかし、ここで神武東征における最大の強敵が一行の前に立ちはだかります。

それが、大和を支配する豪族ナガスネヒコです。

天津神の軍勢による侵入を到底受け入れられないナガスネヒコは、自ら出陣して迎撃体制を整えました。

『日本書紀』によると、ここで「孔舎衛坂(くさえのざか)の戦い」が勃発し、イワレビコ軍とナガスネヒコ軍による死闘が繰り広げられることになります。

孔舎衛坂の戦いが開戦すると、ナガスネヒコ軍から猛烈な矢の雨が浴びせられました。

イワレビコ軍は盾を並べて防戦の体制を整えました。

このことから、この地はのちに東大阪市の旧名「盾津」と呼ばれることになります。

劣勢に立たされたイワレビコ軍において、長男の五瀬命自ら前線に立ち指揮を執りましたが、敵の集中砲火を浴びて流矢に当たり、重傷を負ってしまいました。

イワレビコらは一度体勢を立て直すため、全軍撤退を決断しました。

負傷した五瀬命は、日の神の子孫である自らが太陽の向かう東に向かって戦った戦術の非を指摘し、太陽を背にするよう迂回して南下することを提案しました。

陣営はその助言に従い、紀伊半島を回り込むルートをとるため船を南へ進めました。

和泉国に到着後、五瀬命の傷口を洗ったところ、海が赤く染まったことからその地は「血沼海(ちぬのうみ)」と呼ばれるようになったとされています。

その後、五瀬命はイワレビコらに後事を託して息を引き取りました。

『古事記』によれば、五瀬命が亡くなった港は「男水戸」と呼ばれるようになったと記載されています。

また、彼の終焉の地として「男神社(おのじんじゃ)」も現存しています。

このように神武東征の物語には多くの地名由来が含まれていますが、専門家の間では「先に地名が存在しており、その地名に合わせて物語が後から作られたのではないか」という指摘もなされています。

暴風雨と稲氷命・御毛沼命の死

五瀬命を失ったものの、残された兄弟とイワレビコは東征の継続を誓い、太陽を背にして熊野へと向かいました。

その途上、行手を阻む女賊・名草戸畔(ナグサトベ)を討伐し、軍勢は初の勝利を収めます。

しかしその後、一行は極めて激しい暴風雨に見舞われました。

精神的に追い詰められた次男の稲氷命と三男の御毛沼命は、海神の血を引く自らの出自を叫び、「どうして私を陸だけでなく海でも苦しませるのか」と嘆きながら海へと入水し、命を落としてしまいました。

神武東征は、この時点で四兄弟のうち生存しているのはイワレビコのみとなりました。

なお、『日本書紀』によれば、御毛沼命は波を踏んで「常世の国(とこよのくに)」へ渡ったとも記録されています。

常世の国は、出雲神話で少彦名神(スクナビコナ)が去った地としても知られています。

これは一説には海のかなたにある理想郷や、黄泉の国(あの世)を指すと言われています。

また別の伝承では、御毛沼命は東征の途中で命を落としたのではなく、日向の高千穂へと帰還したという説も存在します。

高千穂の地では、御毛沼命が荒ぶる悪神「鬼八(きはち)」を退治したという伝説も今に伝えられています。

熊野での怪異と天照大神の介入

暴風雨によってイワレビコは兄たちを失いましたが、神武東征にはイワレビコの長子である手研耳命(タギシミミ)も同行しており、
共に難局を乗り越えていくことになります。

熊野に漂着したイワレビコと長子のタギシミミは、疲弊した軍勢を率いて前進を試み、その地域を支配していた丹敷戸畔(ニシキトベ)という女賊を退治しました。

しかし、女賊の討伐直後、一筋縄ではいかない怪異が生じました。

突如現れた巨大な熊の姿を目撃すると同時に、全軍が毒気にやられて気を失い、イワレビコも含めてその場に倒れ伏してしまったのです。

高天原において、地上で危機に直面するイワレビコたちの惨状を静観していた天照大神は、自らの子孫を救うべく救済の介入を決意しました。

神武東征は単なる「東遷(移動)」ではなく、各地の勢力と戦いながら進む「東征(征服)」でした。

ここから先は、内通者の利用や各種の策を講じるなど、より本格的な軍事行動へと発展していきます。

イワレビコ軍は3人の兄を失うという大きな打撃を受けましたが、陣営には道臣命や大久米命、途中で加わったシイツネヒコなど、
非常に優秀な人物たちが揃っており、組織としての層の厚さが伺えます。

なお、これから活躍する道臣命(大伴氏の祖先)や大久米命は、名草の地で仲間になったとする説もありますが、当初から付き従っていたのかどうかは明確ではありません。

布都御魂の授与と八咫烏の導き

地上での危機を天界で見守っていた天照大神は、かつて出雲の国譲りを成し遂げた武神・建御雷神(タケミカヅチ)を降臨させようとしました。

しかし建御雷神は自身が直接行かずとも、国平定に用いた神剣「布都御魂(フツノミタマ)」を降ろせば十分であると提案します。

神剣は地上の忠臣・高倉下(タカクラジ)の倉の屋根に穴を開けて落とし込まれました。

高倉下は夢の中で天照大神から託宣を受け、目覚めた後に倉にあった布都御魂をイワレビコのもとへ届けます。

剣の霊力により、イワレビコと将兵はただちに覚醒し力を取り戻しました。

なお「布都御魂」は、スサノオがヤマタノオロチを退治した「天羽々斬(アメノハバキリ)」、ヤマタノオロチの尾から出た「草薙剣(クサナギノツルギ)」と並び「神世三剣」と称されています。

崇神天皇の時代に石上神宮(奈良県天理市)へ移され、現在も御神体として祀られています。

体制を整えたイワレビコが進軍を再開しようとすると、天照大神からの神託が下り、「これより奥の山中には荒ぶる神々がひしめいているため、先導として天より八咫烏(ヤタガラス)を遣わす」と告げられました。

イワレビコ一行はこの八咫烏の導きに従って山中を進むこととなります。

宇陀での戦い(兄猾と弟猾)

熊野を抜けた一行は、奈良盆地の入り口に位置する宇陀(うだ/現:奈良県北東部・宇陀市)へ到達しました。

宇陀にはエウカシ(兄猾)とオトウカシ(弟猾)という兄弟の豪族がいました。

イワレビコは使者として八咫烏を遣わし服属を促しましたが、兄のエウカシはこれを拒絶し、矢を放って威嚇しました。

エウカシはイワレビコ軍を迎え撃つために集兵を試みましたが、思うように兵が集まらなかったとされます。

そこで彼は「宮殿を造営して歓迎する」と偽り、内部に踏むと圧死する大陥井(罠)を仕掛けてイワレビコを暗殺する計画を立てました。

一方、弟のオトウカシは天津神の権威を恐れ、イワレビコに恭順を示して兄の罠を密告しました。

罠を見抜いたイワレビコ側の将軍・道臣命(ミチノオミノミコト)と大久米命(オオクメノミコト)は、エウカシに対して「自ら造った宮殿であるなら、まず自分が先に入って忠誠を示せ」と刀を突きつけて強迫します。

追い詰められたエウカシは室内へ入らざるを得なくなり、自身が仕掛けた罠にかかって絶命しました。

その後、道臣命らはエウカシの屍体を斬り刻んでばら撒いたとされ、その地は「宇陀の血原」と呼ばれるようになりました。

生き残った弟のオトウカシはご馳走を献上して服属し、後に宇陀の水取(もいとり/『日本書紀』などの神話・古代史に登場する一族 )の祖先となりました。

忍坂の土蜘蛛退治と兄師・弟師の平定

宇陀を制圧した一行は、奈良盆地の入り口にあたる忍坂(おさか/現:奈良県桜井市忍坂)へ進みました。

忍坂の大きな岩穴には「土蜘蛛(つちぐも)」と呼ばれる、朝廷やヤマト王権に従わない先住勢力が待ち構えていました。

イワレビコは彼らを宴に招き、土蜘蛛の兵一人ひとりに味方の給仕(饗応役)を1人ずつ配置します。

給仕には刀を隠し持たせ、「イワレビコが歌を詠んだら一斉に斬りかかれ」と命じておき、宴の最中に不意を衝いて土蜘蛛らを全滅させました。

続いてイワレビコは、忍坂周辺の豪族であるエシキ(兄師)・オトシキ(弟師)の兄弟に対しても使者を派遣しました。

兄のエシキは使者の八咫烏を罵倒して弓を構え、八十梟帥(やそたける)らの勢力を結集して徹底抗戦の構えを見せます。

一方、弟のオトシキは八咫烏を歓待し、イワレビコに恭順を示しました。

エシキとの戦いとなりますが、椎根津彦の策謀が上手く行き戦いに勝利しています。

ナガスネヒコとの再戦と大和平定

ついに奈良盆地への進入を果たしたイワレビコ軍でしたが、その前に孔舎衛坂の戦いで敗北した宿敵ナガスネヒコが立ち塞がりました。

互いに譲らない激しい戦闘が続き、一進一退の激戦となります。

戦況が膠着する中、突如として空が暗転し氷雹(ひょう)が降り出しました。

すると金色の鳶(トビ)が飛来し、イワレビコの弓の先に止まります。

金色の光は眩しく輝き、ナガスネヒコの軍勢の兵は目が眩んで戦う力を失いました(金鵄伝承)。

大打撃を受けたナガスネヒコはイワレビコに使者を送り、「かつて天神の子である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が天の磐船で降臨され、
私の妹を娶って可美真手命(ウマシマデノミコト)が生まれた。

我が君主は饒速日命であり、天神の子が2人もいるのはおかしい。貴方は偽物ではないか」と主張します。

これに対しイワレビコは「天神の子は多い。本物であるなら証拠があるはずだ」と応じ、互いに天神の子の証である「天羽々矢(アメノハバヤ)」と「歩靫(カチユキ)」を示し合いました。

互いの品が本物であることを確認し、ナガスネヒコは畏怖しますが、もはや後戻りできないと悟りつつも服従を拒み続けます。

主君である饒速日命は、天命がイワレビコにあることを悟り、ナガスネヒコを再三説得しました。

しかしナガスネヒコが頑なに改心しなかったため、饒速日命は自らナガスネヒコを斬り殺し、残された軍勢を率いてイワレビコに恭順・帰順しました。

神武東征の最大の難敵であったナガスネヒコは世を去りました。

神武天皇と日本建国

最大勢力であったナガスネヒコを倒し、大和の地に入ったイワレビコは、周辺の従わない部族を次々と平定しました。

これにより神武東征は完遂されました。

大和平定を成し遂げたイワレビコは、橿原宮(かしはらのみや)において第一代天皇である神武天皇として即位の礼を執り行い、天下を治める治世を確立しました。

この一連の出来事をもって、日本の建国が始まったと伝えられています。

なお、神武東征の伝承においては、記紀などの古記録を通じて数々の久米歌や久米舞が随所に織り交ぜられながら物語が展開し、大業が成就されたと考えられています。

神武東征の動画

神武東征のゆっくり解説動画となっております。

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