
| 名前 | メディア王国 |
| 第一次メディア王国 | 前674年?ー前653年? |
| 第二次メディア王国 | 前625年?ー前550年 |
| コメント | 謎が多すぎて不明点が多い。 |
メディア王国はイラン系アーリア人の国だと考えられています。
スキタイにより一時的に滅ぼされており、第一次メディア王国と第二次メディア王国に分かれています。
アッシリアを滅ぼすのに貢献し、四王国分立時代には新バビロニア、リディア、エジプト第26王朝と共にオリエントの世界に君臨しました。
ヘロドトスによるとメディアは大帝国を築いており、西はアナトリアのリディアと国境を接し、中央アジアも支配するなど巨大な帝国だったと記録されています。
しかし、メディアだと認定される遺跡が極度に少ない事から、勢力は小さかったとする説や極論としてメディア王国は無かったとする説まで現れました。
ヘロドトスはメディア王国を過大に評価しすぎているとする声もあります。
専門家の中にはメディア王国は、アッシリアとの交易で栄えたザグロス山脈の一勢力でしかないとする論文も出されています。
現在のところですが、考古学的にはメディアの支配領域が、メソポタミア北部やアナトリアまであったとは確認が出来ていない状態です。
尚、メディア王国はアケメネス朝ペルシアのキュロス2世により滅ぼされた事になっています。
メディアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアは四王国分立時代の大国を全て滅ぼし、世界帝国を築き上げました。
メディア人はイラン系アーリア人
メディア人はイラン系アーリア人だとされていますが、最初からイラン高原にいたとは考えられていません。
カスピ海やアラル海の北にメディア人がいた事は専門家の中で大体が一致しており、イラン高原に侵入したのには二つの説に分かれます。
一つ目の説として、元は北方におりアラル海の東岸を回り、イラン高原にメディア人は入ったと考えられています。
ただし、アーリア人の中にはアラル海を東に向かい、インドに入った部族もいたとされています。
アーリア人の中で北西に動いたのがメディア人であり、エラムと入れ替わるような形で南西に入ったのがペルシア人とみられています。
もう一つの説がメディア人がカスピ海の北岸におり、コーカサス山脈を越えて南下し東回りでイラン高原に入ったとする説です。
どちらの説もメディア人が、イラン高原の西北部に住み着いた事は共通となっています。
現在のイラン高原は三分の二が砂漠とも言われていますが、メディア人が訪れた頃は、ある程度の草木があり定住意欲がそそられる地だったと考えられています。
尚、メディア人がイラン高原に移動した時期は不明ですが、ざっくりと言えば紀元前2000年紀の青銅器の時代だったのでしょう。
ここで長期間に渡り騎馬遊牧生活を送り、紀元前1000年紀までには、定着農耕も行っていたとされています。
イラン系アーリア人がイランに定着した証拠として、墓が変化した事や新型の土器が挙げられています。
紀元前9世紀頃になると、アッシリアの史料にイラン人が登場する様になります。
最初にイラン人としてメディア人、ペルシア人が現れ、後にパルティア人、バクトリア人、アラコシア人が出て来るようになります。
これらの民族がイランの五大部族となります。
ニサの馬
メディア人はウルミア湖の南から東方に勢力を拡大させたと考えられています。
現在のハマダン、ケルマンシャー周辺に定着したとみられています。
メディア人が拠点とした地域は高原であり「ニサの馬」と呼ばれる名馬の産地でもありました。
アッシリアのエサルハドンやアッシュル・バニパルが名馬を求めて、メディア人の居住区に侵入した話も残っています。
メディア人の記録
メディア人の名が登場する歴史の時代に入りますが、メディア人は自らの記録を残しておらず、分からない事がかなり多い状態です。
しかし、メディア人の記録は考古学、旧約聖書、ヘロドトスの「歴史」、アッシリアの記録が残っており情報が全くないわけでもありません。
メディアの歴史と言えばヘロドトスが一番有名で詳細に書かれてはいますが、後世の記録であり全てが正しいとは限らないと考えられています。
近年、ヘロドトスの歴史は全体的に信憑性に欠けるとする声もあります。
ただし、ヘロドトスの記述は全てが間違っているわけではなく、伝承などを取り入れた結果として一部は事実を反映しているとみられています。
外国勢力との戦いが始まる
アッシリアとの開戦
メディア人がいたイラン高原はメソポタミア地方に比べると、農業ではかなり不向きでした。
しかし、アッシリアはニネヴェを最終的に首都にしており、ザグロス山脈の付近に巨大勢力がいる事は防衛の観点から見て不都合な状態でもあったわけです。
さらに、メソポタミアでは鉱物を輸入に頼らねばならず、中央アジアやインドに抜けるルートにメディアが存在している事から、放置できない問題もありました。
アッシリア帝国はメディアを制圧する為に動く事になります。
アッシリアではニサの馬を求めた事もあり、シャルマネセル3世の時代からメディアの名前が登場する事になります。
シャルマネセル3世の治世24年(前835年)にシャルマネセル3世がナムリ地方からパルスワ(ペルシア?)を経て、山を越えマダイ(メディア)からハルハルに攻め入ったとあります。
メディアはウルミア湖の東南におり、族長が支配する遊牧生活を行っていた記録があります。
アッシリアはメディアの支配権を巡ってウラルトゥと戦いました。
これらがメディアの初出であり、近隣のハサンルを拠点にしたマンナイ人と密接な関係にあったと言います。
この時点のアッシリアとしては、自分達を滅亡においやるのがメディア人だとは思ってもみなかった事でしょう。
尚、アッシリアではシャルマネセル3世からアッシュル・バニパルまで、メディアに関して言及した記録が残っています。
スキタイとの開戦
紀元前7世紀頃に、スキタイ人がウクライナ平原の覇権を握りました。
キンメリア人が追い出されたとも考えられており、キンメリア人とスキタイ人がコーカサス山脈を越えて、オリエントの世界に侵入する事にもなったわけです。
スキタイ人は遊牧民であり、イラン高原の西北部に位置するメディア人の居住地はかなりうま味のある土地として見られたのでしょう。
メディア人はスキタイ人とも戦闘を行う様になります。
アッシリアやスキタイと戦う事になったメディア人は、開戦当時は不利だったと考えられています。
アッシリアのアダド・ニラリ3世の時代には、メディアに8回も遠征した記録があり、苦労は計り知れないものがあったとみられます。
ただし、アッシリアはイラン高原に拠点を設置するまでには至っておらず、紀元前8世紀の前半の段階では勢力は均衡していたと考えられています。
第一次メディア王国の建国から滅亡の歴史
メディア王国の建国
ヘロドトスによるとメディア王国の初代国王は、デイオケスだったとあります。
デイオケスにより首都のエクバタナが定められた事になっています。
デイオケスの後継者ですが、ヘロドトスはフラオルテスを2代目としました。
しかし、別資料ではキュアクサレス1世を二代目とするものもあります。
尚、デイオケスとキュアクサレス1世は存在しなかった可能性も指摘されていますが、フラオルテスは実在を確実視されています。
実質的なメディア王国の建国者はフラオルテスだったとも考えられています。
紀元前672年にフラオルテスがスキタイ人の援軍により、独立王国を建国したともされており、これこそがメディア王国の建国だとも見られています。
尚、フラオルテスが建国したメディア王国は第一次メディア王国と呼ぶべきものでしょう。
謎多きメディア王国の首都エクバタナ
メディア王国ではエクバタナ(現在のハマダン)を首都としました。
フラオルテスはエクバタナに7重の城壁で守られた堅牢な城市を築いたとされています。
ただし、ハマダンでは長期に渡る発掘調査が行われてはいますが、メディア時代の層が発見されていません。
それだけではなく、メディア遺跡とみなされているもの自体が少ない状態であり、後述しますが首都のエクバタナだけではなく、考古学的にはメディア王国の大部分が謎に包まれており、様々な説を述べる専門家がいる状態です。
メディアの六大部族
ヘロドトスはメディア人の六大部族を紹介しています。
| ブサイ | パレタケノイ | ストルカテス |
| アリカザントイ | ブディオイ | マゴイ |
メディアの六大部族の中で純粋なメディア人と考えられているのは、ブサイ族だけであり、パレタケノイとブディオイはスキタイ人の系統だと考えられています。
アリカザントイは「アーリア部族」を意味する言葉であり、ストルカテスに関してはよく分かっていません。
メディア王国は建国した時に、既に混血がかなり進んでいたと考えられています。
それと同時に多くの人々が混在していたのでしょう。
第一次メディア王国の滅亡
紀元前653年の段階でメディア王のフラオルテスは、アッシリアの首都のニネヴェを攻撃しました。
フラオルテスはニネヴェの攻略に失敗し、戦死する事になります。
こうした中でスキタイ王のマドイェスがアッシリアと同盟し、攻撃を仕掛けてきたわけです。
スキタイとアッシリアと敵対したメディア王国は脆くも、滅亡する事になります。
これが第一次メディア王国であり建国してから、僅か19年で滅亡しました。
第一次メディア王国は部族連合から脱する事が出来ておらず、激しく抵抗する事も出来なかったと考えられています。
第二次メディア王国の建国から滅亡まで
第二次メディア王国の建国
第一次メディア王国は滅亡し、スキタイにより支配される事になりました。
この支配は28年間続いたと考えられています。
フラオルテスの子のキュアクサレス2世は、紀元前625年にマドイェスを祝宴に招き暗殺しました。
キュアクサレス2世はスキタイの勢力をコーカサス山脈の北方に駆逐する事になります。
これによりキュアクサレス2世は、第二次メディア王国を建国しました。
中央集権化を目指す
キュアクサレス2世は部族連合を解体させ、中央集権化を目指す事になります。
さらに、軍事でも槍兵、弓兵、騎馬兵からなる常備軍を設置しました。
後にアケメネス朝ペルシアでは、フシャスラバーワン(サトラップ)と呼ばれる地方総督がいましたが、これらのメディア語起源と考えられるものも多く、異説はありますがメディア王国では中央集権化が成り立っていたとも見られています。
ヘロドトスもメディアには高度な統治機構が備わっていたと考えていたようです。
イラン高原の鉱山資源やスキタイから学んだ家畜の交配などの技術により、メディア王国は栄えたと考えられています。
アッシリアの滅亡
アッシリアは古代オリエントの全域を支配する程の強力な帝国となりましたが、アッシュル・バニパルの治世末期には崩壊に突き進んだと考えられています。
セム語系のカルデア人出身だとみられているナボポラッサルが、紀元前625年頃に新バビロニアを建国しました。
キュアクサレス2世はナボポラッサルと同盟し、アッシリアと戦う事になります。
紀元前612年にはメディア王国と新バビロニアの連合軍が、アッシリアの首都のニネヴェを陥落させました。
アッシリアはニネヴェ陥落後も抵抗しますが、紀元前609年までには滅亡したと考えられています。
アッシリアが滅亡した事でオリエントの世界はメディア王国、新バビロニア、リディア王国、エジプト第26王朝の四王国分立時代に突入しました。
メディア王国の全盛期
キュアクサレス2世はアッシリアの滅亡後も勢力拡大に余念がなかったと伝わっています。
メディア王国は小アジアからメソポタミア平原北部及び、イラン高原を支配領域とする大帝国を築いたとも考えられています。
この時の首都のエクバタナは、アッシリアのニネヴェよりも栄えていたとする話もあります。
アッシリアを滅ぼしてからのキュアクサレス2世の時代が、メディア王国の全盛期と考えられています。
ただし、後述しますがヘロドトスはメディア王国を強大な帝国としましたが、考古学的な見解から、そこまで大きな国ではなかったのではないか?とする見方も強くなっている状態です。
尚、リディアとの日食の戦いが起きたのは、紀元前585年頃であり、キュアクサレス2世の時代だったと考えられています。
日食戦争の後に、新バビロニアのネブカドネザル2世の仲介により、メディア王国の王子のアステュアゲスがリディアの王女のアリュエニスを娶りました。
後に新バビロニアとの婚姻も成立し、メディア、リディア、新バビロニアで三国同盟を結んだと言えるでしょう。
ただし、日食の戦いが終わった頃に、キュアクサレス2世は没しました。
アステュアゲスの外交政策
キュアクサレス2世が亡くなると子のアステュアゲスがメディア王に即位しました。
アステュアゲスは新バビロニア王国のネブカドネザル2世に、メディア王国のアミュテスを嫁がせています。
さらに、イラン高原南西部の臣下でもあったペルシア王の、カンビュセス1世にも娘を嫁がせました。
メディア王国の滅亡
アステュアゲスにはマンダネという娘がおり、キュロス2世を生んだとされています。
紀元前553年になると、キュロス2世がペルシアを拠点として反旗を翻しました。
メディア王国とペルシアは戦いとなり最初のうちは、メディア王国が優勢だったと伝わっています。
メディア王国とペルシアの3回目の戦闘で、アステュアゲスが派遣したハルパゴスが寝返り、紀元前550年には首都のエクバタナにまで押し寄せました。
遠征軍が反乱軍となって帰ってきたわけであり、メディア王国は大混乱となり、首都は呆気なく陥落したとされています。
これがメディアの滅亡です。
メディア王国を滅ぼしたキュロス2世がアケメネス朝ペルシアの実質的な建国者となります。
アケメネス朝ペルシアは後にメディア王国だけではなく、リディアや新バビロニア、エジプト第26王朝を滅ぼし、古代オリエントを制圧しました。
尚、メディア王国の最後の王であるアステュアゲスは幽閉はされましたが、危害は加えられず天寿を全うしたともされています。
メディア王国と考古学
ヌーシェジャーン遺跡とゴディン遺跡
イランにはヌーシェジャーン遺跡とゴディン遺跡があり、この二つの遺跡とハマダンの周辺がメディア王国の本拠地だと考えられてきました。
しかし、両方の遺跡に文字が発見されておらず、本当にメディア時代の遺跡なのかと疑う人もいるのが現状です。
それでも、メディア王国の遺跡を考古学で考える上では、ヌーシェジャーン遺跡とゴディン遺跡がメディアの遺跡だと認識した上で始めなければならないと言われています。
ハマダンはメディア王国の首都であったエクバタナであったと考えられていますが、ハマダンでは先の両遺跡と同じ遺物や遺構が発見されておらず、未だにメディア時代の文化層は発見されていない事になってしまうわけです。
メディア王国の遺跡が見つからないのは、カジャール朝の初代皇帝であるアーガー・モハンマド・シャーの時代の建設活動により、既に破壊され無くなってしまったとも見られています。
専門家の中にはメディアと断言できる遺跡は、存在しないと述べる者もいる程です。
イランはメディア王国の勢力範囲である
近年の研究成果によりヌーシェジャーン遺跡の土器や遺構との類似性から、メディアの支配領域が、イラン中央部や東北部まで拡がっていた可能性が指摘できる様になっています。
それでも、ヘロドトスがいう様に、アナトリアのリディアと国境を接するほどの大帝国だったとする証拠は見つかっていません。
しかし、現状ではメディア期の遺跡の影響がみられる遺跡が増えているとされており、今後の発掘に期待するしかないのが現状でしょう。
いつの日か、ヘロドトスのいう様な大メディア帝国の出現が見られる可能性は、まだ残っているとみる事が出来ます。
歴代メディア王
歴代メディア王ですが、諸説あります。
・デイオケス
・キュアクサレス1世
・フラオルテス
・キュアクサレス2世
・アルバケス
・アスティアゲス