その他 三国志 魏(三国志)

灊山の戦い

2022年6月30日

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宮下悠史

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灊山の戦い(せんざんのたたかい)西暦209年 
交戦勢力曹操陳蘭梅成
指揮官張遼于禁張郃、臧覇など陳蘭、梅成
兵力不明不明
損害不明陳蘭、梅成は斬首、軍勢は全て捕虜
勝敗

灊山の戦いは、陳蘭梅成が籠る灊山を張遼が破った戦いです。

灊山の中にある天柱山で戦った事から、天柱山の戦いと言ってもよいでしょう。

灊山の戦いでは張遼の武勇が光った事は事実ですが、張郃の奮戦や于禁の食糧輸送なども多いに勝利に貢献しました。

灊山は要害だったわけですが、張遼の武勇が堅固さを上回った戦いでもあるのでしょう。

戦いに敗れた陳蘭と梅成は斬られた話があります。

尚、ここで登場する梅成は、梅乾と同一人物だとも考えられています。

陳蘭・梅成が反旗を翻す

曹操は赤壁の戦いで周瑜黄蓋の活躍により敗れ、曹仁を江陵に残し北方に向かいました。

周瑜が江陵包囲戦を行っている頃に、廬江の陳蘭や梅成が六の氐族の居住地で反旗を翻したわけです。

過去に陳蘭は梅乾、雷緒らと近辺を荒しまわっていた話がありますが、劉馥が揚州刺史に任命されると、劉馥に帰順しました。

しかし、劉馥は208年に亡くなっており、曹操が赤壁の戦いで敗れた事で地域が動揺が増し、陳蘭と梅成が反旗を翻したのでしょう。

陳蘭や梅成は賊だったとも考えられており、恩徳を与えていた劉馥が亡くなった事に不安を覚え、乱を起こした可能性もあります。

尚、陳蘭や梅成は単独では曹操の軍に勝てない事は明白であり、呉の孫権に援軍を依頼する事になります。

灊山に籠る

陳蘭、梅成は反旗を翻しましたが、陳蘭を張遼張郃、牛蓋(朱蓋)が討伐する事になり、梅成に対しては于禁と臧覇が対峙する事になります。

この時に梅成の手勢は三千しかいなかった話もあり、梅成は于禁に降伏しました。

梅成が降伏した事で、于禁は撤退の準備をしますが、梅成は陳蘭と合流し灊山に籠城したわけです。

ここにおいて、灊山の戦いが勃発します。

灊山は過去に陳蘭が袁術の受け入れを拒否し、雷薄といた場所であり、地形に関してはかなり詳しかったはずです。

地の利は陳蘭と梅成にあったとも言えます。

因みに、張遼、張郃らの軍は兵糧が少なかったわけですが、于禁が兵站の任務を見事に行い張遼の軍を助けました。

さらに、臧覇が逢龍・夾石の戦いで呉の韓当を破り、孫権が出撃してきますが、孫権が退却すると追撃を行い大きな被害を与えています。

孫権は臧覇に阻まれ陳蘭、梅成の救援に失敗し、援軍を送る事が出来なかったわけです。

この辺りの張遼、于禁、臧覇の連携は抜群だと言えます。

各々が役割を見事にこなしたと言えるでしょう。

因みに、前年の赤壁の戦いは一般的には大敗だと言われていますが、敗戦の翌年にも関わらず、曹操の軍は滅法強く赤壁の戦いは大敗では無かったとする説もあります。

天柱山の戦い

灊山の戦いに関しては、正史三国志の張遼伝、于禁伝、臧覇伝などにありますが、本戦に関しては張遼伝が一番詳細に書かれています。

張遼伝によれば、灊山の中に天柱山があったとされています。

天柱山は高く険しく二十余里に渡る道は、狭く危険だったとあります。

陳蘭は天柱山の奥に砦を築いており、寡兵でも大軍を相手に出来る場所と考えたのでしょう。

張遼は天柱山に向けて進軍しようとしますが、張遼の部下は「進むのは困難」と述べます。

しかし、張遼は道の狭さを察し「1体1の戦いであり勇気があれば進む事が出来る」と言い前に進みました。

張遼は山の下に陣を布くと、陳蘭と梅成が籠る城を攻撃します。

この時は張遼の武力が陳蘭や梅成を圧倒しており、陳蘭と梅成は首を切られ、軍勢は全て捕虜にされました。

記述は簡略ですが、張遼の軍が犠牲を出しながらも勇敢に突撃し、陳蘭と梅成の軍を破ったという事なのでしょう。

曹操は天柱山の戦いに参加した者を表彰し「天山を攻撃し陳蘭、梅成の首を取ったのは、賊を征討する功績である」と述べた話があります。

曹操は張遼の軍に参加した者に対し、ご満悦だったのでしょう。

曹操は張遼や部下らに領地を加増し、張遼を仮節としました。

灊山の戦いは陳蘭梅成らが要害に立て籠もりはしましたが、終わってみれば張遼のワンサイドゲームだったとも言えます。

さらに言えば、于禁や臧覇も良い働きをしたと考えるべきでしょう。

魏の名将による見事な連携プレーが発揮されたのが、灊山の戦いです。

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