船中敵国 | 読み方:しゅうちゅうてきこく |
意味 | 君主が徳を治めなければ味方も敵になってしまう例え |
船中敵国は西河の太守だった呉起が、主君の魏の武侯に徳の大切さを説いた話です。
船中敵国の意味としては、目上の者が徳を治めなければ、味方も揃って敵になってしまう事の例えとなっています。
船中敵国は史記の孫子呉起列伝にあり、知っている人も多い事でしょう。
ただし、呉起は魏の武侯には徳の大切さを説きましたが、楚で宰相になった時に、徳を治めず温情に欠けた政治を行った事で、楚の悼王が亡くなった時に、貴族たちの襲われ命を落としています。
司馬遷も指摘していますが、船中敵国の故事成語は呉起にブーメランの如く帰って来る事になります。
船中敵国のあらすじを解説します。
徳の大切さを説く
呉起は魏の李克が才能を認めていた事もあり、魏の文侯に仕える事になります。
魏の文侯の時代に西河太守となり、秦を破るなど絶大な功績を挙げました。
魏の文侯が没すると、魏の武侯に仕え共に西河を下った事があり、これが船中敵国の逸話となります。
魏の武侯は船から見た景色が余りにも素晴らしく「我が国の山野は美しく雄大で天然の防壁にもなっている」と絶賛しました。
これを聞いた呉起は魏の武侯に「大切なのは山河の険阻さではなく徳」だと述べる事になります。
呉起は例として有苗氏が夏王朝の禹に滅ぼされた事や、夏の桀王が殷の湯王に滅ぼされた事、殷の紂王が周の武王に滅ぼされた事を述べます。
呉起の言うには、有苗氏、夏の桀王、殷の紂王は険阻な地形に身を置いていたはずなのに、徳が無かった事で滅びたと告げています。
呉起は君主に徳が無くなれば、この船に乗っている者が全て敵になってしまうと、魏の武侯に諫言しました。
これが船中敵国の内容となります。
今の話が一般的な船中敵国の話となるのですが、物事はこれだけでは終わらなかったわけです。
呉起の死
呉起は抜群に仕事が出来る男ではありましたが、公叔(公叔座??)の離間の計により、魏の武侯との間に隙が出来てしまいます。
呉起は魏の武侯に疑われ楚に亡命しました。
楚の悼王は呉起の能力を高く評価し、楚の役職の中でも最高位に位置する令尹に任命しています。
楚の悼王の後ろ盾を得た呉起は、楚で大改革を行い兵士の給料を高くし、楚の貴族たちの権限を削減しました。
呉起は法治国家を目指し楚は強大になりましたが、楚の貴族たちは呉起の事を酷く恨んだわけです。
船中敵国の話で例えると、令尹の呉起が温情に欠ける政治を行った事で、船中が敵で満たされた事になります。
こうした中で、呉起の後ろ盾となっていた楚の悼王が亡くなると、楚の貴族たちは呉起を襲撃しました。
呉起は楚の貴族たちに殺され命を落としたわけです。
これを考えると船中敵国の諺は、呉起にブーメランとなった帰って来たとも言えるでしょう。
司馬遷も呉起の最期について「温情に欠けた政治を行った」と述べ、魏の武侯との船中敵国の話を持ち出しています。
因みに、楚の悼王の後継者となった楚の粛王は、呉起を殺害した貴族たちを処刑しました。
尚、呉起が楚で船中敵国の教えと反する行為を楚で行ったのは、魏と楚では政治の形態が違っており、秦の商鞅が行った様な法治主義が合っていると思った可能性もあります。
文化の中心地である中原から外れた秦や楚では、儒教の徳を持った政治よりも法治国家が最適だと考えたのかも知れません。
ただし、その法治主義が諸刃の剣だったとも言えるでしょう。