馬延は正史三国志や三国志演義に登場する人物です。
正史三国志の馬延に関する記述は1回しかなく、袁尚配下の将軍として登場します。
袁尚は袁譚と抗争を繰り返しますが、危機に陥った袁譚が曹操を呼び寄せました。
204年に曹操は審配が守る鄴を攻撃しますが、救援に来た袁尚を破ります。
袁尚は曹操に降伏しようとしますが、受け入れられず再び決戦を行おうとしますが、馬延と張顗が裏切りました。
馬延と張顗が裏切った事で、袁尚は戦いにならず袁煕を頼り北方に逃走する事になります。
史実の馬延に関しての記録に残っている部分は、張顗と同じであり、張顗の記事で既に書きました。
その為、馬延に関しては、三国志演義の記述を紹介しようと思います。
尚、三国志演義の馬延は趙雲に襲い掛かったり、甘寧に討ち取られた記述がありますが、正史三国志にはそのような記述はなく、羅貫中の創作だと言えるでしょう。
長坂の戦い
先にも述べた様に正史三国志で袁尚配下だったのに曹操に寝返り、袁尚の大敗北の原因を作った馬延ですが、三国志演義だとその後も登場します。
北方を統一した曹操は兵を南下させ、劉表が亡くなると劉備は新野を棄て江陵を目指しました。
劉備は民衆を連れての逃亡だった事もあり、曹操軍に追いつかれて乱戦の中で夫人や阿斗(劉禅)らとも離れ離れとなります。
こうした中で糜夫人が古井戸の中に身を投げ、趙雲が阿斗を抱き南下しました。
趙雲は張郃と出くわしますが、謎の光により何とか逃げ延びますが、四人の大将が立ちはだかる事になります。
三國志演義の記述だと四人の大将は過去に袁紹の配下だった馬延、張顗、焦触、張南だったと記載されていました。
この時に趙雲の後ろから馬延と張顗が迫り、前からは焦触、張南が襲い掛かる事になります。
趙雲は阿斗を抱いたままで夏侯恩から奪った青紅剣を振り乱し、我武者羅に敵を斬りました。
趙雲は無事に長坂橋まで逃げ通す事ができ、張飛に殿を任せ劉備の元に阿斗を届ける事に成功したわけです。
馬延らは趙雲に襲い掛かりはしましたが、趙雲を捕らえる事は出来ず逃げられてしまったという事になります。
ただし、三国志演義の趙雲は最高級の武勇を持っており、馬延らに向かって突撃を仕掛けてきたら、ひとたまりもなかった様に思います。
劉備は魯粛と出会い赤壁の戦いに向かいますが、馬延に関する記述はなりを潜めます。
馬延の最後
曹操は赤壁の戦いで周瑜や諸葛亮、龐統らの計略により大敗北を喫しました。
曹操は張遼や徐晃に守られて退却しますが、呉の呂蒙や淩統の攻撃を受けます。
こうした中で三千の兵を率いた馬延と張顗が曹操と合流しました。
尚、三国志演義ではこの時も馬延と張顗は袁紹の配下だったと説明がなされています。
馬延や張顗は三国志演義ではチョイ役でしかなく、羅貫中が読者に名前を思い出させる為に、書いてくれたのでしょう。
馬延と張顗は三千の兵を率いて曹操と合流出来た理由は、次の様に書かれています。
※岩波文庫 完訳三国志四巻85頁より
その夜は空いっぱいの火の上がるのを見ながら、じっと動かずにいたので、よい塩梅に曹操を迎えることができたのである。
つまり、曹操軍が周瑜や黄蓋の火計を受けた時に、動かずにいた事で、曹操と合流する事ができた事になります。
それを考えると三国志演義では馬延と張顗は「動かざること山の如し」を実践したと言えるのかも知れません。
曹操は馬延と張顗を前に出し進みますが、ここで呉の甘寧と出くわしてしまいました。
三国志演義では次の記述が存在します。
「我こそは東呉の甘興覇なり」と言いも終わらず、
一刀で馬延を斬って落とし、張顗が槍を構えて突きかかろうとしたが、甘寧が一声叫んで、振り下ろした一太刀をあびて真っ逆さまに落馬した。
これが正史三国志の馬延の最後であり、最後の最後まで張顗とセットで扱われてることが分かります。
尚、曹操は馬延と張顗を失い、さらに呉の太史慈や陸遜の攻撃を受け、さらには劉備配下の者たちに襲われ、江陵を曹仁に任せ命からがら北方に逃げ帰る事になります。
馬延と張顗は三国志演義では史実以上に役柄を与えられはしていますが、チョイ役に過ぎないと言えそうです。