
趙の恵文王は父親の武霊王の様な派手さはありませんが、臣下には廉頗、藺相如、趙奢がおり趙の人材が最も豊富だった時代の君主でもあります。
趙の武霊王に比べて、人材適用の巧みさは趙の恵文王の方が上だと考える専門家もいる状態です。
趙の恵文王は尚武の君主ではなく、趙の国土は縮小してしまいましたが、守成の名君として評価が高い人物でもあります。
作家の宮城谷昌光氏も趙の恵文王を高く評価しました。
春秋戦国時代を題材にした大人気漫画のキングダムでは趙の三大天なる役職がありますが、旧三大天の全盛期が趙の恵文王の時代だったとも言えるでしょう。
趙の恵文王の生い立ち
趙の武霊王は夢に美女を見て、話を聞いた呉広は娘の呉孟姚を宮中に入れました。
呉孟姚は武霊王に寵愛され、ここで誕生したのが趙何です。
しかし、呉孟姚は紀元前301年に亡くなっており、趙の武霊王よりも先に亡くなりました。
この時に武霊王は周紹を趙何の傅としています。
趙の武霊王は公子章を太子としていましたが、太子を趙何に代えました。
さらには、自らは将軍となり中山国を攻め続け、趙何に国を譲り自らは主父と号する事になります。
趙何は名目上ではありますが、趙王となり肥義が相国となり、趙何の師傅となりました。
紀元前298年に趙の恵文王が誕生したと言えるでしょう。
趙の武霊王は中山国の征服に成功しました。
沙丘の乱
主父(趙の武霊王)は趙の恵文王を後継者としましたが、廃太子である公子章に対しても同情的な態度を見せます。
こうした状況をみた李兌は、公子章や田不礼を危険視し、肥義に呼び掛けたり公子成と共に警戒していました。
趙の恵文王の4年(紀元前295年)に、主父は群臣らを集めますが、公子章に覇気がなく憐れんだわけです。
こうした中で、武霊王は沙丘に人々を集め会を催そうとしました。
これが沙丘の乱の始まりです。
公子章は田不礼と共に乱を起こしますが、趙の恵文王を肥義、李兌、公子成らが守りました。
戦いに敗れた公子章は主父の元に逃亡しますが、李兌や公子成の軍は主父の館を包囲する事になります。
公子章は亡くなりますが、李兌や公子成は主父の館を包囲した罪は重く、ここで包囲を解けば主父に罰せられるのは目に見えていました。
趙の武霊王は沙丘の館で餓死し、沙丘の乱は完全に終わる事になります。
沙丘の乱の勝者は趙の恵文王となりますが、後味の悪いものとなった事でしょう。
趙と斉
紀元前294年に燕に鄚と易を贈りました。
前年に主父が亡くなったばかりであり、隣国である燕との友好を深めたのでしょう。
趙の恵文王は紀元前291年には河北の南行唐に、城を築きました。
紀元前291年には趙梁が将軍となり、斉と共に韓を攻撃し、魯関まで侵攻し撤退しています。
当時は斉と秦の二強時代であり、斉の言う事を聞かないわけにも行かなかったのでしょう。
秦と斉は共に帝を名乗ったりもしましたが、半年くらいで取りやめました。
史記の趙世家によると、趙の恵文王の11年(紀元前288年)には、董叔が魏氏と共に宋を討ち河陽の地を魏から取ったとあります。
同年に秦が趙の梗陽を取りました。
紀元前287年と紀元前286年には、趙梁や韓除が斉を攻撃しており、この頃の趙と斉が敵対していた事が分かるはずです。
尚、史記の趙世家では紀元前286年に公主が亡くなった記述があり、公主は趙の恵文王の妹ではないかと考えられています。
趙の恵文王と楽毅
紀元前284年に秦、燕、趙、魏、韓が合従の同盟を行い、斉を攻撃しました。
連合軍の中で最強国は秦であり、本来であれば秦が中心となったはずですが、趙の恵文王は燕の楽毅の能力を高く評価し、相国としました。
趙の恵文王が趙の最高司令官を楽毅に一任した事で、斉への攻撃は燕の楽毅が総大将となります。
楽毅の能力を認め趙軍を預ける辺りは、趙の恵文王の人材登用の妙技でもあるのでしょう。
趙世家によると楽毅率いる軍は霊丘を取り、秦と趙は中陽で会見を行ったとあります。
さらに、燕の昭王がやって来て、趙の恵文王と会見を行いました。
楽毅は済西の戦いで斉軍を打ち破り、合従軍は解散しますが、燕軍は斉に進軍を続け首都の臨淄を陥落させています。
斉の湣王も亡くなり、斉の襄王や田単が莒と即墨で抵抗を続けました。
史記の趙世家では秦や趙も斉を討ち斉の人々が憂えた話があり、蘇厲が趙の恵文王に書簡を送り、趙の恵文王は蘇厲の言葉に納得し兵を引いた話があります。
ただし、この後に趙の恵王は燕の昭王と会見を行い、趙の廉頗が将軍となり、斉の昔陽と取ったとあります。
趙世家では楽毅が趙の軍を率いて、魏の伯陽を陥落させた記述もありますが、この頃の楽毅は斉の地を平定させる為に斉地にいたはずであり、意味が分かりにくい記述となっています。
尚、紀元前279年に燕の昭王が亡くなると、燕の恵王が立ちますが、斉攻撃への将軍を騎劫に交代させました。
楽毅は身の危険を感じ、趙の恵文王の元に身を寄せる事になります。
騎劫は田単の前に敗れ去り、燕は斉の占領地を全て失いました。
秦との戦い
史記の趙世家によると、趙は魏を攻撃したりしていましたが、秦は趙が斉を攻撃しない事を恨み趙を討ち二城を取りました。
この頃から、趙の恵文王は秦と対峙しなければならなくなります。
紀元前281年に秦は趙を攻撃し、石城(離石?)を陥落させました。
この年に趙の恵文王は衛の東陽に行き河水を決壊させ、魏氏を討ったと言います。
紀元前281年は趙で洪水があり、漳水が氾濫した話もあります。
同年に秦の昭王は魏冄を趙に送り出し、魏冄は趙の宰相となりました。
しかし、魏冄は趙と秦の架け橋にはならなかったのか、魏冄が趙の恵文王をコントロールできなかったのか、翌年である紀元前280年に秦が趙の二城を抜く事になります。
この後に趙は魏に伯陽を返還しており、魏と共に秦に対抗しようとしたのでしょう。
名臣・藺相如
紀元前279年に趙の恵文王は秦の昭王と澠池で会見を行っています。
澠池の会で活躍したのが藺相如であり、趙の恵文王は藺相如に絶大なる信頼を寄せる事になります。
秦の昭王は澠池の会で、趙の恵文王を屈服させようとしますが、藺相如が全て阻止しました。
藺相如は宦官の繆賢の家来でしかありませんでしたが、趙の恵文王は高く評価したわけです。
藺相如は趙の恵文王がいなければ、宦官の家来で一生を終えていた可能性が高いと言えます。
趙の恵文王と治水工事
趙世家によると、趙の恵文王の21年(紀元前278年)に漳水の流れを変え、武平の西に移したとあります。
紀元前272年にも漳水の流れを武平の南に移したとあり、治水工事が継続されている事が分かる記述でもあります。
それでも、趙では河水の反乱が度々記録されています。
紀元前277年に趙で疫病が大流行しました。
この年に趙丹(趙の孝成王)を太子に指名しています。
紀元前278年と紀元前277年は内政の年でもあったのでしょう。
戦いは継続される
趙の恵文王の23年(紀元前276年)に、桜昌が将軍となり魏の幾を陥落させました。
翌年の紀元前275年には、廉頗が将軍となり魏の房子を陥落させています。
紀元前274年に燕周が斉の昌城や高唐を攻め取りました。
趙は魏と講和し、共に秦を討ちますが、紀元前273年に華陽の戦いで大敗北を喫しています。
趙世家では華陽の戦いで白起に敗れた事になっていますが、実際には魏冄、白起、胡傷の前に、趙の賈偃と魏の芒卯が敗れたという事なのでしょう。
華陽の戦いは大敗北であり、趙の恵文王にとっては苦々しいものでもあったはずです。
この頃に趙の恵文王は趙豹を平陽君としました。
紀元前272年に藺相如が平邑まで行き、退き北九門の大城を建造しています。
この年に燕の恵王が公孫操により誅殺されています。
史記の趙世家によると、趙の恵文王の29年(紀元前270年)に、秦と韓が趙を攻撃し閼与の戦いが勃発したとあります。
趙の恵文王は趙奢の功績を認め馬服君としています。
趙の恵文王の最後
史記の趙世家によると、趙の恵文王はその33年に世を去ったと言います。
紀元前266年に世を去ったと考えられています。
趙の恵文王が亡くなると、趙の孝成王が立ちました。
尚、この頃には斉の田単も趙に来ていた様でもあり、最後まで趙の恵文王の元には名臣が集まったと言えそうです
趙の恵文王は対局を謝らず、国を保ったと言えるでしょう。
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