袁煕は袁紹の次男であり、兄に袁譚、弟に袁尚がいます。
袁譚と袁尚は劉氏の子だとされていますが、袁煕だけは劉氏の事ではなく袁譚や袁尚とは異母兄弟だとも考えられています。
袁紹は後継者を袁譚にしようか袁尚にしようか悩んだ話がありますが、袁煕は完全に蚊帳の外といった感じです。
しかし、袁尚が曹操に敗れた時は、救いの手を差し伸べ、最後に亡くなる時も剛毅な姿を見せています。
その為、袁煕が袁氏三兄弟の中で一番まともな人だったのではないか?と考える人もいる程です。
尚、袁煕の妻になった女性が甄姫であり、後に曹丕の妻となっています。
そうした事情から魏の二代皇帝の曹叡は袁煕の子なのではないか?とする説もあります。
今回は袁氏三兄弟の次男である袁煕を解説します。
甄姫を妻に娶る
袁煕は袁紹の子であり、冀州の名族である甄氏から妻を娶りました。
これが甄姫と呼ばれる女性であり、後に曹丕の妻となり曹叡を生む女性です。
袁煕の妻が甄姫となったのは、当時の袁紹勢力は沮授、田豊、審配、張郃ら韓馥から譲り受けた冀州勢が主力となっていました。
こうした事情から、袁煕は冀州との関係を強める為に、甄姫を妻として迎える事になったのでしょう。
尚、甄姫は絶世の美女であり、袁紹は袁煕の事も気に入っていたのではないか?とする説もあります。
幽州刺史
袁紹は公孫瓚を破るなど勢力を拡げて行きますが、青州を袁譚に任せ、高幹には并州、袁煕に幽州を任せました。
この時に、袁紹の本拠地である鄴に甄姫を残していったとも伝わっています。
これにより袁煕と甄姫は、離れて暮らす事になった様です。
袁紹は北方の烏桓族に対し懐柔策を取り上手く関係を築きましたが、袁煕も烏桓とは友好を深め、父親の路線を継承しました。
後に袁煕と袁尚は烏桓の助けを得ますが、幽州を治める袁煕が上手く友好を深めた事も原因として挙げられるはずです。
反乱がおきやすいとも言われる北方を袁煕は上手に治めたと言えるでしょう。
後継者争い
官渡の戦いでは袁譚は参戦していましたが、袁煕が参加した記述がありません。
袁煕は最北端の幽州を任されている事から、官渡の戦いでは北方の抑えとなり出陣しなかった可能性もあるでしょう。
三国志演義では官渡の戦いの後に、幽州から袁紹を救援に来た話もありますが、史実ではない話となっています。
袁紹が202年に亡くなると袁譚と袁尚の間で後継者争いが勃発しました。
袁譚と袁尚の後継者争いが起きた時に、袁煕がどちらを支持したのかの明確な記述は存在しませんが、袁尚に与した可能性が高いとみる人が多いです。
袁煕が袁尚を指示した理由としては、後に袁尚を助けた事や甄姫が鄴にいた事。袁尚の部下が曹操に攻められた時に、幽州からの援軍を待ったとする記述があるからです。
袁煕が袁譚と袁尚のどちらに味方したのか中立の立場にいたのかは、正確な部分は不明ですが、袁煕が自らを「後継者だ」と名乗らなかった事は確実でしょう。
曹操も曹丕と曹植で後継者を悩んだ話がありますが、真ん中の曹彰は候補から外れており、真ん中の子というのは、曹操も袁紹も後継者には考えなかった様です。
袁尚に手を差し伸べる
袁譚と袁尚は後継者争いを繰り広げますが、袁譚は不利になった時に曹操を呼び寄せてしまう事になります。
曹操は審配が守る鄴を攻撃しますが、この頃から袁氏から曹操に寝返る者が続出する様になりました。
審配と共に鄴を任せた蘇由すらの曹操に寝返り、鄴を救援に来た袁尚も大敗しました。
袁尚は曹操と対決しようとしますが、馬延らが寝返り袁尚は北方の胡安に逃走し、袁煕に助けを求めています。
袁煕は袁尚を保護しました。
弟の袁尚を見捨ていない辺りが、袁煕が人間的にまともだと見られる部分なのでしょう。
曹叡と袁煕
204年に審配が守る鄴が陥落した時に、劉夫人と共に甄姫が捕らえられ、後に曹丕の妻となります。
甄姫が後に曹叡を生むわけですが、曹叡は西暦239年に36歳で亡くなったとする記述があります。
それを考えると、曹叡が生まれたのは204年となり、袁煕の子ではないかとする説です。
しかし、袁煕は幽州に赴任する時に、甄姫を鄴に残しており、袁煕の子ではないとも考えられます。
曹叡に関して言えば、はっきりとしない部分があり、享年が38歳説や34歳説も存在します。
38歳で曹叡が誕生したとすれば、曹丕と甄姫が出会った時は、甄姫の連れ子だった事になり、袁煕の子となってもおかしくはありません。
34歳が曹叡の享年であれば、袁煕の子というのは無理があるはずです。
袁煕が曹叡の子だったのかの正確な部分は分からないとも言えるでしょう。
尚、歴史を見ると始皇帝と呂不韋、楚の春申君と楚の幽王など本当の父親が分からない部分があります。
焦触・張南の乱
袁氏から曹操に寝返る者が続出していたわけですが、幽州においても焦触や張南が袁煕を裏切る事になります。
焦触は幽州刺史を名乗り、反旗を翻し太守、県長、県令らを集めて数万の兵と共に曹操に降伏しました。
焦触や張南の降伏した影響力は大きく、袁煕は袁尚と共に烏桓の地に逃げ込みました。
雪崩の如く滅びに向かう袁家を袁煕は止める事が出来なかったとも言えます。
焦触の乱により袁氏は地盤を完全に失いました。
袁煕の兄の袁譚は曹操と一時は遠戚関係となりますが、後に曹操に攻撃され最後を迎えています。
白狼山の戦い
袁煕と袁尚は楼班を頼り烏桓の地に入りました。
ここで烏桓を統率する蹋頓は、袁煕や袁尚との共闘を約束しています。
曹操は郭嘉の進言もあり、北方遠征を行い袁煕・袁尚の兄弟及び烏桓の軍と戦いました。
烏桓が袁煕らを助けたのは、袁氏及び幽州の責任者だった袁煕との関係が良好だった証だと言えます。
曹操との間で白狼山の戦いが勃発する事になります。
しかし、白狼山の戦いでは地理を熟知した田疇や張遼、張郃らの勇猛さが光り、袁氏・烏桓連合軍は大敗を喫しました。
烏桓の蹋頓は曹純によって捕虜となり斬首されますが、袁煕、袁尚の兄弟は遼東の公孫康の元に逃げ延びました。
公孫康と袁氏兄弟は、それぞれの思惑を持ち会う事となります。
尚、この時になっても袁煕、袁尚の兄弟は異民族を中心とした数千騎の兵を擁していた話もあります。
袁煕の最後
袁煕と袁尚は公孫康を頼りますが、袁尚はこの時に「面会時に二人で公孫康を討ってしまおう」と述べています。
袁尚は袁煕と共に公孫康を襲撃し、遼東を奪おうと画策しました。
袁尚の意見に袁煕がどの様に思ったのかは不明ですが、袁氏は多くの部下に離反されており、公孫康を討った所で部下が従わなかったのではないか?とする意見もあります。
公孫康の方では袁煕と袁尚を討ち首を朝廷に送ろうと考えていたわけです。
公孫康が袁煕と袁尚を討とうと考えていた時点で、袁煕と袁尚の命は風前の灯火になったとも言えるでしょう。
正史三国志だと公孫康が袁煕と袁尚を騙し討ちにして斬り殺し、首を曹操の送ったとするシンプルな記述があるだけです。
しかし、袁煕、袁尚兄弟の最後は典略に詳しく、公孫康は伏兵を使い袁煕、袁尚を縛り上げ冷たい地面に座らせたとあります。
地面が余りにも寒かった事で袁尚は蓆を求めますが、袁煕は次の様に答えました。
※典略より
袁煕「首が万里の旅に出かけるのだ。何の蓆がいるというのだ」
袁尚に比べて袁煕は、剛毅な振る舞いを見せたと言えるでしょう。
袁尚は蓆が欲しいと述べ、袁譚は兵士に命乞いをした記録がありますが、袁煕の最後が一番まともにも見えます。
公孫康は袁煕、袁尚を斬首し、首を曹操に届けました。