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管承は帰服するも反旗を翻し海中の島に逃亡した

2023年3月30日

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宮下悠史

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名前管承(かんしょう)
生没年不明
時代後漢末期、三国志
年表206年 曹操に反旗を翻す
画像©コーエーテクモゲームス

管承は正史三国志に記述がある人物で武帝紀によると、海賊だったとする記述もあります。

管承は青州の長広県を拠点として活動した記録が残っています。

管承は何夔が派遣した黄珍により、一時的に帰服しましたが再び反旗を翻しました。

最終的に管承は曹操が自ら討伐に出向き、楽進や李典などにより打ち破られ、海中の島に逃げ込みました。

青州から遼東までは航海で行ける事もあり、管承の後ろには公孫康がいたのではないか?とする説もあります。

太史慈なども青州の東萊で問題を起こし、遼東にまで逃亡しています。

尚、青州北海郡の孔融を包囲した黄巾賊残党の管亥がおり、同じ管姓ですが管承との関係は不明です。

今回は三国志の中でも数少ない海賊も行っていたとする記述がある管承の解説をします。

因みに、管承は三国志演義には登場しません。

何夔の説得

管承は過去には黄巾の乱に参加していたとも考えられ、張角が病死し乱が集結した頃には青州の長広県にいました。

青州の混乱は中々収まらず、離反する者も多かったわけです。

袁紹は長子の袁譚に青州を任せますが、袁譚は恩徳の政治を行ったのか管承や離反する者達を放置し、官位を与えたりしていました。

こうした中で長広県にいた管承は三千余軒を仲間に引き込み、周辺を荒しまわる事となります。

長広県の太守をしていた何夔は、兵を出して管承を討伐して欲しいと依頼を受けました。

ここで何夔は管承を分析し、自分では元に戻れなくなっている事や、道徳の教えを受けた事がないとする結論を出しました。

何夔は管承を攻撃すれば必死に戦い損害が大きくなるからと、黄珍を派遣し恩愛や道徳で管承を説き伏せました。

管承も黄珍の言葉を聞くと、何夔の心意気に感じ帰順を願い出る事になります。

何夔は官吏の成弘を派遣し、管承らを指揮する校尉の権限を与えました。

しかし、後の記述を見る限りは管承は海賊となっており、官軍とは無縁の存在になった様です。

海中の島に逃亡

管承は一度は曹操に帰順しますが、206年に反旗を翻す事になります。

袁氏一族の高幹の呼びかけもあり呼応したのが、実情でしょう。

この頃は袁紹は既に亡く、曹操は鄴を守備する審配を撃破し、袁譚を殺害し袁煕、袁尚の兄弟は北方に逃亡しました。

曹操が北方で大きく勢力を伸ばす中で、管承は背きました。

この時に高幹や司馬俱、徐和昌豨らも曹操打倒の為に動いています。

尚、正史三国志には次の記述が存在します。

※正史三国志 武帝紀より

公(曹操)が東に向かい海賊の管承を征討し、淳于まで行くと、楽進、李典を派遣し彼(管承)を攻撃し打ち破った。

管承は海中の島に逃げ込んだ。

上記の記述から管承が曹操の軍と戦い楽進と李典の軍に敗れ、海中の島に逃げ込んだ事が分かります。

管承は海賊だけあり、島に拠点を持っていたとも考えられるでしょう。

さらに、張郃伝によれば東莱に遠征し、管承を討伐したとあります。

それを考えると、管承は楽進と李典だけではなく、張郃にも攻められた可能性もあるはずです。

楽進、李典、張郃は曹操の信頼が厚い人物であり、名将といっても差し支えないでしょう。

この三名に攻められた管承は気の毒な部分もある様に思いました。

楽進伝に管承が島に逃げて、楽進たちは海岸沿いを平定した記述があり、この時には長広県には管承の居場所は無かったのでしょう。

島に逃げが管承が、この後にどうなったのかは不明です。

尚、管承は曹操自ら討伐に出向いており、勢力としては大きかったのではないか?とも考えられています。

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