名前 | 閻忠(えんちゅう) |
生没年 | 生年不明ー189年 |
時代 | 後漢末期、三国志 |
閻忠は正史三国志や後漢書に名前が登場する人物です。
閻忠は涼州漢陽郡の出身で、黄巾の乱で大活躍した皇甫嵩に皇帝になる様に進言した人物です。
しかし、皇甫嵩は優等生の様な性格であり、謀反は一切考えておらず、閻忠の進言を却下しました。
閻忠は後に王国や韓遂などに、反乱軍の大将として無理やり担がれた話がありますが、発病して亡くなってしまった話があります。
因みに、閻忠は無名時代の賈詡をただ一人高く評価した人物であり、人の能力を見抜く眼力はあったと見るべきでしょう。
しかし、閻忠は能力は見抜けても、その人の性質や性格などは見抜けなかった様に感じています。
賈詡の才能を見抜く
正史三国志の賈詡伝に、閻忠に関する記述があります。
賈詡伝によると、若い頃の賈詡は評価する人がいなかったとあります。
しかし、漢陽の閻忠だけは、賈詡の才能を認め張良や陳平の様な奇略を持っていると評価しました。
張良や陳平は前漢の高祖劉邦配下の謀臣であり、天下に名を轟かせた逸材です。
賈詡は董卓の下では牛輔の部下となりますが、閻忠が評価した事で牛輔の配下になれたのかも知れません。
後に賈詡は李傕、段煨、張繍、曹操などに仕えますが、張良や陳平に匹敵する様な策を出しており、閻忠の目に狂いは無かったわけです。
尚、賈詡伝の記述に「漢陽の閻忠」という言葉があり、閻忠が涼州の漢陽郡の出身だという事が分かります。
皇甫嵩に謀反を勧める
英雄となった皇甫嵩
経緯は不明ですが、閻忠は冀州の信都の県令となります。
184年になると張角による黄巾の乱が起こり皇甫嵩、朱儁、盧植らにより鎮圧されました。
皇甫嵩は張角の弟である張梁や張宝を破っており、功績で言えば最も手柄を挙げたわけです。
皇甫嵩は黄巾の乱が終わると、冀州牧となり冀州に赴任しました。
当時の皇甫嵩は黄巾賊討伐を成し遂げ冀州では善政を布き英雄となっており、この時期に閻忠は冀州信都の県令をやめ、皇甫嵩にコンタクトを取った記録が九州春秋にあります。
黄巾の乱は終わっても霊帝がいる朝廷では、宦官の張譲や趙忠が莫大な賄賂を要求するなど、腐敗していたわけです。
閻忠は思う所があり、皇甫嵩に面会を求める事となります。
天の時と謀反
閻忠は皇甫嵩に会うと次の様に述べました。
閻忠「得難く失いやすいのは天の時であり、天の時が来たら動き出す事を機敏と申します。
古の聖人たちは時が来たら行動を起こし、知恵者は天の時の局面が来たら漸く機敏に動き出すのです。
現在の皇甫嵩将軍は天の時が来ており、失いやすい機敏に動き出す局面におられます。
これでは、皇甫嵩将軍の黄巾の乱平定の英雄という大きな名声が、いつまで続くのでしょうか」
皇甫嵩は自分に天の時が来ているなど考えてもしなかったのか「どういう事だ」と閻忠に聞きました。
閻忠は次の様に答えています。
閻忠「天の時を得る権利は誰にでもあります。
民衆であったとしても天の時を得る事は可能です。
それ故に有能や将軍は莫大な功績を立てても、凡庸な主君に頭を下げて褒美をねだる様な事はありません。
現在の皇甫嵩将軍は春に賊討伐の任務を受けると、その年の冬には乱を終わらせています。
将軍の用兵は神の如しであり、一度組み立てた計略を一切変更もせず、7つの州を跨いで戦い、三十六の黄巾賊を打ち破りました。
将軍の功績は古の名君よりも上ですし、威光は朝廷に鳴り響き、将軍の名を知らぬ者は国内はおろか外国にもいません。
そんな偉大な功績を挙げた将軍が、漢の凡庸な皇帝に頭を下げて仕えているのです。
これで身の安泰を保つ事が出来ましょうか」
皇甫嵩は閻忠の言葉を聞くと、「私は忠義の念は忘れてはいないし、どうして安泰ではないと言えるのか」と答えました。
皇甫嵩は忠義の心があれば、誅される事はないと思っていたのかも知れません。
実際に皇甫嵩は謀反の気もありませんし、優等生の様な人であり、忠義心が身を守ると思っていた様にも見えます。
しかし、閻忠は別の考えを持っており、皇甫嵩に劉邦、韓信、蒯通などを例に出し説明しました。
閻忠「将軍の理屈は通用しません。漢の高祖劉邦を補佐した名将韓信は蒯通の進言を却下し、劉邦の天下統一後に処刑されました。
韓信が処刑された理由は、天の時を考えずに、過去の恩義ばかりを考え愚直に劉邦に仕え謀反を起こさなかったからです。
皇甫嵩将軍の今の立場は韓信と同じであり、将軍の用兵術を使い七州の軍を集め朝廷を腐敗させた宦官討伐を名目に洛陽を攻めるのが最善と言えます。
将軍が漢王朝を滅ぼし、自分自身の手で動かすのです。
今の段階では皇甫嵩将軍が皇帝になるのを拒む者はいませんが、時間が立てば分からなくなります。
天の時が来た時に直ぐに動かないと、凡庸な君主に仕えて滅んだ韓信の様になるだけです。
ここで挙兵するべきだと考えます」
閻忠は皇甫嵩に謀反を進め項羽や殷の湯王、周の武王も例に出し、皇甫嵩に挙兵し洛陽に兵を向ける様に熱弁しました。
しかし、皇甫嵩は謀反を起こす気は皆無であり、閻忠の進言を却下しました。
皇甫嵩を見ていると、朝廷の命令に忠実に任務を遂行する人であり、自分が皇帝になる気は皆無だったのでしょう。
皇甫嵩は野望が少なすぎて、韓信よりも説得は困難にも見えます。
作家の宮城谷昌光氏は皇甫嵩がなりたかったのは、劉邦ではなく曹参の様な忠義の臣下だと述べた事があり、それが当たっていると言った所でしょ。
皇甫嵩は幸い霊帝に誅殺される事もありませんでしたが、董卓の恨みを買い処刑されそうになった事があります。
皇甫嵩が董卓に処刑されたならば、処刑される時に皇甫嵩は「閻忠の話を聞いておくべきだった」と思った可能性もある様に感じています。
皇甫嵩はたまたま処刑されなかったと見る事も出来るでしょう。
閻忠は皇甫嵩に謀反を勧めたのであり、発覚すれば処刑される事は確実であり、逃亡しました。
閻忠にしてみれば、韓信の元を逃亡した蒯通の様な気分だったはずです。
閻忠の最後
王粲の英雄記に閻忠の最後の記述があります。
涼州の賊徒である王国が、兵を挙げ共謀して、無理やり閻忠を大将にしようとしました。
閻忠は三十六の武将を統率する事になり、車騎将軍の称号を奉ったとあります。
この時に閻忠は感情を高ぶらせ、その勢いで発病して亡くなったとあります。
皇甫嵩との経緯を見ると閻忠は皇帝の側近になりたかったのであり、賊徒の大将になりたいとは思わなかったのでしょう。
無理やり賊徒の頭目になりそうになり、発病して亡くなったと見る事も出来るはずです。
尚、後漢書の記述だと閻忠は、韓遂らが王国を廃して閻忠を強迫し大将にしようとしました。
しかし、閻忠は強迫された事を恥じて発病し、亡くなった事になっています。
後漢書の記述を見ると、閻忠は189年に亡くなった事になります。