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段煨(だんわい)は警戒心が強いが忠義の臣ではある

2023年5月15日

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宮下悠史

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名前段煨(だんわい) 字:忠明
生没年生年不明ー209年
時代三国志、後漢末期
勢力董卓曹操
画像©コーエーテクモゲームス

段煨は正史三国志や後漢書に登場する人物です。

段煨には伝が立てられてはいませんが、董卓の配下だった事も分かっており、実在した人物となります。

段煨は涼州武威郡の出身であり、涼州三明(段熲、皇甫規、張奐)の一人である段熲の一族だったのではないか?とも考えられています。

董卓の死後は賈詡が身を寄せて来るも猜疑心を抱いた話があり、疑い深い面もありますが、窮地に陥った献帝を救うなど忠義の臣下でもあります。

後漢王朝では段煨は高官となりますが、西暦209年に亡くなっています。

今回は段煨を解説します。

尚、賈詡が段煨の元を去り張繍の元に行った話は、賈詡の記事で書いてあります。

華陰に駐屯

段煨は董卓に仕えた事が分かっています。

董卓は反董卓連合の孫堅との間で陽人の戦いが行われますが、胡軫呂布の対立から華雄が戦死するなど、散々な結果でした。

董卓は洛陽を放棄し献帝を連れて、長安遷都を強行しました。

董卓は劉艾に孫堅を警戒する発言をしており、董卓は自分の配下の者を各地に派遣し、段煨は華陰に駐屯する事になります。

同じ様に黽池には董越、安邑には牛輔を派遣しています。

しかし、反董卓連合が空中分解し互いに争う様になった事で、段煨が諸侯と戦う事はありませんでした。

段煨は華陰に駐屯すると、農業を根本した統治を行い財物に目がくらみ略奪を繰り返すなどは無かった様です。

董卓配下にあって段煨は善政を行ったとも見て取る事が出来ます。

段煨は華陰に平和をもたらしました。

蔡邕や段煨などは董卓軍の良心とも呼べる存在でしょう。

董卓は192年に王允に動かされた呂布により暗殺されると、李傕郭汜、張済らが長安を急襲し献帝を手中に収め実権を握りました。

段煨が董卓の敵討ちに参加したとする記録もなく、どの様な動きをしたのかも不明です。

ただし、後の事を考えると董卓の敵討ちに参加する事もなく、段煨は華陰への駐屯を続け動かなかった様に感じています。

献帝を助ける

献帝を迎える準備を整える

後に李傕と郭汜は対立し、195年に献帝が長安を脱出しました。

献帝は苦難の旅を続けますが、段煨のいる華陰に移動してきました。

この頃の段煨は寧輯将軍となっており、朝服を用意して出迎えたとあります。

さらに、段煨は献帝に備蓄もあり公卿らを食べさせてく事も出来ると述べ、華陰に行幸する事を望みました。

帝に下馬せず

段煨としては献帝を助けたかった様ではありますが、献帝の配下に段煨を嫌っている楊定がいたわけです。

段煨は楊定が来る事を知ると、献帝の輿を迎える際に下馬しませんでした。

段煨は警戒心の強い性格をしており、楊定を警戒した結果として馬を降りなかったのでしょう。

帝に対し下馬しなかった段煨の行動は献帝に対し礼を失する態度だとも言えます。

しかし、後に楊定らが段煨を攻撃してくる事を考えると、全く間違った行動だとも言えません。

讒言

袁宏の後漢紀によると侍中の种輯は楊定と仲が良かった事で段煨を讒言しました。

献帝は种輯の言葉を信じず楊彪、趙温、劉艾、梁袁らが段煨は背かないとフォローを入れます。

楊彪らは自分らが身を挺して守るからと、献帝に段煨の陣への行幸を願いました。

しかし、董承は「段煨の軍に郭汜が入った」とする虚言を述べ、さらに董承は督郵に「郭汜が700騎を従えて段煨の陣に入った」とする嘘を言わせています。

董承は三国志演義の忠臣とするイメージが強いですが、史実の董承は見事な程に野心家です。

戦い

董承や楊定らは种輯を献帝への使いとし、段煨攻撃の詔を欲しました。

董承としてみれば、段煨の陣に郭汜が入ったのは嘘であり、段煨を亡き者にしてしまいたかったのでしょう。

献帝は最後まで納得しませんでしたが、种輯は引き下がらず夜になってしまった話まであります。

楊定や楊奉らは献帝の詔が得られないと勝手に、段煨を攻撃してしまいました。

楊定らが献帝を軽んじていた事は明らかでしょう。

段煨は楊定らに攻められますが、十余日に渡ってしっかりと守り抜いただけではなく、献帝や百官に食事を捧げるなど忠義の姿勢を見せます。

こうした中で管郃が段煨を攻めるのはやめて、素早く洛陽に向かう様に進言しました。

楊定らは管郃の行動を目障りだと考え、管郃を楊奉の副官とし、後で殺害してしまおうと画策しています。

しかし、献帝は楊定、楊奉の陰謀に気付いており許可しませんでした。

さらに、献帝は劉艾や管郃を使者として、段煨攻撃を止めさせるように諭しています。

これにより楊定らは段煨攻撃を止め帰還しました。

この頃になると、李傕と郭汜は献帝を出してしまった事に後悔し、再び連れ戻そうとしました。

この時に楊定などは荊州に逃亡し、献帝の一行から離脱しています。

献帝は段煨の保護を断わり、苦難の旅を続けました。

196年に献帝は洛陽に到着し、曹操が自陣営に迎え入れる事になります。

朝廷に帰服

段煨と対立していた楊定も既にいなくなっており、これにより段煨は朝廷に帰服する事になります。

197年に段煨は裴茂らと共に李傕を攻撃し打ち破りました。

翌年である198年には黄白城で李傕を討ち取り、三族もろとも滅ぼしています。

段煨は功績により鎮遠将軍に昇進し、北地太守に任命されるなどの恩賞を受けました。

暫くして段煨は入朝して大鴻臚となり、光禄大夫を加えられています。

しかし、段煨は209年に老衰により亡くなったとされています。

死因が老衰だとする事から、段煨の生まれは西暦130年頃だったのではないか?と考える人もいる様です。

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