名前 | 閻象(えんしょう) |
時代 | 後漢末期、三国志 |
勢力 | 袁術 |
年表 | 195年 袁術を諫める |
画像 | 三国志(コーエーテクモゲームス) |
閻象は正史三国志の袁術伝に記載がある人物です。
閻象は汝南袁氏の袁術に仕えました。
閻象に感じては、皇帝になろうとした袁術を諫めた事位しかありませんが、歴史に名を残しています。
袁術の配下に閻象がいなかったら、195年の段階で早々と袁術は皇帝を名乗っていたのかも知れません。
後に皇帝を名乗った袁術が没落した事を考えれば、閻象は袁術軍の良心とも言える存在だった様にも感じました。
皇帝になりたがる袁術
董卓が洛陽を廃墟とし献帝を連れて長安に遷都しましたが、後に呂布や王允の手に掛かり命を落とします。
呂布や王允も董卓配下の李傕、郭汜、賈詡らに討たれ、李傕らが朝廷の実権を握りました。
しかし、李傕と郭汜が長安で市街戦を繰り広げるなど、献帝がいるにも関わらず、後漢王朝はかなり荒れていたわけです。
195年になると袁術は後漢王朝の衰えた様子を見て、閻象や群臣の前で次の様に述べています。
袁術「現在の劉氏は力を失っており、四海の内は沸き立つ湯の様に混乱しておる。
儂の家は四代に渡り三公を輩出し、人望が集まっている。
儂は天命に応えて人々の期待に添いたいと思うが、諸君らの気持を聞かせて欲しい」
袁術は口には出そうとはしませんでしたが、自ら皇帝になろうとしたわけです。
この時の袁術の言葉が意外だったのか、それとも袁術の怒りを買う事を畏れたのか、配下の者達は答えませんでした。
それに対し、閻象は堂々と意見を言う事になります。
袁術を諫める
閻象は皇帝になろうと考えた袁術の前に進み出ると、次の様に述べました。
「昔の話ですが、周は后稷から周の文王に至るまで、恩徳を積み手柄を立て、天下の三分の二を領有しました。
周の文王は天下の三分の二を得ても、殷には臣下として仕えています。
袁術様の家は代々繁栄しておりますが、まだ周の隆盛に比べたら小さなものであり、漢も衰えたと言えども、殷の紂王の暴虐さには至っておりません」
閻象は后稷から周の文王の繁栄と、殷の紂王の暴虐さを例に出し、袁術の皇帝即位に反対したわけです。
袁術は自分が皇帝になると言えば、群臣は賛同してくれると思ったのか、閻象の言葉を聞くと不機嫌になったとあります。
しかし、袁術は195年の段階では「まだ皇帝になるのは早い」と思ったのか、皇帝を名乗る様な事はしませんでした。
袁術は閻象の言葉にムッとしながらも、閻象の進言を受け入れたとも言えるでしょう。
尚、三国志演義では閻象の意見を却下し、袁術は皇帝に即位してますが、これは史実ではありません。
ただし、袁術は197年になると張炯の意見を採用し皇帝を名乗り、仲王朝を開いています。
197年の袁術の皇帝即位の時には、閻象が諫めた話はなく、この時までには閻象は亡くなっていた可能性もあるでしょう。
尚、皇帝を僭称し仲王朝を開いた袁術ですが、孫策に離反されたり、呂布や曹操に戦いで敗れるなど、坂道を転落するかの如く転げ落ちて行きました。
袁術の転落を考えれば閻象の言った事はかなり正しく、袁術の皇帝即位は悪手だったとも言えるでしょう。
閻象の能力値
三国志14 | 統率29 | 武力27 | 知力70 | 政治74 | 魅力58 |