
| 名前 | 魏の襄王 |
| 姓・諱 | 魏嗣 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前296年 |
| 在位 | 紀元前319年ー紀元前296年 |
| 時代 | 戦国時代 |
| 一族 | 父:恵王 子:昭王 |
| コメント | 縮小された魏の西部の地を守り抜いた |
魏の恵王の時代の後期に、魏では西方の領地の多くを失い、魏の旧都である安邑も危機に晒されていました。
魏の襄王は合従軍に参加し、秦と戦った事もありますが、会見を行い講和もするなどし、魏の西部の領地を拡大させる事は出来ませんでしたが、殆ど縮小もせず維持する事に成功しました。
最後は、孟嘗君の合従軍に参加し、塩氏の戦いで勝利し、秦から土地を割譲させ世を去っています。
尚、荀子では魏の襄王の時代から秦に勝てなくなった様な記述も存在しますが、実際には魏の恵王の時代から、魏は秦には勝てない状態になっています。
諸侯同盟が秦を攻撃
史記の魏世家には、魏の襄王の元年(紀元前318年)に五国が連合して秦を攻撃するも、勝利する事が出来なかった話が掲載されています。
この合従軍は蘇秦が取りまとめ、過去には韓、魏、趙、楚、燕で函谷関を攻撃したと考えられてきました。
しかし、現在では蘇秦が活躍した時代は、紀元前280年代だと考えられる様になっており、否定されている状態です。
紀元前318年の合従軍を取りまとめたのが、公孫衍とも考えられていますが、魏の襄王も兵を出し秦を攻撃させたのでしょう。
魏世家によると、翌年である魏の襄王(紀元前317年)に、斉が魏を観津で破ったとあります。
時代は秦・斉二強時代に向かっている事が分かる出来事もあります。
曲沃を討たれる
史記の魏世家の魏の襄王の5年(紀元前314年)に秦が樗里疾に命じて、魏の曲沃を討ち、魏の犀首(公孫衍)を追撃し、岸門まで走らせたとあります。
秦本紀の秦の恵文王11年に樗里疾が魏の焦を攻略し、韓の岸門を破り犀首が逃亡した話があります。
紀元前314年の戦いでは、魏は秦に焦を取られてしまったのでしょう。
尚、史記の記述からは曲沃も危機に晒されているのが分かりますが、曲沃は晋の成師が封じられた土地でもあり、最後の方まで晋の公室の直轄領でした。
魏の襄王を始め魏では国民的に、晋の後継国を自認しており、思い入れの深い地であるはずの曲沃が危機に晒されており、魏の西部が危機的な状況にあった事が分かるはずです。
魏の襄王と秦の恵文王の会合
魏世家の魏の襄王の6年(紀元前313年)に、秦から使者が来て公子政を太子に立てたとあります。
この記述を見る限りでは、秦の恵文王が上から目線で魏の襄王に命令し、秦にとって最適である公子政を太子にしたという事なのでしょう。
同年に魏の襄王と秦の恵文王は臨晋で会合を行ったとあります。
臨晋での会合により、魏と秦の間で講和が結ばれたのでしょう。
秦の要請により魏の襄王は太子を公子政としましたが、秦の脅威を感じている魏の襄王にとってみれば、親魏派の公子政を太子にする事は利害が一致した様にも感じています。
魏と秦は燕を攻撃したのか
魏の襄王7年(紀元前312年)に、魏が斉を攻撃し、秦と共に燕を討ったとあります。
紀元前312年に魏が燕を討ったとするのは、謎の記述でもあり、この年は燕の昭王が即位した年でもあります。
燕の昭王は即位はしましたが、斉により国は混乱状態であり、好機とも言える状態ではあったはずですが、燕は斉に従属状態でもあったはずです。
燕を攻撃すれば、斉の宣王も黙ってはいないとみる事も出来ます。
他にも、紀元前312年は秦の張儀が楚の懐王を怒らせ、丹陽や藍田で大戦が起きた年でもあります。
秦や魏は燕とは国境を接しておらず、こうした時期に魏の襄王や秦の恵文王が燕を攻撃するのか疑問があります。
魏の襄王の衛攻撃
魏の襄王の8年(紀元前311年)に、魏は衛を討ちました。
後の展開を考えると、衛討伐を主導したのは魏の成陵君だったのでしょう。
衛の嗣君は濮陽の近辺しか領有しておらず、滅亡の危機に立たされ憂える事になりますが、魏の大夫の如耳が謁見を申し出る事になります。
如耳は衛の嗣君と共謀し、成陵君の排除に動きました。
成陵君に面会した如耳は「このままだと衛は秦に降伏し許され秦の手柄となるから、さっさと魏が衛を許した方がマシ」と進言しました。
如耳は魏の襄王に面会すると「『衛を真っ先に許そう』と言った者が、衛から賄賂を受け取っている」と伝える事になります。
この後に、如耳が退出し成陵君が衛を許す様に進言すると、如耳に言われた通りに「衛を許す様に」と伝えました。
魏の襄王は成陵君の進言に従い衛を許しはしましたが、如耳の言葉で成陵君を疑い、成陵君を罷免し生涯に渡り合わなかったと言います。
魏の襄王の性格がよく分かる逸話にもなっています。
魏の宰相
秦の恵文王が亡くなると、張儀は身の危険を感じ魏の襄王の元を訪れました。
張儀は斉から恨まれており、魏の襄王は憂慮しますが、張儀は馮喜を斉の宣王の元に派遣し兵を撤退させています。
史記の張儀列伝では張儀が魏の襄王の宰相になるも、翌年に亡くなった事になっていますが、魏世家では違った話が掲載されています。
魏の襄王の宰相である田儒が亡くなった時に、次期宰相候補として張儀、犀首、孟嘗君が候補に挙がりました。
楚では昭魚が魏の太子が宰相になるのが都合がよいと考え、蘇代を魏の襄王の元に派遣する事になります。
蘇代は魏の襄王を説得し、太子を宰相にする事に成功しました。
この時の魏の太子は公子政だったはずであり、公子政が宰相になったのでしょう。
史記の張儀列伝と魏世家で、魏の宰相になった人物は違いますが、魏の襄王の10年に張儀が亡くなった記述があり、張儀が紀元前309年に亡くなった記録は同じです。
魏の襄王と秦の武王
紀元前310年に魏の襄王は秦の武王と会見を行っています。
会見になった場所は臨晋であり、過去に秦の恵文王と会見を行ったのと同じ場所です。
秦では秦の武王が立ち代替わりしましたが、魏の襄王と友好を確認したのでしょう。
紀元前308年にも応で魏の襄王と、秦の武王は会見を行った記録があります。
秦の武王は韓の宜陽を狙っており、魏の襄王に韓を助けない様にと釘を打っておいたのでしょう。
秦の武王は甘茂を派遣し、宜陽を陥落させ韓の西部を奪いました。
秦は東周王朝と国境を接する事になり、秦の武王は東周王朝で鼎を持ち上げるパフォーマンスを行いますが、事故で世を去り、魏冄らの暗躍もあり秦の昭王が即位しました。
秦の武王と魏の襄王は2回に渡り会見を行っており、秦の武王の死は魏の襄王にとって不安を残す結果になったと考える事が出来ます。
魏秦関係の悪化
史記の魏世家によると、魏の襄王の12年(紀元前307年)に魏の太子が秦に参朝したとあります。
魏の太子は公子政の事を指すと考えられています。
ただし、公子政は魏の戻る事が出来なかったのではないか?とする説も存在している状態です。
同年に秦が魏の皮氏を討ちますが、退いており、公子政が講和の使者として秦に行ったのかも知れません。
魏世家の韓の襄王の14年(紀元前305年)には、秦が武王の后を魏に帰らせたとあります。
史記には武王の后の名前が記録されていませんが、魏の昭王の嫂だったとのではないかと考えられています。
紀元前305年は秦の昭王の2年に該当し、秦では政治が安定せず、結果として秦の武王に嫁いでいた魏の公女が魏に帰る結果になったのかも知れません。
この頃から、魏と秦の関係がギクシャクしてきたと言えるでしょう。
垂沙の戦い
魏の襄王の16年(紀元前303年)に、秦が魏の蒲阪・晋陽・封陵を抜いたとあります。
しかし、翌年である紀元前302年に、魏の襄王は秦の昭王と臨晋で会見を行い、秦は魏に蒲阪を返還しました。
史記の魏世家では魏の襄王の18年(紀元前301年)に、秦と共に楚を討ったとあります。
魏世家の記述では秦と魏が共同で楚を討ったとしか書かれていませんが、実際には垂沙の戦いなどが行われており、韓や斉も参戦し、楚が大敗北を喫しました。
魏の襄王は楚から土地を奪い、南方に勢力を拡大させる事に成功しています。
塩氏の戦い
史記の魏世家に魏の襄公の21年(紀元前298年)に、斉・韓と共に秦の軍を函谷関の付近で破ったとあります。
斉・魏・韓の総帥は孟嘗君であり、匡章が軍を指揮し、この時に難攻不落と呼ばれた函谷関が陥落しました。
これが塩氏の戦いです。
魏の襄公の23年(紀元前296年)に、秦の昭王は合従軍に土地の割譲を行っています。
秦の昭王は魏の襄公に封陵を返還しました。
魏の襄王の最後
塩氏の戦いで勝利した紀元前296年に、魏の襄王は世を去っています。
因みに、紀元前296年は魏の襄王だけではなく、韓の襄王や楚の懐王が亡くなった年でもあります。
魏では後継者として、魏の昭王が立ちました。
魏の襄王には太子として公子政がいましたが、公子政は君主として立つ事が出来ず、魏の昭王が後継者になったとも考えられています。
魏の襄王は秦から土地を割譲させ亡くなっていますが、魏の昭王の代になると秦の攻勢の前に、旧都の安邑を始め、魏の西部の領地を全て失いました。
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