キングダムでは、鄴(ぎょう)攻めが話題になっています。
史実ではどうなるか、気になる人も多い事でしょう。
キングダムの作者が描くぎょう攻めも、いいかも知れませんが、史実のぎょう攻めを紹介します。
もちろん、キングダムでの私の予想も最後に付け加えておきます。
尚、歴史書では王翦が初めて登場するのは、鄴(ぎょう)攻めの時です。
上記は私が作成したユーチューブのゆっくり解説動画となっております。
鄴(ぎょう)ってどんな都市なの?
鄴ですが、キングダムでは長年にあたって趙の邯鄲に次ぐ第二の都市として栄えた印象があるのではないかと思います。
しかし、239年までは魏の都市でした。
キングダムで鄴攻めが236年なので、趙が鄴を治めたのはわずか3年しかありません。
鄴は、戦国時代初期には名君である魏の文侯が西門豹に治めさせました。
当時の鄴は土地の長老や巫女などが私腹を肥やしている状態です。
それを西門豹が奇策を持って打破しています。
そして、灌漑工事をやらせると鄴は大発展しました。
これにより魏にとって鄴は重要な都市になったわけです。
魏にとって重要都市だったのですが、魏は連年秦に攻められて確実に領土を奪われています。
紀元前242年に秦の蒙驁(もうごう)が魏を攻撃し、20の城を取り東郡を設置すると魏は秦に対して抵抗力を失ったとする説もあります。
そのため、魏は趙と同盟を結びたくて鄴を趙に送ったのかも知れません。
それか国力の低下から維持が出来ないと悟り鄴を趙に譲った可能性もあります
それでも、史実では鄴が趙の領土だったのはわずか3年しかない事を覚えておくとよいでしょう。
尚、西門豹は三国志の曹操が尊敬した人物で遺言で「西門豹の祠の西に自分の墓を作れ」と命令しています。
如何に、曹操が西門豹の事を尊敬していたか分かるエピソードです
史実のぎょう攻め
史実のぎょう攻めですが、史記の白起王翦列伝には下記の記述があるだけです。
始皇の11年に王翦は将軍として、閼与を打ち破った、9つの城を落とした
たったのこれだけです汗
これだけでは、ぎょう攻めの事が分からないので、始皇本紀や様々な歴史書などをまとめてお話します。
9つの城を取る
王翦は趙を攻めて最初に9つの城を取った事になっています。
この辺りは、キングダムと同じですが、目的が鄴(ぎょう)の兵糧攻めという記述はありません。
史実では、どうして王翦が9つの城を落としたかは分かりませんが、鄴周辺の城を落とした事は間違いないでしょう。
鄴に行く道中に立ちふさがる城を落とした程度なのかも知れません。
それか鄴を攻めるにあたって漳水(しょうすい)沿岸地域の城を落としたはずであり、漳水沿岸の9つの城を指すのかも知れません。
鄴(ぎょう)攻め
鄴を攻めるわけですが、史実では桓騎が落とした事になっています。
多くの史書が一行で終わってしまっていて、詳しい戦い方は分かっていません。
ただし、燕を攻めていた龐煖(ほうけん)が鄴の救援に来たが間に合わなかった記述は韓非子に見えます。
閼与を落とす
史実の閼与攻めですが、史実によると鄴を桓騎に任せて王翦は北上した事になっています。
そして、能力が高い兵士だけを残して、残りは帰らせています。
つまり、10人中8人を返して、残り二人を残す完全な精鋭部隊で閼与の攻略を目指したわけです。
この精鋭部隊が閼与を攻略しています。
閼与は、かつてキングダムでいう6大将軍胡傷が趙奢に負けた因縁の都市です。
そのため趙に取ってみれば精神的にも大打撃だった事でしょう。
秦に取ってみれば、趙を滅ぼす事に大きく前進したわけです。
ここまでが史実の鄴攻めの全貌です。
簡略過ぎて面白味がないと思ったかも知れませんが、史記などの史書に残っている鄴攻めはこれだけなのです。
李牧が指揮を執った記録もありません。
朱海平原の戦いは存在しない??
キングダムでは朱海平原の戦いが行われた事になっています。
李牧が邯鄲から南下して、北進する王翦の軍勢とぶつかった事になっています。
しかし、史実では朱海平原で軍勢がぶつかった記録がありません。
朱海平原という名前は史書には一切登場しないわけです。
キングダムだけの架空の地名の可能性もあるでしょう。
それどころか、先に述べた様に李牧が鄴攻めの戦いにおいて、参戦した記録もありません。
李牧が宰相になった記録もありませんし、鄴攻めの頃の李牧はまだ北方の長官として匈奴に対して睨みを利かせていたと思われます。
趙の旧三大天である藺相如の部下であった堯雲と趙峩龍も奮戦していますが、そのような記録も一切存在しません。
尭雲と趙峩龍はキングダムだけの架空のキャラだと思われます。
楊端和と犬戎の戦いも無かった?
楊端和が鄴攻めに王翦の副将として参戦した事は間違いありませんが、どのような功績を挙げたのかは不明です。
楊端和は秦の将軍だった事は確実ですが、山の民というのはキングダムのオリジナル設定でしょう。
史実では、楊端和は普通の秦の将軍です。
尚、桓騎は鄴攻めをこなした後に、キングダムでは趙の王都の守護神と呼ばれている扈輒(こちょう)を平陽の戦いで破り10万人を斬首しています。
しかし、調子の乗ったのか李牧に弱点を見破られてしまったのか、李牧と戦闘になると敗退して燕に逃亡しています。
楊端和の方は、そういう事もなかったようで、7年後には王翦、羌瘣と共に趙の都邯鄲を落城させる事に成功しました。
幽穆王の寵臣である郭開に賄賂を贈り買収して李牧を讒訴させたわけです。
幽穆王は郭開を信じて李牧を斬り司馬尚を庶民に落としています。
その結果、王翦、羌瘣、楊端和の3人は趙を平定する事が出来たわけです。
その後の楊端和は史書から登場しなくなるので行方不明です(涙
この事からキングダムでも楊端和が犬戎王ロゾを破る事は確実でしょう。
悼襄王が崩御する
鄴攻めの年(紀元前236年)には、もう一つ趙にとって大きな出来事があります。
それが、悼襄王の崩御です。
キングダムの悼襄王はクズな王様という事になっています。
実際の悼襄王はあそこまでクズではなったはずなので、本人が見たら怒る事でしょう。
ただし、悼襄王は即位した年に廉頗と楽乗を交代させるという失態は犯しています。
話しを戻しますが、鄴攻めの年に悼襄王も崩御する事は間違いないです。
キングダムでは病気がちという設定になっていますので、突然亡くなってもおかしくはないでしょう。
そして、太子嘉ではなく、幽穆王(遷)が後を継ぐことになります。
もちろん、幽穆王は暗君です。
李牧が如何に悲運の名将だと分かるのかと思います。
キングダムの鄴攻めを史実と合わせて予想
私がキングダムの鄴攻めを予想しますが、李牧と王翦の戦闘は続きます。
しかし、李信、王賁、蒙恬、堯雲、趙峩龍、公孫龍なども知力をぶつけて戦いますが、突然、悼襄王が崩御します。
そこで趙の宮廷にいる郭開が根回しをして、太子嘉を廃嫡して、幽穆王(遷)を即位させます。
そして、李牧には帰還命令を出し、李牧は邯鄲に帰らなければならなくなります。
幽穆王が即位した事を知った李牧は絶句する事は間違いないでしょう・・・。
その結果、王翦は趙軍がいなくなったので鄴攻めに行くなり、閼与に援軍に行くなりして、秦軍の大勝利に終わるわけです。
これにより趙は太行山脈の東側と邯鄲南部の鄴一帯を失う事になります。
これで趙が全盛期であった武霊王の頃よりも領地で言えば半分以下になってしまうわけです。
しかし、その後、李牧の活躍もあり秦はターゲットを韓に移して韓が先に滅亡します。
その後、韓の貴族たちの反乱や昌文君の死や昌平君の出奔があると私は考えています。
これは、単なる私の予想ですけどね。
キングダム作者である原泰久先生の頭の中に期待したいところです。
しかし、鄴攻めでも李牧の運の無さが光りますね。
名将って言うのは、強いだけではなく運の強さも非常に大事だと思っています。
どんなに能力があっても運がないと意味が無いのかも知れません。
他にも、使える王様を考える事も大事だと思いました。
名将楽毅も燕の昭王の時は、上手く行っていましたが、後継者の恵王の時は罪に落とされそうになり逃亡しています。