名前 | 龐会 |
生没年 | 不明 |
時代 | 三国志、三国時代 |
国 | 魏 |
年表 | 西暦257年諸葛誕の乱で諸葛誕に加担せず |
西暦263年 蜀の滅亡時に関氏の一族を滅ぼす | |
コメント | 40年越しで父の仇を討った復讐の鬼 |
画像 | 三国志14 能力値は最下部 |
龐会は龐徳の子であり、正史三国志の注釈の記述などを考慮すると、40年越しで父親の仇討ちを成し遂げた人物とも言えます。
正史三国志によれば、龐会は勇気があり厳格な性格をしており、父親である龐徳の風格があったと記述されています。
龐会は中衛将軍にまで出世し、列侯に取り立てられた記述も存在します。
それを考えると、父親である龐徳の影響もあり、龐会に対する周りの期待も大きかったのでしょう。
龐会は鍾会の軍に加わり、蜀を滅ぼしますが関羽の一族を皆殺しにしてしまった話しもあり、苛烈な面も多く見られます。
今回は父の死から40年以上も経過してから、復讐を成功させた龐会を解説します。
関氏を滅ぼした記述を見ると復習の鬼と呼べるのかも知れません。
龐徳の死
龐会の父親である龐徳は、元は馬超に仕えていました。
しかし、張魯の元にいる時に、馬超は劉璋を攻めていた劉備の元に行ってしまった事で、龐徳と馬超は袂を別つ事となります。
張魯が曹操に降伏した時に、龐徳は曹操の配下となりました。
このタイミングで龐会も、魏に仕える事は決定的となったのでしょう。
西暦219年の樊城の戦いでは、曹仁が守る樊城に龐徳は于禁と共に援軍に向かいますが、大雨の影響が大きく捕虜となってしまいます。
龐徳は新参者であり龐徳の一族である龐柔や、元の主君である馬超が蜀にいた事で、龐徳の忠誠心には疑問符がつけられていました。
しかし、龐徳は関羽に従う事をせず、死を選んだわけです。
魏の歴戦の猛者であった于禁が降伏したのに対し、龐徳が死を選んだのは魏にとってみれば衝撃であり、曹操や曹丕など魏の首脳部の心を打ったのでしょう。
龐徳の子である龐会ら4人の子は、龐徳の忠義により関内侯を賜わった話があります。
正史三国志に龐会の領地は100戸だったとの記載も残されています。
尚、龐会にとってみれば、関羽は親の仇であり生涯の敵となったわけです。
諸葛誕の乱
魏では曹操が亡くなり、曹丕、曹叡と跡を継ぎますが、曹叡が亡くなり曹芳が即位すると、曹爽と司馬懿の権力争いに発展します。
曹爽と司馬懿の争いは司馬懿の勝利となりますが、司馬懿が亡くなり司馬師が後継者になったり、諸葛誕が呉の諸葛恪に敗れるなど、魏の政情は不安定でした。
こうした中で、司馬師の後継者となった司馬昭が実権を握り、諸葛誕は反旗を翻します。
この時に龐会は諸葛誕に近しい人物ではありましたが、諸葛誕に与する事はありませんでした。
龐会は路蕃と共に、自分の兵士らを指揮し、城門を脱出したわけです。
龐会と路蕃の行動を、司馬昭ら魏の首脳部は高く評価し、龐会の爵位を上げ郷侯としました。
蜀討伐
姜維を追撃
西暦263年に司馬昭は、鍾会と鄧艾に命じ蜀を攻め滅ぼすべく行動を起こしています。
この時に、蜀の姜維は剣閣の戦いで張翼や廖化、董厥などと必死の防戦を見せます。
剣閣を落とせないと判断した鄧艾は鍾会と別行動を取り、道なき道を進み蜀を急襲しました。
鄧艾が蜀の領地に突如現れる格好となり、蜀の朝廷では諸葛亮の子である諸葛瞻や諸葛尚を将軍に任命し綿竹で防ごうとしました。
しかし、綿竹の戦いで諸葛瞻は破れ、諸葛尚と共に命を落としています。
綿竹の戦いで蜀軍が敗れた事を知ると、姜維の軍は剣閣から巴に移動を始めます。
巴に移動した蜀軍に対し、鍾会は龐会、田続、胡烈らを派遣し、姜維の軍を追撃しました。
龐会、田続、胡烈らが、どれ程の戦いをしたのかは不明ですが、龐会らが戦っている間に、鄧艾は劉禅を降伏させ蜀は滅亡する事になります。
関羽の一族を滅ぼす
正史三国志の蜀書・関張馬黄趙伝の関羽伝に、蜀記の注釈があり下記の様な記述があります。
龐徳の子である龐会は、鍾会や鄧艾に従い蜀討伐を行った。
龐会は蜀が滅びると、関氏の血縁を悉く滅ぼした。
これが真実であるならば、龐会は親の仇である関羽の一族に対し、深い恨みを抱いていたのでしょう。
しかも、父親の龐徳が亡くなったのが、西暦219年であり、蜀が滅びたのが西暦263年です。
それを考えると、龐徳の死から40年以上も経過しており、恨みが骨髄まで達していたと言えるのかも知れません。
龐会が深い恨みを抱いていたとしても、私情になるわけで鍾会、鄧艾や魏の首脳部がよく許したなとも感じました。
この話は三国志の注釈に書かれており、どこまでが本当なのかは不明です。
龐会の遺体
王隠の蜀記に龐会に関する記述があり、鍾会が蜀を平定すると、前後に太鼓と笛を鳴らしながら龐徳の遺体を迎えたとあります。
龐会は龐徳の遺体を鄴で埋葬する事にしますが、この時の龐徳の遺体が生きているかの様であった話があります。
しかし、普通に考えてみれば、如何に勇猛な龐徳と言えど死んでしまえば腐乱してしまうはずです。
正史三国志に注釈を入れた裴松之も龐徳は樊城の戦いで亡くなり、魏の文帝(曹丕)が使者を派遣し龐徳の墓に行かせた話があり、龐徳の遺体が蜀にあるわけがないと述べています。
裴松之は王隠の話はでたらめだと述べました。
個人的には、龐徳は関羽に捕らえられており、遺体は蜀の劉備の元に送られた可能性は残っている様にも感じています。
ただし、関羽はその後に徐晃が援軍に来ると敗れており、最後は孫権に斬首されました。
それを考えると、龐徳の遺体は何処にあったのかは不明な部分が多いと言えるでしょう。
龐会が本当に龐徳の遺体を見たのかは不明です。
尚、龐徳の一族には龐柔が蜀にいた事が分かっており、龐会が蜀に乗り込んだ時に、龐柔の子孫が何をしていたのかは分かりません。
龐会は父親の敵討ちを40年越しで成し遂げた事になりますが、この後の龐会がどの様な最後を迎えたのかは不明です。
三國志演義などには関羽の祟りにより呂蒙が亡くなった話もありますが、龐会にはそのような話しも伝わってはいません。
参考文献:ちくま学芸文庫 正史三国志
龐会の能力値
三国志14 | 統率68 | 武力75 | 知力47 | 政治42 | 魅力52 |