その他 三国志

彭沢の戦い

2022年5月28日

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宮下悠史

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彭沢の戦い(ほうたくのたたかい)西暦199年 
勢力孫策劉勲
指揮官孫輔、孫賁劉勲
兵力8000不明
損害不明不明
勝敗勝ち負け

彭沢の戦いは、孫策配下の孫輔や孫賁が8千の兵で劉勲を破った戦いです。

孫策は策を用いて劉勲を油断させ、劉勲が本拠地の皖城を開けた所で、皖城を急襲し占拠しました。

さらに、孫策は孫輔、孫賁に彭沢で劉勲を待ち伏せする様に命じており、劉勲と孫輔、孫賁の間で起きた戦いが彭沢の戦いとなります。

彭沢の戦いでは、劉勲の軍は本拠地を奪われた事で、動揺があったのか孫輔や孫賁に敗れています。

ただし、劉勲は彭沢の戦いの後に、態勢を立て直して孫策と西塞山の戦いを行っています。

それらの事を考えると、彭沢の戦いでは劉勲は敗れはしましたが、壊滅的な大敗北では無かったのでしょう。

孫策の手紙

彭沢の戦いが起きた経緯から解説します。

廬江太守の劉勲は袁術の死後に袁胤黄猗張勲楊弘らの軍勢を急襲し、揚州最大の勢力となったわけです。

しかし、孫策は劉勲が強大になるのを喜ばず、表面上は同盟を結びますが、隙を伺っていました。

劉勲は劉曄から鄭宝の軍勢も受け入れますが、養う人数が膨大となり深刻な食糧不足に悩む事になります。

劉勲は劉偕に命じて、華歆から食料を得ようとしますが、上手くは行かず、海昬・上繚に行っても食料は微々たる量しか得る事が出来なかったわけです。

こうした中で、孫策は次の手紙を劉勲に送りつけています。

「上繚の部族は度々、私を馬鹿にしており何年も腹を立てていたのです。。

私が上繚を攻撃するにも距離が遠く不便であり、願わくば大国のお力添えにより討伐したいと思っていました。

上繚は非常に豊かであり、上繚の物資が手に入れば国は富みます。

願わくば兵を出して外部からの援助をお願いしたいと思います」

孫策は劉勲が喜ぶ様に財宝も付けて届けました。

孫策の言葉に劉勲は有頂天となり、劉曄の反対を押し切って上繚に向かう事になります。

この時に、劉勲は本拠地を空にしてしまい、これが彭沢の戦いの導線となっています。

彭沢の戦い

正史三国志の注釈・江表伝によると、この時に孫策は黄祖討伐に向かっていました。

しかし、劉勲が本拠地を開けた事を知ると、孫策は周瑜と共に劉勲の本拠地である皖城に徒歩で向かいます。

さらに、孫策は従弟の孫輔、孫賁に八千の兵を預けて彭沢で、劉勲を待ち伏せさせました。

これが彭沢の戦いです。

孫策の狙いとしては、劉勲が本拠地の皖城が孫策に攻められている事を知ると、急いで劉勲は皖城に戻ると思っていたのでしょう。

急いで皖城に戻ろうとする劉勲に、彭沢で孫輔、孫賁が待ち構えて急襲するのが狙いだった様に思います。

孫策は周瑜と共に皖城を攻撃すると、皖城は呆気なく降伏し、袁術のお宝や袁燿、袁夫人、喬公の娘で絶世の美女と呼ばれた大喬、小橋なども得ました。

さらに、孫策は李術を廬江太守とする様に働き掛けています。

劉勲と孫輔、孫賁の彭沢の戦いですが、次の記述が江表伝に存在します。

「孫輔、孫賁の方でも彭沢で劉勲を打ち破った」

上記の記述から孫輔、孫賁が劉勲を打ち破った事が分かります。

彭沢の戦いの内容は不明ですが、孫輔、孫賁の軍が劉勲を破ったのでしょう。

孫輔、孫賁は彭沢の戦いで劉勲を破りますが、劉勲は西塞山に入り、劉表や黄祖の援軍を頼りとし、孫策に徹底抗戦する構えを見せます。

彭沢の戦いで孫輔や孫賁は勝利は得ましたが、劉勲を再起不能にするだけの大勝では無かった様に感じます。

この後に、孫輔や孫賁も孫策の本隊と合流し、西塞山の戦いで劉勲と再び対峙する事となります。

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