名前 | 何儀(かぎ) |
時代 | 三国志、後漢末期 |
所属 | 黄巾賊 |
年表 | 196年 曹操に降伏 |
何儀は正史三国志の武帝紀などに登場する人物です。
何儀は黄巾賊だったとあり、劉辟、黄邵、何曼らと共に、汝南や潁川の辺りで暴れ回った話があります。
何儀らは数万の兵士を率いていた話しもありますが、賊であり長くは続きませんでした。
何儀は曹操の討伐を受けると降伏しており、その後は登場しなくなります。
三國志演義でも何儀は登場しますが、何儀により許褚と典韋が一騎打ちをする展開となります。
今回は正史三国志及び、三国志演義の何儀を解説します。
尚、何儀と同じく黄巾賊の何曼は同姓ですが、関係性に関しては分かっていません。
史実の何儀
正史三国志によると何儀は汝南、潁川にいた黄巾賊だったとあります。
何儀が184年に、張角が引き起こした黄巾の乱に参加していたのかは、記録がなく不明です。
さらに言えば、何儀に関する記述は、正史三国志の武帝紀の196年の出来事として書かれており、既に張角が死に黄巾の乱が終わってから10年以上も経っている事が分かります。
何儀が元々黄巾賊で乱を起こしたのか、馬相や趙祗の様に黄巾を号して乱を起こしたのかは分かっていません。
劉辟、黄邵、何曼らも黄巾賊であり、それぞれが数万の兵を擁していたと記録されています。
この記述から何儀の配下にも数万いた事になり、大規模な勢力だったと言えます。
何儀などの勢力は最初は、袁術に味方しますが、後に孫堅に近づいたとあります。
何儀などが袁術から孫堅に移った理由は不明ですが、袁術が何儀らを満足させる事が出来る程の援助をする事が出来なかったのでしょう。
因みに、何儀らが近づいた孫堅も劉表との戦いに敗れ戦死しており、何儀らは後ろ盾を失くしたとも言えます。
孫堅が討たれてから、何儀らが何をしていたのかに関しては、記録がなく分からない状態です。
196年になると曹操が何儀、劉辟、黄邵、何曼らの征伐に乗り出しました。
正史三国志の武帝紀によれば、曹操は「劉辟、黄邵らを斬った」とあり、何儀に対しては下記の記述が存在します。
※正史三国志 武帝紀より
何儀とその軍兵は全て降伏した
上記の記述から何儀が曹操に兵たちと共に降伏した事が分かります。
ただし、何儀が曹操に降伏した後に、どの様になったのかは記録がなく分かっていません。
曹操配下として戦った事も考えられるはずです。
三國志演義の何儀
曹操は夏侯惇や曹仁に甄城を任せ、自ら汝南や潁川の平定に乗り出します。
汝南や潁川に割拠していたのが、何儀や黄邵であり、曹操は彼らと対峙する事になります。
この戦いで何儀は副大将を繰り出すも典韋に討たれ、曹洪の活躍などもあり、何儀らは不利な状況に追い込まれます。
さらに、黄邵は李典により生け捕りとされてしまいました。
黄邵も捕らえられた事で、何儀は戦意を失い逃亡したわけです。
逃亡する何儀に対し、一人の男(許褚)が立ちはだかり、何儀は戦うも直ぐに捕らえられてしまいました。
何儀は許褚の砦に連行される事になります。
何儀を追いかけていた典韋も許褚と出会い、許褚と典韋は口論となり一騎打ちをする事になります。
許褚と典韋は互角の一騎打ちをしており、曹操は許褚を配下にしたくなり、策を以て許褚を生け捕り配下としました。
何儀は三国志演義では許褚と典韋、曹操の出会いを演出しているわけです。
何儀の方ですが、曹操に引き出され、黄邵と共に斬首されています。
正史三国志では何儀は降伏したとあるだけですが、三国志演義では曹操に斬られた事になっています。