郝萌は正史三国志にも名前がある人物です。
郝萌の名は三国志演義にもありますが、正史三国志と三国志演義では役柄が全く違い、同姓同名の別人では?と思えてくる程です。
正史三国志だと郝萌は、呂布に対し反旗を翻しますが、河内訛りがあった事から人物を特定されてしまい曹性の裏切りもあり、最後は高順に斬られました。
三国志演義では下邳の戦いの時に、呂布は許汜と王楷を袁術の使者とし、護衛として郝萌を付けています。
しかし、郝萌は張飛に捕らえられ、最後は呆気なく曹操に処刑されました。
今回は正史三国志と三国志演義で、役柄が全く違う郝萌を解説します。
正史三国志の郝萌
出身地は河内??
正史三国志では郝萌は、呂布の配下として登場します。
どこで郝萌が呂布の配下になったのかは不明ですが、郝萌には「河内訛り」があった記録があり、それを考えると河内の出身だと考える事が出来ます。
呂布は王允と共に董卓を殺害しますが、後に李傕らの反撃に遭い長安を追われました。
長安を追われた呂布は袁術や袁紹、張楊、張邈などの元に行った話があります。
この時に張楊が河内太守だった話があり、呂布が張楊の元に行った時に、郝萌は呂布の配下となったのかも知れません。
ただし、これはあくまでも推測に過ぎず、正史三国志に正確な記録があるわけでもなく不明です。
呂布に反旗を翻す
196年の6月夜半に、郝萌は突如として反旗を翻し呂布の役所を攻撃しました。
後の事を考えると、郝萌を操ったのは袁術や陳宮だった事になります。
しかし、呂布は郝萌に襲撃されたとも考えず、急いで妻を連れて頭巾も被らず肩もあらわな姿で逃げ出す事となります。
呂布は完全の無防備で油断しており、寝巻きのままで妻を連れて急いで逃げたのでしょう。
攻撃を仕掛けた郝萌の方では、大喚声を上げて小門から攻め掛かりますが、門の守りが固く中に入る事が出来ませんでした。
こうした中で、呂布が高順に「河内訛りがあった」と述べた事から、犯人が郝萌だと特定される事になります。
高順は兵を率いて郝萌を攻撃すると、郝萌の配下の曹性が高順に味方し寝返りました。
郝萌と曹性の戦いとなり、郝萌は曹性を斬りつけ傷を追わせますが、曹性は郝萌の腕を切り落とす事に成功しています。
郝萌は片腕を失った時点で、激痛により戦闘不能に陥った事でしょう。
さらに、高順がやってきて郝萌の首を斬りました。
これにより郝萌の乱は平定されています。
尚、呂布は曹性の功績を評価し、郝萌が指揮していた兵は曹性に与えました。
三国志演義の郝萌
許汜と王楷を護衛
三國志演義で郝萌が登場するのは、下邳の戦いの時だけです。
陳宮は呂布が騎兵を率いて出撃し、城内と呼応し曹操軍を撃破する作戦を立案しますが、呂布は妻の厳氏と貂蝉に反対され実現しませんでした。
こうした中で呂布配下の許汜と王楷が、袁術の元に救援要請の使者となる事が決定します。
許汜と王楷は下邳の城から出ますが、護衛したのが郝萌と張遼です。
郝萌は許汜と王楷を袁術の元まで向かわせるべく先を急ぎますが、途中で関羽に出くわしてしまいます。
郝萌は窮地に陥りますが、下邳の城から高順が救援に来た事で、関羽の軍を退けました。
郝萌の最後
郝萌は許汜と王楷を無事に、袁術の元まで送り届ける事に成功しました。
しかし、袁術は度重なる呂布の背信行為があった事で直ぐに信用する事が出来ず「娘を送って欲しい」と述べます。
許汜と王楷は了承し、郝萌は再び二人を護衛し呂布の元に向かいました。
郝萌は下邳の城に戻る為に、劉備の陣屋の近くを通りますが、不幸にも張飛に出くわしてしまったわけです。
郝萌では張飛の相手にはならず、一合で破れ捕虜となります。
張飛は劉備の元まで郝萌を連れて行きますが、劉備は郝萌を曹操に送り届けに行きます。
郝萌は曹操の前に出されると、聞かれるがままに呂布の使者の護衛として袁術の元に行った事をぶちまけました。
郝萌の話を聞いた曹操は激怒し、郝萌を打ち首にした事で、郝萌は最後となり物語からはフェードアウトとなっています。
三国志演義では郝萌はチョイ役でしかありません。
正史と演義で役柄が違う理由
郝萌を見ると、正史三国志と三国志演義で行いが全く違う事が分かります。
三國志演義で郝萌が護衛となってしまった裏には、陳宮との関係があると思いました。
三国志演義では陳宮は己の意思を曲げず、呂布に忠義を尽くし、最後まで曹操と戦った人物として描かれています。
しかし、史実の陳宮を見ると郝萌を使って呂布の命を狙ったりもしており、陳宮の人間性に関しては分からない部分も多いです。
三國志演義の著者である羅貫中は、陳宮をシンプルに曹操の敵対者として描き、最後を美しくする為に、郝萌を単なる護衛役にしてしまったのでしょう。
陳宮が郝萌を操り呂布の命を狙ったのであれば、陳宮の最後を美しく描く事が出来ないからです。
ただし、何故、許汜と王楷を護衛した将軍の名を郝萌にしたのかは謎です。
こちらに関しては、羅貫中のみが知る所だとしか言いようがありません。