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張邈(ちょうばく)と人間関係の難しさ

2022年12月29日

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宮下悠史

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名前張邈(ちょうばく) 字:孟卓
生没年生年不明ー195年
時代三国志、後漢末期
年表189年 陳留太守となる
194年 呂布に味方する
画像©コーエーテクモゲームス

張邈の字は孟卓であり、兗州東平郡寿張県の出身だと正史三国志に記録されています。

張邈は曹操と親友になったとされる数少ない人物であり、若い頃は袁紹とも仲が良かったわけです。

しかし、陳留太守となり反董卓連合が結成されると、袁紹とは不仲となり、後には曹操も疑う事となります。

張邈は弟の張超の意見もあり、陳宮と共に呂布に味方しますが、最終的には敗れました。

張邈の最後は袁術に救援に行く途中で、部下に裏切られて殺害されたとあります。

張邈と袁紹、曹操の話は友人関係の難しさを現わしている様にも感じました。

尚、張邈は人間性を高く評価された人物でもあり、八厨の一人に選出されています。

多くの人々に慕われる

張邈は若い頃から男気が溢れる人物だった様であり、下記の記述が存在します

※正史三国志より

張邈は困っている者を救い、切羽詰まった人物に対しては、家財を売り惜しまなかった。

張邈は気前がよく心優しき性格でもあったのでしょう。

こうした張邈の性格を評価し、大勢の者が身を寄せたとあり、張邈は曹操袁紹らとも友人となります。

袁紹伝にも袁紹が張邈、何顒許攸伍瓊らと奔走の友として、交わりを結んだとあります。

奔走の友は苦難があった時は、お互いの為に駆け付ける程の友だとされており、若かりし頃の張邈と袁紹は深い関係を結んだのでしょう。

因みに、張邈は友の為なら財産を惜しまなかった事から、八厨の一人にも選ばれています。

張邈は皆に一目置かれる存在であり、特に清流派からの評価が高かった様です。

陳留太守となる

張邈が生きた後漢末期は混乱の時代でした。

こうした時代に張邈は騎都尉に任命されます。

大将軍の何進が宦官に暗殺されると、董卓が実権を握りました。

董卓は当初の頃は名士層と上手くやっていきたいと考え、周毖許靖の推挙により張邈は陳留太守になります。

張邈の弟である張超も広陵太守をしており、董卓の名士層優遇策により張邈は太守に任命されたのでしょう。

臧洪の呼びかけ

張邈の弟の張超の配下に臧洪がいました。

張超は臧洪を信頼し政務を任せるなど、多いに信任していたわけです。

臧洪は張超に反董卓連合の話をすると、張超も納得し臧洪と共に張邈の元に出向きました。

張邈は臧洪の話を聞くと、臧洪を高く評価し挙兵する事になります。

張邈自身も董卓は害になると考えていた様で、臧洪の呼びかけに応じたのでしょう。

張邈が挙兵に及んだ時に、後に曹操の配下となり活躍する典韋が募兵に応じやってきました。

典韋は張邈配下の趙寵の元に配属される事になります。

さらに、劉岱橋瑁孔伷らが加わり初期の反董卓連合が結成されました。

酸棗に張邈、張超、劉岱、橋瑁、孔伷らが集結し、さらに橋瑁が三公が発行したとする偽書を発行すると、袁紹、袁術、曹操、韓馥、袁遺らも呼びかけに応じました。

こうした中で名門汝南袁氏の袁紹が総大将に選ばれます。

張邈と袁紹は奔走の友の交わりを結んだ程の仲でしたが、ここから関係が悪化して行きます。

尚、曹操は都では袁紹や淳于瓊らと西園八校尉になっており、皇帝の親衛隊ではありましたが、都から外に出てしまえば無官も同然だったはずです。

それを考えると、張邈が曹操を援助し助けたというべきでしょう。

曹操を助ける

反董卓連合は大軍ではありましたが、劉岱孔伷の様な学者肌の人間も多く屈強な董卓軍とは、戦おうとはしませんでした。

戦意が低い連合軍に業を煮やしたのか、曹操は鮑信と共に董卓討伐に出向く事になります。

張邈は曹操に対し、配下の衛茲に兵を与え同行する様に命じました。

張邈が董卓に対し、どれ程のやる気があったのかは不明ですが、張邈は友人の曹操を見捨てる事が出来なかったのでしょう。

曹操も自分の為に、兵を割いてくれた張邈を信頼し、感謝したはずです。

しかし、曹操は董卓軍の徐栄との汴水の戦いで大敗北を喫し、曹操と鮑信は何とか逃げ帰りますが、張邈配下の衛茲は戦死しました。

反董卓連合は孫堅が胡軫を破り、華雄を討ち取るなどもありましたが、連合軍の士気は低かったわけです。

曹操の親友

反董卓連合の盟主は袁紹ですが、次第に傲慢になって行った話があります。

張邈は「このままではまずい」と思ったのか、袁紹に対し正論を持ち諫めました。

張邈は袁紹と友人だった事から「袁紹を諫める事が出来るのは自分だけ」と考え、善意で袁紹を諫めたのでしょう。

しかし、袁紹は張邈の言葉を不快だと感じたのか、曹操に張邈を斬る様に命じます。

曹操は袁紹に次の様に答えました。

※正史三国志 呂布伝より

曹操「孟卓(張邈)は私の親友でもあります。

彼が述べた事が正しい事なのか、間違った事なのかをよく考えて、許してやるべきです。

まだまだ、天下は乱れており、内輪もめをしている場合ではありません」

曹操は張邈を庇い、袁紹の命令を退けたわけです。

これにより張邈は、曹操の事を信頼し、曹操もまた張邈の事を信頼しました。

曹操は陶謙征伐に向かう時には家族に向かって「私が帰って来なかったら張邈を頼れ」と言い残しています。

さらに、曹操が戦いから戻り張邈に会うと、お互いに涙を流し再開を祝った話があります。

曹操は夏侯惇荀彧郭嘉なども信頼していた話がありますが、生涯において親友と言えるのは張邈一人だったと考える人もいます。

曹操は張邈に対し、絶大なる信用を寄せました。

ただし、袁紹と張邈の関係は悪化して行く事となります。

呂布と張邈

呂布は王允と共に董卓を暗殺しますが、李傕郭汜らに敗れ関東の地に逃げ延びました。

呂布袁紹の元に行くと、呂布は張燕の討伐を鮮やかにやってのけますが、袁紹は呂布を疑う事となります。

呂布は袁紹の元を去ると、張楊の元に向かいますが、道中で張邈の元に立ち寄っています。

呂布は張邈の元から立ち去る時には、手を取って誓いの握手をしました。

呂布にとっても、張邈は信頼できると感じたのでしょう。

さらに言えば、張邈も呂布に対して悪い気はしなかった様に感じています。

袁紹が張邈と呂布の話を聞くと、悔しがりました。

袁紹は呂布を殺害しようとしたわけであり、張邈が仲良くしたとなると面子を潰されたと考えたのかも知れません。

この時点だと、袁紹は張邈の事を「目障りな奴」だと認識していた様に感じています。

疑念が生じる

張邈は袁紹が自分を恨んでいる事はよく分かっていたはずです。

張邈と袁紹は奔走の友だったわけであり、張邈は袁紹の性格もよく理解していたのでしょう。

張邈は「曹操は袁紹の言いなりになって、自分を害するつもりではないか?」とする疑念が生じました。

当時の曹操は袁紹の下と言ってもよい立場であり、袁紹が張邈の首を欲すれば、曹操は命令に従う可能性があると感じたのでしょう。

ただし、後の事を考えれば、曹操は張邈を裏切る様なつもりは一切なかった様にも見えます。

曹操と絶縁

曹操は194年に再び陶謙討伐に向かいました。

この時の曹操は父親の曹嵩を陶謙に殺害された事が原因なのか、悪鬼と化し徐州大虐殺と呼ばれる程の事をしています。

徐州大虐殺の話は張邈の耳にも入っていたはずであり、複雑な気分でもあった様に思います。

張邈は人々を惜しみなく助けるような善行の人であり、殺戮は好まなかったはずです。

張邈の弟の張超は曹操配下の陳宮許汜王楷らと共に、反旗を翻そうとしました。

張超は兄の張邈も仲間に加えようと考え、呂布を盟主にしようと誘いを掛ける事になります。

陳宮も張邈の心を揺さぶりました。

張邈は曹操とは親友ではありましたが「曹操は袁紹には頭が上がらないのではないか?」と考え、さらに呂布とは誼を結んでおり悩み天秤にかけた様に思います。

張邈は袁紹に恨まれている事をネックに感じたのか、呂布を盟主として招き入れる為に動く事となります。

張邈は荀彧に劉翊を派遣し兵糧を奪おうとした記述も正史三国志の荀彧伝にあります。

この時点で張邈は曹操との関係は断絶したとも言えるはずです。

曹操に敗れる

張邈は曹操に反旗を翻しますが、多くの者が同調し曹操は兗州の大半を失いました。

しかし、東阿県、范県などは荀彧、程昱夏侯惇、棗祗などの頑張りもあり、張邈らに味方しなかったわけです。

曹操と呂布の戦いは濮陽で行われますが、曹操は呂布を打ち破る事は出来ませんでした。

この時に旱魃や蝗などの自然災害により食料が無くなり、戦いどころでは無くなってしまいます。

しかし、これらは曹操に有利に働き、再び戦闘に戻ると、曹操が呂布を破りました。

呂布陳宮らと劉備を頼り、張邈は極めて不利な立場となります。

さらに言えば、曹操は長安にいる献帝から兗州牧に任命されており、張邈らは賊軍の様な立場となってしまいました。

張邈の最後

張邈は弟の張超に一族を預け、雍丘に駐屯させました。

曹操は張超を包囲し、数カ月で降し三族を処刑しています。

曹操は張邈と「どちらかが先に亡くなった時は家族の面倒を見る」と約束しており、本来なら自分が守るつもりだった張邈の一族をどの様な気持ちで処刑したのかは不明です。

正史三国志によれば、張邈は袁術に救援に向かいますが、その最中で部下に裏切られ最後を迎えたとあります。

曹操の唯一の親友と言ってもよい張邈は、呆気なく命を落したわけです。

曹操が張邈の死を聞き、どの様に思ったのかは定かではありません。

尚、献帝春秋に張邈が袁術が皇帝になろうとするのを諫めた話が掲載されています。

献帝春秋の話を信じるのであれば、張邈は袁術の元まで辿り着いた事になるでしょう。

これに関しては、正史三国志と献帝春秋で差異が出ており、どちらが正しいのかは不明です。

ただし、袁術との話を最後に張邈が登場しなくなる事を考えると、多少の前後はあれど195年位に張邈が亡くなったと言えるでしょう。

張邈の評価

陳寿は名君と呼ばれた光武帝であっても龐萌の人物を見誤っており、曹操は張邈の本質を見抜く事が出来なかったと述べています。

さらには、人の真価を正しく判断するのが、本当の知恵者だが、それは皇帝であっても難しいと、陳寿は言いました。

人の心を読むのは大変だという事を陳寿は言いたかったのでしょう。

さらに言えば、張邈や袁紹を見ていると、人の心は一定ではなく変わりやすい事も分かります。

それでも、張邈は袁紹や曹操に比べると、人柄は良く安心して使える人物ではあったと感じました。

張邈が曹操を裏切った理由

張邈が曹操を裏切った理由ですが、史書には書かれてはおらず不明な部分が多いです。

想像にはなりますが、幾つかの説があります。

曹操が自分の上を行ってしまった。

曹操が都から逃げて来た時は、張邈が曹操を助けており張邈の方が上の立場でした。

しかし、いつしか曹操と張邈の立場は逆転し、張邈は曹操の部下の様な形になっています。

これが張邈には許せず、謀反に加担したとする説です。

曹操が袁紹に逆らえなくなる

先にも述べましたが、曹操は独立勢力ではありましたが、袁紹の部下の様な立場でもありました。

袁紹が曹操に張邈を殺害する様に命令すれば、曹操はいずれ断る事が出来なくなります。

しかし、呂布が曹操と袁紹を倒してくれれば、張邈は呂布との関係は良好だった事から身の安全を保障してくれるはずです。

安全確保の為に、曹操を裏切ったという事も考えられます。

能力主義についていけなかった

曹操は能力主義であり、苛烈な一面も持っています。

有能であっても使い物にならないと感じれば、捨ててしまう冷徹さも持っているわけです。

家柄などよりも兎に角、能力を求められる曹操陣営にウンザリし張邈は裏切ったとする説もあります。

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