張楊(ちょうよう)って誰?と思う人も多いかも知れません。
しかし、陳寿が書いた正史三国志にも登場しますし、呂布の勝利を願って大声援を送った記録が残っています。
大声援と言えば、自分の中では魁男塾という漫画を思い出してしまうわけですが、それをリアルでやってしまった武将が張楊だという事です。
因みに、上記の画像は魁男塾の大声援のワンシーンとなっています。
尚、張楊は呂布に大声援を送った事は事実ですが、下記まではやらなかったと思われます。
今回は、張楊の史実の実績などと合わせて解説します。
尚、張楊は陳寿が書いた正史三国志では公孫瓚、公孫度、張魯、陶謙、張燕、張繍と一緒に魏書に群雄扱いで収録されています。
張楊の史実の実績
張楊ですが、正史三国志によると并州で採用されたとあり、丁原の配下になった事が分かっています。
丁原の配下には、張遼、高順、呂布などもいて、有能な武将が集まる気質があったのかも知れません。
この時に、張楊と呂布は親友になったと思われます。
宦官・蹇碩の配下となる
張楊が丁原の配下だった頃ですが、後漢の霊帝が各地から優秀な豪傑を集めていた時期でもありました。
この時に、丁原は張楊に兵士を預けて洛陽に参上しているわけです。
張楊の他にも、袁紹や曹操なども呼びかけにより集まっています。
各地の豪傑を集めて統率する人物ですが、蹇碩という宦官が選ばれています。
豪傑を統率するのが、宦官と言うのは摩訶不思議な話でもありますが、霊帝は宦官愛が強くその色が出てしまったのでしょう。
これにより張楊は、蹇碩の配下となり臨時の司馬になったと記載されています。
何進の配下となる
蹇碩ですが、霊帝が崩御すると、劉協(後の献帝)を擁立しようとしますが、何進に殺害されています。
何進は、少帝(劉弁)の外戚に当たり、とても許せるような事ではなかったのでしょう。
上司である蹇碩が亡くなってしまうと、張楊は何進の配下となっています。
その後、何進は張楊を并州に帰らせています。
張楊は并州に帰還すると、軍兵を集めて上党の山賊を討伐したとあります。
山賊を討伐した所で、何進が十常侍に殺されてしまい、袁紹たちの宦官討伐が始まりますが、最終的に董卓が権力を握る事になるわけです。
この時に、呂布は丁原を殺害して董卓に鞍替えしています。
反董卓連合軍に参加
張楊は、反董卓を明確にしていたのか、壺関にいた上党太守を攻めたと記録があります。
ただし、壺関を落とす事が出来ずに、引き上げたようですが、諸県を荒らしまわり兵士が数千人に増えた話が残っています。
兵士の数が増えている辺りは、住民に支持されたという事ではないかと考えています。
地道に兵力を増やしている時に、袁紹が盟主となり反董卓連合軍が旗揚げされたわけです。
反董卓連合軍に、張楊も参加しています。
張楊の行動を見ると、天子(後漢の皇帝)に対して、忠誠心は高いようなので、必然と参加することになったのでしょう。
後に、張楊は旗揚げした袁紹に合流しています。
匈奴に連れ去られる
張楊は、袁紹と合流したわけですが、その時に匈奴の単于である於夫羅(おふら)もいました。
匈奴の単于というと、於夫羅は凄い実力者に思うかも知れませんが、この時の匈奴は内部分裂して、於夫羅とは別に単于がいて、そちらの方が強大な勢力を持ち、於夫羅は入国拒否されているわけです。
正史三国志によると、於夫羅は反逆を図ったが張楊と袁紹は同調しなかったとあります。
これがどういう事なのかは分かりませんが、その直後に張楊は於夫羅に連れ去られています。
袁紹は、配下の麹義に命じて攻撃を仕掛けて、鄴(都市名)の近辺で於夫羅を打ち破っています。
於夫羅から見れば、張楊は人質のような存在になるはずですが、「よく殺されなかったな?」と個人的には思いました。
その後、於夫羅は、張楊を捕らえたまま、黎陽に移動して、耿祉の軍勢を破り勢力を盛り返したとあります。
記述がないので分からないのですが、ここで張楊は釈放されたのではないかと思います。
その直後に、董卓により建義将軍・河内太守に任命されたという記述があるわけです。
これを考えると、董卓が於夫羅に使者を送り、張楊を釈放させたのかも知れません。
さらに、考えれば呂布と張楊は仲がいいわけですから、呂布が董卓に頼み張楊の釈放に助力した可能性もあるでしょう。
張楊は人質になっていたわけですから、呂布のお陰で助かり、これが後の大声援!?に繋がった可能性もあるはずです。
尚、張楊はここからは河内の野王県を本拠地としています。
呂布を助ける
董卓は王允の計略で呂布に殺されてしまいます。
この時に、董卓配下である李傕(りかく)と郭汜(かくし)は、賈詡の進言により王允を攻撃して打ち破っています。
呂布も敗れ去り逃亡の身となってしまうわけです。
呂布は、後に袁術、袁紹、張邈らを渉り歩き、張楊の所にも来ています。
長安で朝廷を牛耳っている李傕と郭汜は、呂布に対して懸賞金を付けていました。
この事から、張楊の部下たちは呂布を始末するべきだと考えていたわけです。
これを呂布が耳にすると、下記のように張楊に言っています。
私と君(張楊)は同郷の人間である。私を売れば同郷の人さえ売った人物だと世間に対して弱みとなる。
私を売れば、李傕や郭汜から恩賞と爵位を貰う事が出来るだろう。
皮肉や脅迫じみた事をいい、張楊を呂布は説得したようです。
これを聞いた、張楊は李傕と郭汜の言う事を聞くふりをしながら、呂布を保護したとされています。
ただし、張楊の性格を考えれば、呂布の言葉がなくても、売る様な事をしなかったのではないかなと個人的には考えています。
李傕と郭汜は、張楊と呂布を引き離そうとしたのか、呂布に勅使を発行して潁川太守に任命しています。
これにより張楊と呂布は別行動を取る事になったようです。
後に、呂布は陳宮に迎え入れられるなどもあり、曹操、袁術、劉備らと戦う事になります。
曹操と誼を通じる
董昭が袁紹の元を離れてきた時に、張楊は自分の所に董昭を引き留めています。
董昭は、張楊に今は曹操よりも袁紹の方が強いが、いずれは能力が高い曹操の方が勢いが強くなると言い、曹操と誼を結ぶように進言しています。
そのため、張楊は曹操に道を貸したり、上奏するなど便宜を図っているわけです。
ただし、後の張楊の行動を見ると、曹操よりも呂布の方に思い入れがあったのでしょう。
献帝を助ける
李傕と郭汜は最初は協力していたわけですが、後に反目する様になります。
さらに、後漢の皇帝である献帝は長安を脱出し、洛陽に向かってしまうわけです。
この時に、献帝は安邑にいたわけですが、張楊も参上して、安国将軍、晋亭侯に任命されました。
張楊は、元の都であった洛陽に献帝を連れて行こうとしますが、諸将に説得されて諦めて、領地に帰ってしまいます。
献帝は安邑から洛陽までは、楊奉、董承、韓暹らに守られて移動することになったわけです。
しかし、途中で食料が欠乏してしまい、張楊が助けに現れて無事に献帝を洛陽に入れる事に成功しました。
献帝を洛陽に入れる事に成功すると、張楊は下記の様に言っています。
天子(皇帝)は、天下のみんなのものであるはずだ。幸いにして大臣や公卿たちもいる。
私は外難を防ぐべきである。都に専念する必要はない
この様に言い残すと、自分の領地である野王県に帰ってしまったわけです。
この「天子はみんなのもの」などの発想や政治に興味を示さなかった事を見ると、張楊は後漢に対して忠誠心が厚いように思えました。
献帝は張楊を即座に大司馬に任命した記述もあります。
ただし、楊奉、董承、韓暹らと張楊は仲が悪かったと言う話もあり、本心は張楊でないと分かりません。
ここまでが大体の張楊の史実の実績であり、ようやく呂布への大声援を送る事になるわけです。
呂布に大声援を送る
後に呂布は劉備、袁術、曹操らと戦います。
しかし、下邳の城を曹操に囲まれてしまうわけです。
張楊は呂布と仲がよかった為に、助けようと思ったようですが、距離的に考えて助けられる位置にいなかったのでしょう。
ここで張楊は思いがけない行動を取る事になります。
正史三国志によると、次のような記述があります。
張楊は野王東部の市場に出兵して、はるかに声援を送った。
出兵したという記述があるため、自分一人で行ったのではなく、軍隊を引き連れて行ったのではないかと思われます。
さらに、部下全員に向かって呂布の応援をさせたのではないかと考えられるわけです。
何人くらいで呂布にエールを送ったのか分かりませんが、1万人いた可能性もあるでしょう。
正史三国志によると、張楊は慈悲深く温和な性格であり悪人に対しても、処罰が出来なかったとあります。
奴僕が謀反を企てて発覚した時も、相手に同情したのか張楊が涙を流して許した話も残っています。
相手に対して、思いやりがある性格で苦境に陥っている呂布に対して「何か出来ないか?」と考えた末の決断が、大声援だったのではないかと思われます。
部下全員で、呂布コールをやらせたのかも知れません。
呂布と言えば嫌われ者のイメージがあるのかも知れませんが、いい友達を持ったのだと思いました。
張楊も友達想いのいい奴なのでしょう。
ただし、張楊の大声援が呂布に届いたのかは定かではありません・・。
張楊が部下に暗殺される
張楊ですが、呂布に大声援を送った198年の11月に部下の楊醜によって殺害されています。
呂布が死んだのが199年の2月なので、張楊の方が先に亡くなった事になるわけです。
張楊が殺害された理由ですが、下記の2点が挙げられるのかも知れません。
・曹操に寝返る為
・張楊の大声援に呆れてしまった
曹操に寝返る為
正史三国志によれば、楊醜は張楊を討って曹操に味方する為だったとされています。
呂布が下邳で曹操に包囲された時は、呂布自身が戦いを諦めて、曹操に降伏しようとした所を陳宮が激烈に反対した経緯があります。
それを考えても、呂布の勝ち目は少ないと多くの人が、考えていたのではないかとも思われるわけです。
張楊は大声援を送ってしまう程に、呂布の味方であるわけですから、このままでは自分も滅んでしまうと考えて、曹操に寝返る為の手土産として張楊を暗殺したとも考えられます。
普通で考えれば、曹操から恩賞を貰う為に張楊を裏切ったのでしょう。
さらに、張楊は悪人であっても、処罰できない性格なわけですから、楊醜が悪人だと分かっていても、殺す事は出来なかったのかも知れません。
張楊の大声援に呆れてしまった
張楊の大声援に呆れてしまった可能性もあります。
張楊と呂布は仲が良かったかも知れませんが、部下にとっては呂布はどうでもいい人だった可能性があります。
しかも、この時は朝敵になっていますし、丁原、董卓などを裏切り、お世話になったはずの劉備に仇をなすなど呂布に対して反感を持っていた人もいるはずです。
張楊と部下の間に温度差があり、大声援を送るなども部下は嫌々やっていた可能性もあると思いました。
そういったストレスもあり、楊醜が張楊を暗殺したとする説です。
これも考えられない事ではないかな?とも思っています。
眭固が仇討ちをする
楊醜は、張楊を暗殺しました。
曹操の元に行く予定だったようですが、張楊の部下である眭固(すいこ)に討たれています。
張楊の仇討ちをする人物がいたという事です。
張楊は悪人を処分できない性格でもありますが、慈悲深く温和な性格だったともあります。
そのため、眭固は張楊に対する恩義や忠誠心が高く、楊醜を討ち取った可能性も十分にあるでしょう。
眭固は、張楊の軍勢を引き継ぎますが、袁紹に合流しようとして曹操に阻まれてしまい、史渙(しかん)に攻撃されて命を落としています。
しかし、忠義の臣だと言ってもよいと思いました。
呂布の行動には理解者がいたのかも知れない
呂布と言えば、裏切り者だとか信用できない奴というイメージが強いかと思います。
実際に呂布は、主君である丁原や董卓などを裏切って殺害しているわけです。
しかし、張楊が呂布に大声援を送っている辺りは、呂布の行動に対して理解者もいたのかも知れません。
董卓などは、呂布は董卓に武器を投げつけたり、荒々しい事もしているわけです。
そういう事情を張楊が知っていたとすれば、呂布に対しての理解者であり、その友情は生涯変わらなかったのかも知れません。
それを考えると、張楊がいただけでも呂布は幸せな奴かも知れません。
もちろん、呂布は最後に部下に裏切られてしまう辺りは、性格に問題があった事も間違いないと思いますが・・・。
因みに、自分的には呂布は友達になってはいけない奴だと思っています。
それでも、呂布は張楊を裏切らなかったのはよかったと感じました。
まあ、呂布が大声援を送った張楊を裏切ったとしたら、まさしくどうしようもない奴だとも言えるでしょう。。