名前 | 郭貢(かくこう) |
生没年 | 生年不明 |
時代 | 三国志、後漢末期 |
勢力 | 不明 |
年表 | 194年 甄城で会見 |
コメント | 謎の豫州刺史 |
郭貢は正史三国志の荀彧伝に登場する人物です。
曹操が徐州の陶謙を征伐する為に遠征中に、陳宮、張邈、張超らが呂布を盟主として反旗を翻しました。
曹操陣営では夏侯惇、荀彧、程昱は曹操陣営に残りましたが、この時に豫州刺史の郭貢が甄城で荀彧と会見を行っています。
郭貢は荀彧と会談を行った結果として「易々と攻め滅ぼす事は出来ない」と判断し兵を引きました。
郭貢は荀彧伝の一カ所でしか登場せず、誰が豫州刺史に任じたのか?など謎が多いと言えます。
今回は謎の豫州刺史と言うべき、郭貢を解説します。
荀彧との会談
豫州刺史
この時に曹操の本拠地である兗州では陳宮、張超、張邈らが呂布を旗印として反旗を翻しています。
兗州の大半の城が呂布や陳宮に靡いたのですが、夏侯惇、荀彧、程昱らは曹操の支持を鮮明にしています。
こうした中で甄城にいる荀彧に会見を申しいれて来たのが豫州刺史の郭貢です。
郭貢は豫州刺史となっていますが、誰が豫州刺史に任命したのかはっきりとしません。
董卓が任命した豫州刺史の孔伷や袁術が任命した豫州刺史の孫堅は既に世を去っており、献帝を擁する朝廷の李傕、名門の袁紹、袁術の3名の誰かが郭貢を豫州刺史に任命したのが妥当だと思いました。
当時は群雄が勝手に刺史や太守を任命する事が多々あり、豫州刺史と言っても一人ではなく、複数人いた様な時代でもあります。
その豫州刺史の郭貢が荀彧に会見を望んだわけです。
甄城での会見
郭貢が甄城にやってくると荀彧は会見をしようとしますが、夏侯惇が「貴方は州の要であり危険だから郭貢と会見すべきではない」と述べました。
しかし、荀彧は次の様に述べています。
※正史三国志 荀彧伝より
郭貢と張邈が立場からいって最初から結託していたとは思えない。
ここにやってきたのは、方針が決まっていないからだ。
郭貢を説得する事が出来れば、味方として役に立たなくても中立を維持させる事は出来る。
ここで郭貢を疑ってしまえば腹を立てて決心してしまうだろう。
荀彧は郭貢との会見を強行し、郭貢は荀彧の様子を見て甄城はまだ攻め取る事が出来ないと判断しました。
郭貢は兵を引き立ち去る事になります。
これ以降に郭貢は史書に登場せず、どの様な最後を迎えたのかも不明です。
郭貢を豫州刺史に任命したのは誰か?
袁術
郭貢を豫州刺史に任命したのは誰か?という問題があります。
誰が郭貢を豫州刺史に任命したかの記録がなく、どの勢力に属していたのかイマイチ分かっていません。
その中でも袁術が豫州刺史に任命したのではないか?とする説が根強くあります。
袁術は孫堅を豫州刺史としていましたが、劉表との戦いで孫堅が戦死すると孫賁を豫州刺史としました。
しかし、孫賁は呉に帰ってしまい豫州刺史の座から降りたとも考えられます。
陳宮や張超、張邈らが反旗を翻した裏には袁術がいたとする説があり、郭貢は陳宮の動きに合わせて荀彧から甄城を奪うつもりでやってきたとする説です。
袁紹
郭貢を豫州刺史に任命したのは袁紹だとする説もあります。
郭貢は甄城に向かったわけですが、荀彧と会見しただけで兵を引いています。
郭貢が袁術に属していたのであれば「会見しただけで兵を引くのは明らかにおかしい」とするものです。
実際に郭貢が袁術に属していたとしたら、会見もせずに攻撃してもおかしくはないでしょう。
袁紹は過去に孫堅が豫州から離れている隙に、周喁を豫州刺史に任命した事がありました。
それを考えると、袁紹の意を受けた郭貢が勢力拡大の為に甄城を奪おうとしたと考えても不思議ではないでしょう。
郭貢は日和見の態度を取っている様にも感じますが、袁紹の意を受けて豫州刺史となったのであれば納得できる部分もあります。
陶謙・李傕
陶謙や李傕が郭貢の豫州刺史と関係しているのではないか?とも考えられます。
陶謙は曹操が兵を引いた後に劉備を豫州刺史として推挙し、朝廷で認められています。
当時の朝廷では献帝を擁している李傕や郭汜がおり、郭貢が曹操と呂布との戦いの中で亡くなり陶謙の推挙により劉備が豫州刺史となった説です。
仮に李傕が郭貢を豫州刺史としたのであれば、呂布と曹操の戦いで日和見的な態度を見せてもおかしくはないと感じました。
ただし、実際のところ正確な記録があるわけではなく、誰が郭貢を豫州刺史に任命したのかは謎が多いと言えるでしょう。