その他 三国志 後漢

孔伷は清談を好み枯れ木を生き返らせる程の弁論を持っていた

2023年1月4日

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宮下悠史

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名前孔伷(こうちゅう) 字:孔伷
生没年生年不明ー190年??
時代後漢末期、三国志
年表189年 豫州刺史に任命される
画像©コーエーテクモゲームス

孔伷の字は公緒であり、兗州陳留郡の出身だと伝わっています。

孔伷は董卓が実権を握ると、周毖許靖の推挙もあり、豫州刺史に任命されています。

しかし、董卓が少帝を廃し献帝を即位させるなどもあり、孔伷は反董卓連合に参加しました。

ただし、孔伷は軍事は得意では無かったのか、連合に参加しても董卓と戦おうとはせず、目立った活躍はありません。

190年頃に孔伷は亡くなった様ではありますが、正確な没年は分かってはいない状態です。

尚、孔伷は清談が得意であり「枯れ木に花を咲かす」と言われる程に巧みな弁論術を持っていた話があります。

今回は最初期の頃からの反董卓連合に参加した孔伷を解説します。

豫州刺史となる

霊帝が崩御すると中常侍らにより、何進が命を落し董卓が実権を掌握しました。

董卓は周毖や許靖に人事を任せると、孔伷は豫州刺史となります。

孔伷は名士であり、初期の董卓政権では名士が重用される事が多く、豫州刺史に任命されたのではないか?と考えられています。

後に鄭泰は董卓に孔伷の人柄として、次の様に語っています。

※漢紀より

孔公緒(孔伷)は人物批評や高尚な議論が得意であり、枯れ木を生き返らせ生木を枯れさせる程の見事がさがあります。

鄭泰の枯れ木を生き返らせ、生木を枯れさせる程の見事さがあると、孔伷は評価されているわけです。

枯れ木を生き返らせるなどは、孔伷に対する最大限の評価だとも感じました。

当時は宦官が濁流派と呼ばれ、多くの名士が清流派に属し、人物批評を好んだ話があります。

こうした面から見ても、孔伷は名士であり弁論を評価され、董卓を豫州刺史に任命したのでしょう。

因みに、孔伷らが董卓に反旗を翻した事で、後に周毖は処刑され許靖は逃亡しています。

この辺りは恩を仇で返してしまったと言えそうです。

ただし、孔伷は逃亡してきた許靖を保護しています。

反董卓連合

董卓は少帝を廃し陳留王(献帝)を即位させますが、関東の地では反董卓連合が結成されました。

最初に反董卓連合を考案したのは、広陵太守・張超配下の臧洪です。

張超や臧洪の呼びかけに応じ橋瑁や劉岱、張邈らが応じ、孔伷も連合に参加しています。

初期の反董卓連合において、盟主を決める段階となりますが、中々決める事が出来ず最終的に臧洪が盟主となりました。

孔伷が反董卓連合の盟主にならなかった理由に関してですが、鄭泰の評価を見れば分かります。

※漢紀より

孔伷は軍隊を指揮する能力はなく、雨露に耐える事は出来ません。

矛を持ち刃を交えるとなれば明公(董卓)の敵ではないでしょう。

鄭泰は孔伷の弁論を評価するも、軍事能力に関しては未熟だと判断したわけです。

後に袁紹が盟主となり反董卓連合を結成しますが、孔伷は董卓軍と戦ってはいません。

董卓軍と戦ったのは曹操孫堅など武勇に自信がある者達です。

それを考えると、孔伷は連合軍には参加しましたが、結果を残す事が出来なかったと言えます。

孔伷の最後

孔伷の最後ですが、反董卓連合が起こった直後に亡くなってしまった様です。

反董卓連合解散後に袁術孫堅を豫州刺史に任命しており、この時点で孔伷は亡くなっていたと考えられます。

さらに、蜀書の許靖伝に孔伷が亡くなると、許靖が揚州刺史の陳温を頼った記述があります。

それを考えると、孔伷は190年頃に亡くなったと考えるべきでしょう。

孔伷は清談は得意でしたが、武略は欠いており反董卓連合の様な荒々しい所には向かず、ストレスも大きく体調を崩し亡くなってしまったのかも知れません。

それでも、反董卓を掲げ初期の頃からの反董卓連合に参加する辺りは、国に対し忠義の心もあった様に感じています。

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