
| 名前 | 韓の懿侯(共侯) |
| 姓・諱 | 韓若山 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前363年 |
| 在位 | 紀元前374年ー紀元前363年 |
| 時代 | 戦国時代 |
| 一族 | 父:哀侯 子:昭侯 |
| コメント | 目まぐるしく変わる状況に上手く対処した。 |
韓の懿侯は春秋戦国時代の韓の君主です。
父親の韓の哀侯は韓厳に誅されており、韓厳により擁立されますが、韓は分裂しました。
しかし、趙の助けにより韓を統一すると、魏の後継者争いにも介入する事になります。
韓の懿侯の時代に、晋の孝公は屯留に遷され、東周王朝は二分されました。
三晋の対立や和合もあり、秦の東征が始まるなど、難しい時代ではありましたが、上手く対処したと言えるでしょう。
首都を陽翟に遷す
韓の懿侯は韓厳が韓の哀侯を誅した事で、即位しました。
韓の哀侯は魏と誼を通じて、鄭を滅ぼし新鄭を首都にするなど、新魏派の人物だったと考えられています。
吉本道雅氏の説によると、韓は魏を巡って分裂し、韓厳は韓の懿侯を奉じて陽翟に本拠地を遷したとされています。
韓の哀侯の時代に韓は鄭を滅ぼすなど華々しい活躍もありましたが、実際には魏に服属しており、反発したグループが韓の哀侯を誅し、韓の懿侯を擁立し、陽翟に遷都したと考えたわけです。
魏に従属した状態では、韓の発展はないと考えたのかも知れません。
新鄭には、韓の親魏派がおり、韓は分裂してしまったのでしょう。
韓の懿侯が陽翟に遷都した記録はありませんが、後の展開を見ると辻褄が遭います。
尚、紀元前371年に魏が楚の魯陽を攻略しており、東方や南方への進出が閉ざされており、魏を何とかしなければ韓は勢力拡大が難しい状態になっていました。
魏の後継者争いに介入
新鄭を奪還する
紀元前370年に魏の武侯が没しますが、この年に趙が鄭を陥落させ韓に与えたとする記述があります。
ここでいう鄭は新鄭だと考えれば、記録にはありませんが、韓の懿侯に反発する親魏派が新鄭に籠っていたのでしょう。
韓は新鄭を譲ってくれたお礼として、趙に長子を割譲しました。
当然ながら、趙の成侯が韓の懿侯に新鄭を与えたのであり、趙と韓の関係が強化された事になります。
この時点で韓の懿侯は韓を再統一に成功したと言えるでしょう。
魏の武侯没後の後継者争いで、魏の恵王と公子仲緩が争いますが、韓の懿侯は趙の成侯と共に公子仲緩を支持しました。
史記の韓世家に韓の懿侯の2年(紀元前369年)に、魏が韓を馬陵で破ったとあります。
さらに、魏の恵王を支持する軍が趙を懐で破りました。
魏の恵王は、趙と鄴の公子仲緩の軍を平陽の戦いで破るも、趙と韓は巻き返し上党にある魏の葵を攻略し、魏の恵王を濁沢で包囲するに至りました。
魏の上党の大夫の王錯が紀元前368年に韓に降りました。
周と晋の処遇
魏は晋の正卿となり、晋の公室や東周王朝の権威を利用し、趙や韓に介入したりしていました。
魏の後継者争いを好機と見た韓の懿侯と趙の成侯は、晋の孝公を新絳から強制的に屯留に遷してしまい、東周王朝も東周と西周に分裂させています。
これにより魏は晋や東周王朝の権威を利用出来なくなりました。
晋の孝公を遷した屯留は、趙の邑であり、東周王朝の領地は韓に囲まれている事から、晋の公室は趙の成侯に任せ、韓の懿侯は分裂した東周王朝をみる事になったのでしょう。
趙韓同盟の決裂
韓の懿侯と趙の成侯は協力関係にありましたが、魏の対処を巡って対立しました。
趙の成侯は、魏の恵王を殺害し、公子仲緩を擁立する事を望みますが、韓の懿侯は魏の恵王と公子仲緩で魏を二分する事を望んだわけです。
斉とも対立していた趙の成侯は、公子仲緩に魏の君主になって貰い趙・魏の連合で斉と戦い、さらには魏の容認の元で衛への侵略を狙いたかったのでしょう。
韓の方では南方は魏により閉ざされており、魏を二分して弱体化され、土地を切り取る以外に南方や東方に勢力拡大が出来ない状態だったわけです。
韓のと趙の成侯の思惑が合致せず、このまま魏の恵王を包囲し続けて破ってしまったら、韓の懿侯は不利になると考え、結果として韓軍は撤退するに至りました。
韓が撤退した事で趙の成侯も戦線を維持できず、撤退し斉との戦いに集中する事になります。
結果として、魏の後継者争いは魏の恵王の勝利に決まりました。
韓は魏に備える必要もあり、竹書紀年のよると邢丘に築城しており、魏に備える為のものだったのでしょう。
趙と韓が対立した事で、韓の懿侯は魏に接近し、紀元前366年に魏の恵王と宅陽で会見を行い講和しています。
魏との関係悪化と秦に接近
紀元前365年に魏は宋の儀台を奪取しました。
韓は文侯の時代に宋を攻撃し彭城まで行き、宋の悼公を捕虜にしており、鄭を滅ぼした後は宋を攻め取りたいと考えていたとみる事が出来ます。
魏が宋へ侵略する事は、韓との競合を意味し、魏と韓の関係がギクシャクしてくる事になります。
紀元前364年に魏は石門の戦いで秦軍に大敗しますが、趙の成侯は魏に援軍を送っていますが、韓の懿侯は動かなかったわけです。
魏と趙が秦の驚異の前に接近しますが、韓は孤立する恐れがあり、秦に接近しました。
石門の戦いで秦が勝利した後に、東周王朝の周の顕王が黼黻の衣服を秦の献公に贈り祝賀していますが、韓の懿侯が秦に接近する為に東周王朝を動かしたと考えられています。
韓の懿侯は秦と接近し、趙や魏と対峙しようとしました。
韓の懿侯の最後
史記の韓世家によると、韓の懿侯はその12年に没したとあります。
紀元前363年に韓の懿侯は亡くなったという事なのでしょう。
韓の懿侯が亡くなると、子の韓の昭侯が後継者となりました。
この頃に、秦は魏への侵攻を強め、趙は最初は魏に援軍を出していましたが、魏趙関係は悪化しました。
韓の懿侯は秦に接近していましたが、魏と趙の関係が悪化する中で韓は趙と結ぶ事になります。
秦よりも趙を選択した頃に、韓の懿侯は亡くなってしまったと言えそうです。
| 先代:哀侯 | 懿侯 | 次代:昭侯 |