
| 名前 | 韓の襄王 |
| 姓・諱 | 韓倉 |
| 生没年 | 生年不明ー紀元前296年 |
| 在位 | 紀元前312年ー紀元前296年 |
| 一族 | 父:宣恵王 子:釐王 |
| コメント | 東の領土は奪われたが南に領土を拡大させた |
韓の襄王は春秋戦国時代の韓の君主です。
治世の前半は秦の武王が東方への勢力拡大を狙った時期でもあり、甘茂により韓は宜陽が陥落するなど西方の領地を失いました。
それでも、秦を盟主とする斉、魏、韓の同盟が成立すると、垂沙の戦いで楚を破り韓は南方に大きく領土を拡げています。
韓の襄王は孟嘗君を盟主とするが斉、魏、韓の同盟にも参加し、函谷関を攻撃すると秦から武遂を割譲する事にも成功しました。
韓の襄王の時代は、韓咎(韓の釐王)と公子蟣蝨の後継者問題もありましたが、秦の難を逃れ南方に勢力を拡大させるなど、上手く対処したと言えそうです。
尚、韓の襄王の本名は韓倉ですが、戦国策に登場する趙末期の韓倉とは、当然ながら別人となります。
臨晋の会合は実在したのか
史記の韓世家によると、韓の襄王の4年(紀元前308年)に臨晋で秦の武王と会合を行ったとあります。
韓世家では、この後に秦の甘茂が韓に侵攻し、宜陽を討たせたとあります。
この記述が本当であれば韓の襄王と秦の武王が臨晋で会見を行ったものの、講和する事も無く秦が韓を討った事になるはずです。
ただし、臨晋での会見の後に、秦の武王は樗里疾を韓に入れた様でもあり、秦の武王は親韓派の樗里疾を外に出し、韓を討つのが狙いだったのかも知れません。
真相は不明ですが、紀元前308年に秦が韓を攻撃したのは史実なのでしょう。
宜陽が陥落
秦の武王が甘茂に宜陽を攻撃させますが、中々落とす事が出来ませんでした。
息壌の誓いを持ち不退転の決意で秦の武王は、宜陽を攻撃させますが、宜陽守備軍の強固な守りもあり、陥落させる事が出来なかったわけです。
この時に、韓の襄王は樗里疾や公孫奭に働きかけを行った様であり、講和に動く事になります。
樗里疾の母親は韓の女性、公孫奭は韓の公子であり、韓の襄王としては戦争を終わらす為の講和を行った事でしょう。
しかし、甘茂は「息壌の誓い」を思い出す様に秦の武王に告げると、秦の武王は兵を増員し甘茂は宜陽を陥落させ、6万人を斬首する結果となりました。
宜陽は規模が大きな邑でもあり、韓の襄王としては、苦々しい出来事でもあったはずです。
さらに、宜陽は韓武子が鄭を滅ぼす為に、本拠地を遷した場所でもあり、鄭の首都だった新鄭を韓は首都にしていた事もあり、韓の襄王にしてみれば、秦の脅威が近づくのを肌で感じたのではないでしょうか。
韓は東周王朝を囲む形で領土を持っていましたが、秦の宜陽陥落により、東周王朝と秦は国境を接する事になります。
韓の襄王は宜陽を陥落させると、宰相の公仲侈に命じて秦の武王に謝罪しました。
講和が成立している所を見ると、秦の方でも宜陽攻めにおける損害は大きかったのでしょう。
この後に、秦の武王は東周王朝に行き鼎を持ち上げて事故死していますが、韓の襄王はほくそ笑んだのかも知れません。
韓の襄王と武遂の地
韓世家によると、韓の襄王の6年(紀元前306年)に、秦が武遂を韓に返還したとあります。
甘茂が武遂を韓に返還する様に進言し、向寿や公孫奭が反対しますが、秦の武王は韓に武遂の返還を決めました。
秦は韓の襄王や楚の懐王と講和し、斉や魏を攻撃する事になり、韓は一安心した事でしょう。
しかし、甘茂が讒言を怖れ魏の蒲阪を討つのを止めて、斉に出奔しており、斉や魏を攻める戦略は頓挫しました。
当時の秦では秦の武王が突然死しており、魏冄や宣太后が秦の昭王を擁立する為に動き、公子は粛清されたり出奔したりし、政局が荒れており甘茂は讒言を受けていた事もあり、出奔してしまったわけです。
それと同時に甘茂は韓に武遂を返還させてくれた人でもあり、韓の襄王の不安も大きかった事でしょう。
韓世家によると、韓の襄王の9年(紀元前303年)に、秦は再び武遂を奪ったとあり、結局は韓は武遂を失いました。
垂沙の戦い
韓の襄王の10年に(紀元前302年)に、太子嬰が秦に参朝して帰ったとあります。
韓の襄王としては、秦と誼を結びたかったのでしょう。
史記の韓世家では韓の襄王の11年(紀元前301年)に、秦が韓の穣を奪ったとあります。
韓世家の記述を見ると、韓が秦に穣を奪われた事になっていますが、実際には穣を失ったのは韓ではなく楚だったのではないかとも考えられています。
同年に秦と共に韓は楚を討ち、唐眜を破ったと韓世家にあります。
韓世家の韓の襄王11年の秦と共に楚を攻撃した記述は、紀元前301年の垂沙の戦いを指すのでしょう。
この時に楚は外交的に孤立しており、秦を盟主とする斉、魏、韓の連合軍が楚の唐眜に大勝しました。
垂沙の戦いでは秦は庶長の奐が軍を率い、斉は匡章、魏は公孫喜が軍を率いており、韓の襄王は暴鳶に軍を率いさせ楚を攻撃させています。
垂沙の戦いでの勝利により、韓は楚の土地を奪い南方に大きく領土を拡げました。
後継者問題
韓の襄王の12年(紀元前300年)に、太子嬰が亡くなりました。
太子の座が空席となり、韓咎(韓の釐王)と公子蟣蝨が争う事になります。
次期太子の座を争う辺りは、韓の襄王も他国の思惑もあり、自分の後継者を決めかねていた部分があったのでしょう。
ここで、蘇代が韓咎の為に策を出し、韓の公仲や公孫味の思惑などもありましたが、蘇代が羋戎を説得した事で最終的に公子蟣蝨は韓に帰る事が出来ませんでした。
これにより韓の襄王の後継者は韓咎に決まったわけです。
尚、史記の韓世家では韓の襄王の後継者問題の記述が、韓の襄王の時代の出来事の大半を占めている状態となります。
斉・韓・魏同盟の躍進
韓の襄王の13年(紀元前299年)に、斉王と魏王が韓に訪れたとあります。
斉の湣王と魏の襄王が韓で、韓の襄王と会見を行い同盟を結んだのでしょう。
ここにおいて、斉の湣王を盟主とする斉、魏、韓の同盟が成立した事になります。
秦から逃げ帰った孟嘗君が合従軍の総帥となり、軍は斉の匡章が指揮しました。
韓の襄王の14年(紀元前298年)に韓は斉・魏の王と共に秦を討った記録があり、韓の襄王の16年(紀元前296年)に秦が武遂を韓に与えた話があります。
函谷関まで攻め寄せた斉・魏・韓の合従軍が、秦から土地を割譲させたと言えるでしょう。
韓の襄王の最後
韓の襄王は斉・魏・韓の連合軍が秦に勝利した紀元前296年に亡くなりました。
韓の釐王が後継者として立つ事になります。
韓の襄王は秦に苦しめられた部分もありましたが、秦の軍を破り有終の美を飾ったとも言えます。
ただし、斉・韓・魏の連合軍が秦に大勝した事で、秦は韓や魏を恨み後の伊闕の戦いの大敗北に繋がったとする指摘もある状態です。
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