名前 | 魏の景湣王 |
本名 | 魏増、魏午?? |
生没年 | 生年不明ー紀元前228年 |
在位期間 | 紀元前243年ー紀元前228年 |
コメント | 戦国時代末期の魏の君主 |
魏の景湣王は戦国時代末期の魏の王であり、魏の恵王を初代と考えた場合に景湣王は五代目となります。
魏の景湣王は太子の時代に秦への人質となり、信陵君が合従軍を率いて秦を攻めた時には、秦の怒りを買い処刑されそうにもなっています。
それでも、魏の景湣王は父親である魏の安釐王が亡くなると、魏王として即位しています。
魏の景湣王ですが、秦の強勢は続いており、頼みの綱であるはずの信陵君も既にこの世になく極めて困難な状況でした。
魏と秦の国力を考えても、10倍以上の差があったとも考えられており、魏の景湣王が卓越した君主であったとしても、非常に難しい状態だったと言えるでしょう。
魏の景湣王の時代に、魏の領地はさらなる縮小に向かいますが、秦と魏では国力が違い過ぎる部分もあり、景湣王の責任とは言えない部分もあるはずです。
尚、春秋戦国時代を題材にした漫画キングダムでは、魏の景湣王は廉頗に「見た目でしか人を量れぬ」と凄味を見せられましたが、激怒する事もなく廉頗の話を聞いたりもしています。
キングダムでは魏の景湣王は温和な性格として描かれていると言ってもよいでしょう。
ただし、史実で見ると魏の景湣王が廉頗を用いた記録はなく、後に廉頗は趙に戻りたいと思いながらも、魏から楚に移る事になります。
秦の人質となる
信陵君と太子増
史記の魏世家の記録を見ると、太子時代の魏の景湣王(太子増)は、秦への人質となっていた事が分かります。
戦国四君の一人である魏の信陵君が趙から魏に戻り、五カ国からなる合従軍を率いて秦の蒙驁を破り、函谷関まで攻め寄せました。
これが紀元前247年の話であり、信陵君が秦を追い詰めた時に、太子増は人質として秦にいたわけです。
人質というのは、攻撃を受けない為に取るのであり、太子増が秦にいたのに、魏の信陵君が合従軍を率いて秦を攻撃したら、人質の役目を果たしていない事になってしまいます。
信陵君は天下最強の秦軍を破る威名を得ましたが、一方で秦への人質となっている魏の太子増の立場は悪化しました。
ある人の言葉で救われる
史記の魏世家によると、信陵君が秦軍を破った事で秦王は怒り、人質になっている魏の太子増を捕えようとしたとあります。
信陵君が秦軍を破ったのは紀元前247年であり、秦の荘襄王の末年であり、太子増を捕えようとしたのは、荘襄王か後継者の秦王政のどちらかになるはずです。
ただし、秦王政はまだ子供であり、太子増を捕えようとしたのは、呂不韋や秦の大臣だったのかも知れません。
太子増に危機が訪れますが、ある人が次の様に述べました。
※史記 魏世家より
魏の将軍である公孫喜は以前から魏の宰相に『速やかに秦を討つ様にして下さい。さすれば、秦王は怒り必ずや太子増を捕えるはずです。
太子増が捕らえられる様な事があれば、魏は怒って秦を討ち秦は敗れる事になります』
今の状態で王が太子増を捕えてしまえば、公孫喜の謀が成功する事になります。
それならば、太子増の待遇をよくし、魏と和合し斉や韓に魏を疑わせた方がよいでしょう」
史記には名前が載っていない人物ですが、この言葉が太子増を救う事になります。
魏の将軍の公孫喜は太子増が秦で捕えられる事で、魏と秦の戦いになり、魏が勝利すると主張したわけです。
実際に、信陵君に秦のエース級の将軍である蒙驁が敗れており、太子増を捕えれば再び信陵君が攻めて来ると言いたかったのでしょう。
秦では信陵君に手痛い敗北をしており、戦いたくはなく、太子増を優遇すれば、今度は秦と魏が連衡を結んだのではないかと斉や韓を疑わせる事が出来ると述べたわけです。
この名もなき人物の言葉により、太子増は救われ、父親である安釐王が亡くなると、魏の景湣王として即位する事になります。
尚、太子増がどのタイミングで秦から魏に帰ったのかは不明です。
苦難の船出
魏の安釐王は紀元前243年に亡くなりますが、この年に信陵君も亡くなっています。
魏の安釐王と信陵君は仲違いしており、信陵君は酒浸りで世を去ったわけです。
魏の景湣王は頼みの綱でもあったはずの信陵君がおらず、苦難の船出となります。
秦は信陵君がいなくなった事を知ると、蒙驁に命じて魏を攻撃し20の城を陥落させ東郡を設置しました。
秦は東郡を設置した事で、東の斉と国境が繋がり合従の同盟を分断した事にもなります。
魏は楚の春申君と趙の龐煖の合従軍にも参加しますが、秦の反撃にあい撤退に追い込まれました。
秦の攻勢は続き景湣王の2年には朝歌を秦に抜かれました。
衛は魏の属国になっていましたが、朝歌を本拠地としており、衛は野王に都を遷す事になります。
朝歌は殷の首都でもあった場所であり、魏にとっては手痛い敗戦だった様に思います。
その後も秦の攻勢は続き、景湣王の3年(紀元前240年)には汲を抜かれました。
鄴を手放す
紀元前239年に史記の趙世家に魏は趙に「鄴を与えた」とする記述があります。
鄴は戦国時代の初期の魏の文侯の時代に西門豹なる名臣が現れ、大発展させた都市でもあります。
三国志の曹操や袁紹なども鄴を本拠地としており、後世では鄴を首都にした王朝もあり、重要都市だったはずですが、魏は鄴を趙に割譲しており、趙の協力を得て秦と対峙したかったのかも知れません。
それでも、趙に鄴というのは、魏の景湣王にとってみれば大きな決断だった様にも感じています。
しかし、趙の悼襄王と魏の景湣王の連携がうまく行かなかったのか、景湣王の5年(紀元前238年)には秦の楊端和らにより、垣・蒲陽・衍が抜かれました。
ここで魏は秦と連衡を結んだのか、秦と共に楚を攻めたと史記の楚世家にあります。
魏が秦と共に楚を攻めたのは、楚の幽王の3年とあり、紀元前235年の事になります。
魏の景湣王の最後
魏の景湣王は即位5年目の紀元前238年以降に、秦に攻められた記録がありません。
この時点では、魏は首都の大梁と世間で名が通っていた安陵君が治める土地位しか残っていなかったとも考えられています。
秦にとってみれば韓と魏は、いつでも攻め滅ぼせる様な状態でもあったのでしょう。
しかし、秦は魏や韓を攻撃せず、趙を攻撃し李牧に連敗する事になります。
ここで秦は矛先を韓に変更し、韓は紀元前230年に内史騰により、韓王安が捕虜となり滅亡しました。
魏の景湣王は韓が滅ぼされたのであれば、次は自分の番だと感じていたはずです。
こうした中で、魏の景湣王は即位15年目である紀元前228年に没しました。
魏の景湣王は史記では「魏の景湣王の15年に亡くなった」と記載されているだけであり、最後の詳しい描写などはありません。
景湣王が亡くなった紀元前228年は、趙の幽穆王が郭開や韓倉の言葉で李牧を処刑し、司馬尚を庶民に落し秦の王翦らに攻められて首都の邯鄲が落城した年でもあります。
尚、魏の景湣王が亡くなると、魏王仮が即位しますが、即位3年目の紀元前225年に秦の王賁に攻められ、魏は滅亡しました。
魏の景湣王の評価
魏の景湣王ですが、既に即位した時点で魏は秦に対し圧倒的に不利であり、誰が即位しても勢力の後退は逃れられなかったはずです。
魏の景湣王の諡号である「景」は比較的よい意味があったりしますが「湣」の文字は斉の湣王を代表する様な暗君の諡でもあります。
それを考えると、魏の人々は景湣王の良い部分はあったと考えながらも、秦から領地を奪われた事で暗君としての意味合いがある諡号を贈ったのでしょう。
魏の景湣王が即位した頃の魏と秦の状況を見るに、魏が挽回する為には、少し優れた程度の君主では挽回できなかったと感じています。
秦と魏の国力が圧倒的に離れてしまった時代であれば、ローマのカエサルやアレキサンダー大王などの並外れた傑物でなければ難しかったと感じています。
魏の景湣王は非常に困難な状況の中で魏王となったとみる事が出来るはずです。