室町時代

高師直『初代幕府執事は神をも畏れぬ男だったのか』

2024年10月2日

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宮下悠史

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名前高師直
別名高階師直
生没年生年不明ー1351年
時代南北朝時代
主君足利尊氏
一族父:高師重 兄弟:高師泰、高重茂 子:高師夏、高師詮
年表1338年 石津の戦い
1348年 四条畷の戦い
1351年 打出浜の戦い
コメント無法者扱いされる事が多い。

高師直は足利尊氏に仕えた人物であり、高家は鎌倉時代には既に足利家に仕えた事も分かっています。

高師直は戦いに非常に巧みであり、軍事面で足利尊氏を支えたとする見方が強いです。

専門家によっては足利尊氏が戦いに強かったのは配下に高師直や高師泰がいたからだと指摘する人もいます。

高師直は戦いには滅法強く四条畷の戦いで楠木正行を破る活躍もしていますが、素行が悪いなどもあり足利直義と対立したりもしました。

観応の擾乱で南朝に降伏した足利直義に敗れ高師直は最後を迎え高家も没落しています。

しかし、近年の研究では高師直の素行は当時の守護達と同レベルだとする指摘もあり、再評価されている武将でもあります。

高師直のYouTube動画も作成してあり、記事の最下部から視聴する事が出来ます。

足利家執事の家柄

高家は代々足利家の執事の家柄だった事が分かっています。

高師直の父親である高師重は足利貞氏と足利尊氏と二代に渡り執事を務めています。

高師直は叔父の高師行の娘を妻とし、子には高師詮と高師夏がおり、娘は渋川直頼に嫁ぎ渋川義行を産みました。

尚、高師直は叔父の高師行の子の高師冬を猶子としています。

執事となる

1333年の10月に高師直は父親から譲られて足利家の執事となります。

この時は鎌倉時代の最末期であり、楠木正成赤松円心らに幕府軍が翻弄されていました。

鎌倉幕府の最高権力者である北条高時は足利尊氏に近畿の幕府軍の援軍として向かう様に命令し、高師直も従軍する事になります。

近畿に到着した足利尊氏は幕府を裏切り、後醍醐天皇に味方し六波羅探題を攻略しました。

高師直も六波羅探題攻略戦で活躍したとされています。

関東では新田義貞が鎌倉を陥落させ、鎌倉幕府は滅亡するに至りました。

建武政権での高師直

鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇の建武の新政が始まる事になります。

建武政権では足利尊氏を重要な地位に立てず「尊氏なし」の言葉がありますが、執事の高師直が武者所や窪所、雑訴決断所などで活躍する事になります。

武者所には倒幕の功労者である楠木正成もおり、高師直を介して足利尊氏と楠木正成は誼を結んだのではないかとされています。

建武の新政では高師直は京都に留まり尊氏の代官的な役割をこなしたと考えられています。

近畿で敗れる

1335年に北条時行と諏訪頼重による中先代の乱が勃発しました。

足利尊氏は後醍醐天皇の制止を振り切り、鎌倉将軍府の足利直義の救援に向かいますが、高師直も随行する事になります。

これにより足利尊氏だけではなく高師直も建武政権から離脱しました。

足利尊氏は近畿を転戦しますが、太平記に大渡で新田義貞の軍と交戦した話があります。

大渡の戦いで足利軍は川を渡河する方法を考えますが、新田軍が源義経と源義仲の宇治川の戦いを例に出し「なぜこの川を渡らないのか」と挑発されました。

新田軍の挑発により相模や武蔵の兵が川を渡ろうとしますが、高師直は「昔は昔。今は今である」と述べて渡河する兵を諫めた話があります。

宇治川の戦いの内容を知っている辺りは、高師直が高い教養を持っており合理的な性格をしていたとする証だとも考えられています。

因みに、高師直が付近の住宅数百棟を破壊して得た木材で筏を作り淀川の渡河を試みた話があります。

しかし、新田軍が川中に打った乱杭により阻まれ足利軍が500程の損害を出してしまった記録も残っています。

足利軍は赤松氏や細川定禅からの援軍を得た事で京都を制圧する事になります。

しかし、奥州から北畠顕家が後醍醐天皇の味方として現れ高師泰が新田義貞に撃退されるなど戦況は芳しくありませんでした。

赤松円心の進言もあり足利尊氏は九州に落ち延び高師直も同行しています。

九州での高師直

少弐頼尚の援助を受けた足利軍は多々良浜の戦いで菊池武敏を破り勢力を盛り返しました。

多々良浜の戦いでは猜疑心が拭えない尊氏に対し高師直の弟の高重茂が天武天皇や安禄山の話を出し諫めた話があります。

九州を抑えた足利尊氏ですが、直ぐに近畿に向かう事はせず、足場を固める事になります。

高師直が大隅国の禰寝清武に尊氏上洛用に船を用意させ点検させた話があります。

船の準備が完了すると足利軍は近畿を目指しました。

湊川の戦い

九州から京都を目指す足利軍ですが、海軍を足利尊氏が率いて高師直が補佐し、陸軍を足利直義が率いて高師泰が補佐した話があります。

太平記では湊川の戦いの前に新田軍の本間重氏が見事な弓の腕前を披露し、尊氏の船に矢を放ち射返す事を要求しました。

足利尊氏は誰に射返す役をやらせようかと悩むと、高師直が佐々木顕信を推挙し皆が納得した話があります。

ただし、新田軍との様々なやり取りがあり佐々木顕信は矢を射返す事はしませんでした。

尚、湊川の戦いでは太平記では楠木正成は楠木正季らと自害した事になっていますが、梅松論では高尾張守の配下の者が楠木正成を討ち取り首を持参した事になっています。

高尾張守は謎の人物ではありますが、高師直の一族の高師兼か高師業だったのではないかとも考えられています。

京都で奮戦

湊川の戦いで勝利した足利軍は京都に進撃しました。

京都での戦いで高師直は法成寺河原で敵軍と遭遇し勝利しています。

新田軍との賀茂多々洲河原の戦いでは高師直が総大将を務め負傷しながらも勝利した話があります。

比叡山を含めた一連の戦いで高師直の弟の高師久が捕虜となり処刑された話もあり、激戦だった事は間違いないのでしょう。

京都での戦いでは記録によって高師直だったり高師泰だったりと錯綜しており、余りにも激戦だった為に情報が上手く伝わらなかったともされています。

幕府の執事となる

足利尊氏は持明院統の光厳上皇の院政を開始する様に手はずを取り、光明天皇が即位しました。

さらに、比叡山に籠る後醍醐天皇との和議が成立し、後醍醐天皇は三種の神器を光明天皇に授ける儀式を行い、これが後の北朝の成立にも繋がります。

建武式目も制定され室町幕府が始まり足利尊氏は征夷大将軍に就任しました。

足利尊氏は恩賞宛行権と守護の補任権だけを残し、残りの全ての権限を足利直義に任せています。

高師直は将軍である尊氏の執事となっており、足利家の執事から幕府の執事になったと言えるでしょう。

室町幕府の初代執事が高師直です。

幕府執事の高師直は執事施行状、執事奉書を発行し仁政方、恩賞頭人、引付頭人で活躍しました。

高師直の思想

当時の武士は恩賞が第一であり、北畠親房の神皇正統記には、次の様に書かれています。

※戎光者・南北朝武将列伝北朝編234頁より

近頃では一度でも戦闘に参加し、あるいは自分の家子郎党が戦死するような事とあれば、自分の戦功は、日本全土を恩賞にもらうのに値する。

全国の半分をもらっても足りない。

これが当時の武士の恩賞に対する見方であり、目上の者達に如何に恩賞をおねだりしたのかが分かる内容でもあります。

武士たちにとって最重要なものは恩賞だったわけです。

そうなると、武家の棟梁とも言える足利尊氏は、どの様に考えていたのかが問題になります。

梅松論には、足利尊氏の恩賞に対する考えとして、次の様に記載されていました。

※梅松論より

足利尊氏「怨敵もよくなだめて本領を安堵せしめ.忠功に励む者に対しては、ことさら莫大な恩賞を授けるべし」

足利尊氏は気前の良い性格としても有名であり、功績を挙げた武士に対しては多くの褒賞を与えようとしたわけです。

戦場においても必要とあれば足利尊氏は部下に恩賞を即座に与えた話しは有名であり、武士の心も理解していたのでしょう。

ただし、足利尊氏は同じ土地を複数の者に与える約束をしてしまった事もあり、何度も問題を引き起こしています。

そうなると、高師直が恩賞に対して、どの様に見ていたのかが問題となるはずです。

太平記に高師直の恩賞に関する考え方が記述されており、鵺退治を行った源頼政が褒美として天皇から美女の菖蒲前を賜わった話を聞きました。

高師直の傍にいた若侍達は「所領に比べたら美女は劣った恩賞だ」と述べますが、高師直は次の様に述べています。

※太平記より

高師直「菖蒲前ほどの美女であれば国の十カ所、所領の二、三十カ所に替えても賜わりたいものだ」

高師直は所領ばかりを欲しがる若侍らを窘めたわけです。

最近の研究では高師直が拝領した恩賞として確認出来るのは、僅か一カ所であり如何に所領に拘らない人だったのかは分かるはずです。

ただし、「破格の恩賞を欲しがる武士」「恩賞の最終決定権を持ち莫大な恩賞を与えようとする足利尊氏」「実務を担当し所領を重視しない高師直」という関係が見えてきます。

この様な関係になると、武士たちの非難の的になるのが高師直になるのは必然だったと言えるでしょう。

高師直は願っただけの恩賞を貰えなかった武士に恨まれる結果となります。

さらに、武士たちへの恩賞が大きくなればなるほど幕府の収入が減る事もあり、高師直が職務に忠実に励めば励むほど恨みを買ってしまうという問題にも発展した事でしょう。

当時の武士への恩賞問題は根深く誰がやっても、上手くいかなかったのではないかとする指摘があります。

高師直と北畠顕家の死闘

北畠顕家の上洛

吉野で南朝を開いた後醍醐天皇は、陸奥将軍府の北畠顕家に上洛を要請しました。

当時の奥州は混乱が拡がっていましたが、北畠顕家は上洛軍を編成し近畿に向かう事になります。

北畠顕家は鎌倉の斯波家長を討ち取り、東進を開始し高重茂や高師兼、上杉憲顕らが追撃しています。

青野原の戦いで土岐頼遠らの奮戦はありましたが、幕府軍は敗れ去りました。

ここで高師泰が攻勢に出る事を主張し、足利尊氏や高師直も賛同しました。

高師泰が総大将となり東進し黒血川で戦おうとしますが、奥州軍の損耗も激しく伊勢路に移動し吉野に向かいます。

分捕切棄の法

北畠顕家は大和の幕府軍を撃破するなどしており、幕府では高師直を総大将として出陣する事になります。

高師直と北畠顕家の間で般若坂の戦いが勃発しますが、幕府軍はこの時に「分捕切棄の法」を実施しました。

従来は敵の首を捕る度に、わざわざ首実検をしたり、合戦が終わるまで持ち続ける必要があったわけです。

首を持ち続けるなど大変な労力ではあり現場の武士は、かなり苦しんだ事でしょう。

分捕切棄の法では敵の首を得ても直ぐに捨てる様に命じました。

首が無くても功績が分かる様に、共に戦う見方に首を示し証人になって貰い功績としたわけです。

この革新的な方法を考えたのが高師直だともされてきました。

ただし、当時の幕府の仕組みを考えれば高師直が考案した可能性もありますが、最終的な許可を出したのは足利直義だったのではないかともされています。

般若坂の戦いでは高師直が勝利しますが、分捕切棄の法の効果が大きかったとも考えられています。

尚、般若坂の戦いで北畠顕家が敗れたのは、役に立たない公家衆などが多く参加したからだとも伝わっています。

桃井直常との確執

般若坂の戦いで高師直は桃井直常、直信の兄弟を足利尊氏に推挙しました。

この時に高師直は自ら足利尊氏の使者となり桃井兄弟の奮起を促したわけです。

高師直の態度に発奮した桃井直常、直信の兄弟は般若坂の戦いで期待した通りの成果を出しました。

しかし、戦いが終わると何故か高師直は桃井兄弟の軍忠を無視し、当然ながら桃井直常、直信は高師直に強い不信感を抱いた事になっています。

この話は太平記にあるのですが、高師直は自分で桃井兄弟に奮起を促し、期待通りの成果を挙げたのにも関わらず、功績を無視するなどのありえない展開となっているわけです。

高師直と桃井兄弟の話は史実ではないのではないかとも考えられています。

結着

般若坂で敗れた北畠顕家は吉野に戻り、義良親王を後醍醐天皇に預け、自らは河内方面に転戦する事になります。

北畠顕家は摂津国の天王寺で幕府軍と戦闘を行い勝利しました。

北畠顕家は弟の北畠顕信を石清水八幡宮に入れ籠城させています。

高師直は北畠顕家の動きに対処する為に、再び出陣し八幡宮を攻撃しています。

八幡宮を封鎖した上で高師直は北畠顕家と天王寺で戦い勝利を得ました。

天王寺での戦いでも分捕切棄の法が採用されており、如何に合理的な手法だったのかが分かるはずです。

さらに、北畠顕家を境浦で討ち取り石津の戦いで勝利しています。

北畠顕家と高師直の戦いは高師直の勝利に終わりました。

石清水八幡宮が炎上

北畠顕信や春日顕国らは一カ月以上も石清水八幡宮を強固に守りますが、高師直は火を放ちました。

これにより石清水八幡宮の社殿が焼失したと伝わっています。

北畠親房の神皇正統記や三条公忠の後愚昧記にも記述されており、当時としてはかなりインパクトがあった出来事だと考えられています。

高師直の放火により石清水八幡宮の多くの神宝が焼失したと伝わっています。

高師直の罰当たりで神仏を恐れない態度が高師直が野蛮な人物だとも考えられている理由にもなっているわけです。

ただし、高師直は一カ月以上掛かっても石清水八幡宮を攻略する事が出来ず、北陸では新田義貞の勢力が増しており、追い詰められた高師直が火を放ったとする説もあります。

太平記でも高師直が放火した理由は危機感からだと記録されています。

北畠顕家の軍も神社仏閣を焼き払った記録があり、高師直だけが避難されるべき事ではないのでしょう。

尚、高師直の放火により石清水八幡宮は陥落し、新田義貞も京都へ侵攻する事が出来ず、結果をみれば高師直が功績を挙げた事になります。

塩冶高貞事件

高師直の悪行を示す逸話の一つに、塩冶高貞の美人の妻を奪い取ろうとした話があります。

太平記では塩冶高貞の妻の美貌に惚れた高師直が兼好法師に依頼して手紙を書き横恋慕しようとした話があります。

高師直は塩冶高貞の妻には相手にされず、入浴中にのぞき見しようとしたりした話が太平記にあります。

しかし、一時資料では突如として塩冶高貞が無断で京都から出奔し問題となります。

幕府では塩冶高貞の動きに対処する為に桃井直常、山名時氏らに追撃を命じました。

塩冶高貞は幕府軍に播磨国影山で追いつかれ自害したと伝わっています。

一時資料を見る限りでは高師直の名前すら出てこないわけであり、高師直とは無関係だったとも考えられています。

尚、塩冶高貞は佐々木道誉の遠い親戚ではありましたが、塩冶高貞は鎌倉幕府の武士でありながら、後醍醐天皇に寝返り、新田義貞の足利尊氏追討軍に加わりながらも、足利尊氏に寝返った人物でもあります。

さらに、塩冶高貞の妻は南朝とも深い関係にあり、塩冶高貞は幕府への忠誠心は薄く、京都を逐電したのも南朝へ寝返る為だったのではないかと考えられています。

塩冶高貞事件と高師直は無関係の可能性も高いとされています。

高師直と足利直義の対立

楠木正成、北畠顕家が幕府との戦いで命を落とし既にこの世になく、新田義貞も越前国の藤島で命を落としました。

後醍醐天皇も1339年に崩御し、幼君の後村上天皇が即位した事で南朝の脅威も激減したわけです。

こうした中で足利直義は高師直の権限を削減して行く事になります。

足利直義の判断としては南朝の脅威が去った今であれば、戦時体制を解除し平時の体制に戻すべきだと考えたのでしょう。

しかし、高師直は執事施行状の発行を続けており、直義に抵抗した形跡があります。

足利直義と高師直は対立状態となりますが、直義は三方制内談方(ないだんがた)を発足させ、メンバーには高師直、上杉朝定、上杉重能が選ばれました。

三方制内談方は足利直義の権力強化が狙いともされていますが、自分の支配機構に高師直を取り込む事で両者の関係が改善されたとも考えられています。

ただし、足利直義が重病に罹った時に、高師直は見舞には行かない様にと指示した文書も残っており、両者の関係が完全に修復されたわけでもないのでしょう。

尚、同時期に高師直も病気になっており、この時に洛中では軍勢が集結し騒動になっており、高師直の影響力の高さが分かる逸話となっています。

足利直義と高師直の和解が進む中で、四条畷の戦いが勃発しました。

四条畷の戦い

高師直と楠木正行の戦いの始まり

楠木正成の遺児である楠木正行が河内で挙兵しました。

楠木正行は中々の戦上手であり、細川顕氏や山名時氏を寡兵で破る活躍を見せます。

幕府は楠木正行を脅威に思ったのか、高師直と高師泰を中心とした討伐軍を編成する事になります。

太平記では高師直と高師泰を合わせると8万もの大軍になったと言います。

南朝の楠木正行の戦力は10分の1以下だったとも考えられていますが、中央突破し高師直の首を取る作戦を考案しました。

高師直は飯盛山にも戦力を配置しましたが、楠木正行は飯盛山の軍勢は四条隆資に任せています。

この時に四条畷に高師直が本陣を置いた事で、四条畷の戦いと呼ばれています。

名将楠木正行

楠木正行は寡兵ではありましたが、高師直の本陣目掛けて突撃を敢行しました。

この時の楠木党の奮戦は凄まじく、後陣こそ佐々木道誉の部隊により壊滅させられましたが、武田信武、細川清氏、仁木頼章、千葉貞胤、細川頼春、今川範国、高師冬、南宗継らを蹴散らしています。

楠木正行はあっという間に高師直の本陣にまで辿り着きました。

高師直は逃げる味方を見て「引き返せ。敵は少数だ。高師直はここにいる。京都に逃げる奴は将軍に合わせる顔もない。運命は天のみぞ知る。名を惜しもうとは思わないのか」と叫んだ事で、一部の兵士は高師直を真剣に守る様になります。

土岐頼遠の弟の土岐周済房は全ての兵士を失い自身も負傷した事で逃げようとしますが、高師直は「日頃は偉そうなのに見苦しい」と述べ、土岐周済房は敵陣の突入し亡くなった話があります。

ただし、土岐周済房は生きていた説もあり、この辺りがあやふやとなっています。

上山六郎左衛門と高師直の鎧

幕府軍は楽勝ムードだったのか、楠木正行に攻め込まれているとは知らずに、上山六郎左衛門が雑談をしに高師直の陣を訪れました。

まさか敵に攻められているとは思いもせず、上山六郎左衛門は驚く事になります。

上山六郎左衛門の目の前に高師直の鎧が置いてあり、急いで着用しようとしました。

周りにいた武士たちは上山六郎左衛門の無礼を咎めますが、この様子を高師直が目撃する事になります。

高師直は「儂の身代わりになろうとしている者に、例え千着万着の鎧を差し上げても何が惜しいのか」と述べ武士たちを睨みつけたわけです。

上山六郎左衛門には「立派になりましたな」と述べており感激させています。

上山六郎左衛門は高師直の身代わりとなって命を落としました。

高師直の人望を現わす逸話が上山六郎左衛門とのやり取りになっています。

尚、楠木正行は上山六郎左衛門を「日本一の剛の者」と高く評価し首を丁重に扱った話があります。

思慮深き高師直

楠木正行の部下である鼻田弥次郎と和田新兵衛が本物の高師直を発見しました。

二人は後退し高師直が追いかけたところを討とうと考えたわけです。

高師冬は敵の挑発に乗り追いかけ50人余りを失いましたが、高師直は動かなかった事から身は無事でした。

太平記では高師直が挑発に乗らなかった事を「思慮深き大将」として讃えています。

楠木正行の最後

楠木正行は高師直の本陣にまで到達しましたが、討つ事は出来ず兵力の差から戦闘不能となります。

最期を悟った楠木正行は弟の楠木正時と共に自害しました。

楠木軍の和田新発意は幕府軍に潜入し高師直を討とうと企てています。

しかし、和田を知っていた湯浅本宮太郎左衛門により正体がバレて、和田は討たれました。

尚、湯浅の正体をばらした湯浅も和田の怨霊により数日後に亡くなった話が残っています。

四条畷の戦いは1日で終わりましたが、両軍合わせて見せ場が多く日本史に残る激闘の一日となったわけです。

吉野炎上

四条畷の戦いが終わると、高師泰は河内国石川河原で向城を設営しました。

楠木氏の本拠地であり赤坂城や千早城の入り口とも呼べる場所でもあります。

この時に高師直の軍が聖徳太子像を破壊し砂金を奪い太子廟を焼き払った話が園太暦にあります。

高師直は軍を率いて南朝の本拠地である吉野に向けて進軍しています。

後村上天皇ら南朝の首脳部は吉野を放棄し、奥地の賀名生に避難しました。

この時に高師直は吉野に入ると南朝の施設を焼き払ってしまったわけです。

吉野は聖地でもあり、さらに南朝の天皇がいた場所にも関わらず、火を放った高師直にも批判が大きかったとも考えられています。

敵対勢力ではありましたが、天皇の住居を焼くなど当時の人からしてみれば衝撃が走ったともされています。

吉野を焼き討ちにする辺りも高師直が無法者扱いされる理由でもあるはずです。

高師直の絶頂期

高師直は四条畷の戦いで勝利して絶頂期を迎えました。

一条今出川の豪邸を住居とし、京都の皇族や貴族の女性を多く愛人にした事でも知られています。

元関白の二条兼基の娘と高師直との間に高師夏も誕生しました。

高師直は実力で富と名声を手に入れ高貴な女性と楽しむ姿を「素行が悪い」と感じた人も多いはずです。

しかし、高師直は豪勢な家に住み女性を侍らかしただけであり、法律に触れる様な事はしてはいないとする指摘もあります。

実際に当時の出世した武士は似た様な事をしており、高師直としては男の夢をかなえた程度のものだったのかも知れません。

大炊御門冬信が高師夏の母親に恋文をを贈った為に、激怒した高師直が部下に放火を行わせた話もありますが、一時資料では確認を取る事が出来ない状態です。

妙吉の讒言

畠山直宗や上杉重能らが高師直や高師泰の素行の悪さを讒言した話があります。

ただし、畠山直宗や上杉重能らの讒言の内容は不明であり、本当に高師直への讒言があったのかは不明です。

高僧であった妙吉は多くの人々から尊敬を集めていましたが、高師直や高師泰だけは敬意を示さなかった話があります。

妙吉は高師直らを嫌い反高師直派と結託し、次の様に讒言をしたと伝わっています。

※吉川弘文館・高師直(亀田俊和)140頁(kindle)より引用

1・恩賞として拝領した所領の規模が小さいと文句を言って来た武士に対して、周辺の寺社本所領を押領することを推奨した。

2・罪を犯したために所領を没収され、コネを使って接近して来た人に対して「高師直はしらんぷりをしよう。例え如何なる高貴な人の命令だったとしても、それを無視して今までの所領を知行しろ」と不正な裁定を下した。

3・どうしてもこの国に天皇が存在しなくてはならないのであれば、木か金で天皇の人形を作り、生身の上皇や天皇は遠くに流してしまえ」と放言した。

高師直の豪邸を建てたり女性を集めて遊ぶなどは個人的な行為であり違法とは言えませんが、秩序を乱す様な事は看過しがたい事でもあったはずです。

ただし、これらの事が本当なのか妙吉が事実をねじ負けて報告したのかは分からない部分でもあります。

亀田俊和氏は「妙吉の讒言こそ師直悪玉史観の核心を形成する逸話」とも述べています。

高師直暗殺計画

太平記に足利直義による高師直暗殺計画があった事が記録されています。

直義の高師直暗殺計画に上杉重能、畠山直宗、大高重成、粟飯原清胤、斎藤季基なども加わり高師直、高師泰らを排除しようとした話があります。

直義は武勇に優れた大高重成と宍戸朝重が高師直兄弟を直接討つ事にしました。

大高重成は高師直の一族ではありますが、直義派閥に属しました。

さらに、100人以上の武士を配置した上で、高師直を直義邸に呼び寄せています。

高師直は直義邸に出向き命は風前の灯となりますが、何故かここで粟飯原清胤が変心し高師直に目配せをした事で、高師直は危険を察知し自宅に戻りました。

粟飯原清胤と斎藤季基は高師直邸に赴き暗殺計画の内容を暴露し、高師直は二人に手厚い物品を授け二重スパイとしています。

この話ですが一時資料の園太暦に直義邸の近辺で騒動が起こり、直義が近隣の住宅を差し押さえたり破壊し信頼できる部下を配置したとあります。

大高重成や粟飯原清胤らの住居も差し押さえされ、大高重成は吉良満義の邸宅に転居しました。

高師直暗殺計画が本当にあったのかは不明ですが、足利直義と高師直の対立により足利直義が自宅回りを固めるなどの手を打った事だけは間違いないのでしょう。

さらに、この時期に天変地異が多く発生し政変を予感させる出来事がありました。

高師直の執事罷免

幕府内で不穏な空気が流れる中で高師直が執事を解任され、高師世が後任の執事に選任されました。

直義は当初は高師泰を執事に任命する予定でしたが、高師泰が断った事で高師世が執事となっています。

高師直の執事解任理由ですが、足利直義が兄の足利尊氏に働きかけたとするのが妥当でしょう。

高師直が解任された直後の執事施行状を直義が発行していた事も分かっており、高師世の存在はお飾りだったわけです。

高師直の執事施行状を奪い足利直義が取り込む事で、足利直義の勝利が確定したかに思えました。

しかし、高師直は当然ながら大きな不満を抱いていたわけです。

高師直が尊氏邸を包囲

高師直が執事を解任された頃に、高師泰は楠木氏の鎮圧をしていました。

しかし、高師直が危険な状態だと知ると、石川城を畠山国清に任せ自らは大軍を率いて京都に向かう事になります。

武装した兵士が京都に入り、高師泰は高師直の一条今出川邸に向かいました。

さらに、播磨の赤松円心や赤松則祐、赤松氏範らが武装した兵士と共に高師直の味方をする為に京都に集結したわけです。

赤松軍は長門探題の足利直冬の直義救援を阻害する為に播磨に戻りました。

高師直が大軍が大軍を集結させたのに対し、足利直義は寡兵しか集める事が出来ず、足利尊氏の将軍御所に逃げ込む事になります。

征夷大将軍の足利尊氏は須賀清秀を使者とし、直義の出家による政務の引退と上杉重能、畠山直宗の流罪にする事で決着しました。

室町幕府の足利直義のポジションには鎌倉にいた足利義詮が就任する事になります。

短期間で兵を集結させ将軍御所を囲んだ事で高師直の要求の大半が通ったわけです。

尚、大軍で将軍御所を囲み要求を通す行動を御所巻と呼ばれ、室町時代ではこれからも何度か見受けられる事になります。

因みに、高師直の御所巻の裏には足利尊氏がいたとする話もあります。

足利直義には子がいませんでしたが、如意丸が誕生し我が子に位を継がせたいと考え、尊氏は義詮に継がせたいと考えたとする説です。

高師直の絶頂期

高師直と足利直義は表面上は和解しました。

しかし、高師直は直義派を圧迫し続ける事になります。

足利直義の養子で長門探題になっていた足利直冬も長門探題を解任され九州に落ち延びる事になります。

鎌倉から足利義詮も上洛し直義のいたポジションに就きました。

ここで高師直は足利義詮の最大の支持者となり、足利尊氏の後継者になれる様に強力な後押しをする事になります。

この頃が高師直の全盛期と言ってもよいでしょう。

尚、足利義詮が鎌倉を出た事で、尊氏のもう一人の子である基氏が鎌倉に下向しました。

足利基氏が初代鎌倉公方となります。

足利直冬討伐

足利直冬は長門探題を解任され帰京する様に命じられますが、九州に落ち延び再起を目指しました。

足利直冬は少弐頼尚の助けもあり一色道猷を破り短期間で勢力を拡大する事になります。

足利尊氏は高師直は九州の諸将に直冬を捕える様に命じますが、一向に効き目がなく高師泰の九州遠征が決定しました。

高師泰は九州征伐の前に石見国の三隅兼連を討伐しようとしますが、岩田胤時の攻撃もあり敗退しています。

高師泰は九州に到達する事さえも出来なかったわけです。

足利義詮と高師直の美濃遠征

美濃国で土岐周済なる人物が反乱を起こしました。

四条畷の戦いで討死したとされる土岐周済房と同一人物説があります。

美濃遠征で総大将となったのが足利義詮であり高師直が補佐する事になります。

足利義詮は幼き日に新田義貞の補佐の元で鎌倉攻めの総大将になっていますが、あくまでも名目であり、美濃遠征が初陣だと言ってもよいでしょう。

足利尊氏としては息子で後継者として期待している義詮の補佐として、戦上手の高師直を選んだのでしょう。

足利義詮を総大将とする美濃攻めの軍は土岐周済を捕虜とし凱旋しました。

ただし、これが名将と呼ばれた高師直が明確に勝利した最後の戦いとなります。

直義の出奔

高師直は美濃国征伐でも功績がありましたが、こうしている間にも九州では足利直冬が勢力を強めています。

太平記では高師直が足利直冬を討つ様に、足利尊氏に力説し直冬討伐が決定されました。

足利尊氏は高師直と共に出陣しますが、足利尊氏は室町幕府を開いてから10年以上も戦場に出てはおらず、久しぶりに出陣となりました。

尚、尊氏が重い腰を上げたのは、九州の直冬がそれだけ脅威だったのではないかと考えられています。

足利尊氏と高師直は出陣を決めますが、この直前で足利直義が京都から姿を消しました。

直義の出奔を聞いた高師直派閥の人々は出陣を取り消し、直義の行方を探す様に進言しています。

しかし、高師直は次の様に述べて了承しませんでした。

※吉川弘文館・高師直(亀田俊和)158頁(kindle)より引用

高師直「大げさすぎる。たとえ吉野。十津川の奥地あるいは鬼界島や高麗のかなたへ落ちようとも、この高師直がいる限り誰も彼に味方しないだろう。

三日もすれば首を獄門の木に晒すに違いない」

太平記では高師直が足利直義を甘く見て普通に直冬討伐に尊氏と共に出掛けた事になっています。

ただし、園太暦では高師直が出陣の延期を主張しますが、尊氏が拒否した話があります。

足利直義が出奔し姿を消したにも関わらず、直冬討伐に出陣してしまったのが高師直と足利尊氏にとって致命的なミスとなります。

足利直義の脅威

足利直義は越智伊賀守を頼り大和で高師直、高師泰打倒の為の軍勢催促状を発行しました。

これにより畠山国清が呼応し直義を迎え入れる事になります。

さらに、足利直義は南朝とも交渉しています。

この時に後村上天皇や北畠親房など多くの者達の間で激論が繰り広げられたと考えられていますが、南朝では足利直義の降伏を認めたわけです。

足利直義の高師直打倒宣言に石塔頼房、細川顕氏、桃井直常らが呼応し京都を目指し進軍する事になります。

足利直義は足利尊氏に高師直及び高師泰の身柄を引き渡す様に要求しました。

足利直義は尊氏とは敵対していますが、本来の目的は高師直の排除であり足利尊氏に危害を加えるつもりはなかったはずです。

太平記の高師直は「足利直義など眼中にない」と言わんばかりの振る舞いでしたが、直義は短期間で大勢力となり危機に瀕す事になります。

足利義詮は京都を直義派の桃井直常に明渡しました。

足利尊氏は京都に引き返し佐々木道誉、足利義詮と共に桃井直常の軍と戦闘が行われ尊氏軍が勝利し、桃井直常は関山に軍を引きました。

太平記によると足利尊氏は勝利したにも関わらず、直義に投降する将兵が大量に出た話があります。

斯波高経や千葉氏胤なども直義に味方しました。

尚、この時に関東には高師冬がおり一度は足利基氏を連れて鎌倉を出ますが、直義派の上杉憲顕に敗れ甲斐に落ち延び命を落としています。

上杉憲顕の活躍により関東では直義派の勝利が確定しました。

苦戦する高師直

高師冬の戦死により窮地に追い込まれた高師直が最大の頼りとしたのは、高師泰だったはずです。

播磨にいた高師直は石見国の高師泰に伝令を送り自軍に合流する様に伝えました。

高師直と高師泰の合流を阻止する為に、直義派の上杉朝定が高師泰と戦いますが、敗れています。

上杉朝定自身が重傷を負うなどの大敗を喫しました。

高師直の軍に高師泰と高師夏が加わり勢いが付きますが、それでも播磨の光明寺滝野城を落せず苦戦しています。

さらに、陸奥では奥州探題二人制により直義に近しい吉良定家と高師直に近い畠山国氏の体制でしたが、高師直派の畠山国氏が戦死しました。

各地で直義派に押され高師直は一歩間違えれば崩壊すると言う状況にまで追いやられています。

打出浜の戦い

尊氏軍は光明寺滝野城を落せず、直義派の畠山国清、上杉能憲、小笠原政長らの大軍が救援に来た事で尊氏は兵を引きました。

尊氏の軍勢は摂津国兵庫に移動し、ここにおいて運命の打出浜の戦いが勃発する事になります。

太平記には打出浜の戦いの前夜に高師夏と河津氏明が同じ夢を見た話が収録されています。

夢の中で高師直の大軍が寡兵の直義の軍と戦闘を行っていたら、突如として聖徳太子や蘇我馬子の軍が現れ弓矢を放ちました。

聖徳太子の軍が放った矢は高師直、高師泰、高師夏、高師世の眉間に命中し落馬した所で夢から覚めた事になっています。

この話は史実とは言い難く想像だと考えられますが、打出浜の戦いでの高師直の敗戦を予感させる内容となっています。

打出浜の戦いは、かなりの激戦であり「稀代の大合戦」とされていますが、高師直が股を負傷し高師泰が頭と胸を負傷した事で勝負が決しました。

この瞬間に観応の擾乱の高師直と足利直義の戦いは、足利直義の勝利で決着がついたわけです。

高師直の最後

足利尊氏や高師直らは切腹する準備を始めた話もありますが、饗場命鶴丸を八幡にいる直義の元に派遣しました。

元々足利直義は足利尊氏に危害を加えるつもりが無かった事で、高師直や高師泰の出家を条件に和睦が成立する事になります。

ここで高師直配下の薬師寺公義が徹底抗戦を主張しますが、既に負傷した高師直に戦意は無く出家が決まりました。

出家した高師直の法名は「道常」となり、高師泰は「道昭」となります。

足利尊氏は京都に戻る事になり、高師直兄弟は三里ほど後を歩き京都に向かいました。

過去には、幕府の執事として征夷大将軍の近くにいた高師直の凋落ぶりが知れ渡る内容でもあります。

高師直の一行が鷲林寺の前を通りかかった時に、500騎ほどの武士らが襲い掛かり上杉重季により討ち取られました。

上杉重季は父親である上杉重能の仇を討つために、高師直を殺害したと考えられています。

太平記の29巻によれば高師直を討ったのは三浦八郎左衛門であり、高師泰を討ったのが吉江小四郎だったと記載されています。

高師直が討たれた正確な場所は不明ですが、現在の兵庫県伊丹市には高師直の冥福を祈る為に建てられた師直塚があります。

連座して一族の高師夏らも討たれ高師直の一族の没落は確実となりました。

ただし、高師直の一族が全て滅んだわけではなく、生き残った者達も存在しています。

高師直の首は真如寺に送られ葬儀が行われました。

尚、高師直の死後に室町幕府の中で執事という役職は消滅しています。

高師直の動画

高師直のゆっくり解説動画となっております。

この記事及び動画は亀田俊和氏の「高師直」及び戎光祥出版の「南北朝武将列伝」などをベースに作成しました。

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宮下悠史

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