君王后は斉の襄王の后となり、斉王建の母親でもあります。
ただし、君王后というのは本名ではないでしょう。
斉の湣王が楽毅率いる合従軍に敗れ斉が壊滅状態になった時に、君王后は斉の襄王を助けました。
後に田単により斉が復興されると、斉の襄王が斉王となり君王后を后としています。
斉王建が即位すると、年が若かった事もあり君王后が変わりに政治を行いました。
史記の田敬仲完世家には君王后は賢明で、秦王(始皇帝)によく仕えて信用があったと記載されています。
今回は田斉最後のヒロインとも言える君王后の解説をします。
法章を匿う
燕の昭王は父親の燕王噲を斉に討たれており、斉に対し深く恨んでいました。
燕の昭王は国を整備し他国と連合を組み楽毅により、斉は壊滅状態となり斉の湣王も討たれました。
斉の湣王が楚の淖歯に討たれると子の法章は民間に隠れ、莒の太史敫に雇われの身となります。
太史敫は法章を見ても斉の王子だとも感じなかった様であり、太史敫の身分は王などに拝謁できるような存在ではなく、単なる庶民だったのかも知れません。
この太史敫の娘が君王后であり、法章を見て「常人ではない」と判断しました。
法章の気品がそうさせたのか、肌の艶などで判断したのかは不明ですが、君王后は法章から何かしらを感じ取ったのでしょう。
史記によると君王后は法章を憐れみ衣食を提供したりし、さらには男女の関係になったと言います。
莒には湣王亡き後に、楚の淖歯が治めていましたが、王孫賈が斉の湣王の仇討ちに動き淖歯を殺害しました。
王孫賈らは斉王の子孫を探しますが、法章は警戒したのか中々名乗り出なかったわけです。
しかし、結局は「自分が斉の湣王の子だ」と法章は述べました。
これにより法章は斉の襄王となり、君王后は妃となったわけです。
斉の襄王は君王后への恩を忘れてはいませんでした。
楽毅が燕の恵王により更迭されると、代わりに将軍として騎劫が任命されますが、田単に大敗し斉は元の領地を取り戻す事になります。
これにより斉の襄王は臨淄に移り、君王后も斉の首都である臨淄で暮らす事になったのでしょう。
父親に勘当される
君王后は無事に斉王の妃となり、斉王建を生む事になります。
これまでを見ると、君王后は庶民から王后にまでなったサクセスストーリーだと感じるのかも知れません。
しかし、父親の太史敫が君王后を「仲人を用いないで自分で嫁いだ」と問題視しました。
当時の斉の価値観では君王后が斉の襄王と勝手に男女の関係となった事が問題であり、太史敫は「汚された」と感じたわけです。
太史敫は君王后に生涯に渡って会わなかったと言います。
君王后は会わなくても父親に対する礼は失わなかったと伝わっています。
君王后が賢明だとされる理由は、父親に対して孝の精神を失わなかった事が大きい様に感じました。
摂政となる
斉の襄王が亡くなると、斉王建が斉王として即位しました。
戦国策によると、斉王建がまだ年が若かった事もあり君王后が摂政となり国政に行う様になります。
戦国策によると君王后は、秦に仕えては恭謹であり、諸侯とも信義を以って交わったと記載されています。
ただし、斉は他国の戦争に介入したり、秦の統一戦争において他国に援軍を出してはおらず、何を以って「諸侯の信義」とするのかはイマイチ不明です。
君王后は連衡を行っており、秦にとって都合のよい存在であった事から、よく書いてくれたのかも知れません。
これにより斉は40年間に渡って侵攻を受けなかったと記録されています。
ただし、春申君が主導する合従軍が函谷関の戦いで敗れた後に、斉を攻撃した話があり1回も戦争が起きなかったわけではなかったはずです。
それでも、君王后は「秦に仕えた」とする記述もあり、連衡を国策としていた事は明らかでしょう。
これにより秦は戦国七雄の残りの国を侵食し、斉は諸侯を助けませんでした。
君王后は賢明だとは言われていますが、国を滅ぼす方向に舵を切っていた様に感じています。
玉連環
戦国策の斉策に秦の始皇帝が使者を派遣し、君王后に玉連環を贈った事がありました。
玉連環は現在でいう知恵の輪みたいなものであり、始皇帝は次の様に述べたと言います。
斉には知恵者が多くいると聞いているが、この玉連環が解ける者がいますでしょうか。
君王后は玉連環を群臣に見せますが、解く事が出来たものは誰もいませんでした。
こうした状況の中で君王后が玉連環を破壊してしまい、次の様に述べました。
※戦国策より
君王后「謹んで解く事が出来ました」
君王后の話はアレキサンダー大王の「ゴルディオスの結び目」と話の内容がほぼ同じであり、君王后の有能さを表す逸話となっています。
ただし、君王后が亡くなったのは紀元前249年であり、秦王政(始皇帝)が即位する前です。
その為、戦国策にある始皇帝が斉に使者を派遣したとするのは間違いであり、秦の昭王、秦の孝文王、秦の荘襄王のどれかが正しいとされています。
君王后の玉連環の話が何年なのか記載もなく三王の誰なのかも不明です。
君王后の最後
戦国策では玉連環の話の後に、君王后の最後の逸話に続く事になります。
君王后は病気となり、亡くなる時に次の様に述べました。
※戦国策 斉策より
君王后「群臣の中で用いるべきは、(何某)である
ここで斉王建は「書き取らせて下さい」と述べました。
君王后は了承し、斉王建が書くものを用意すると、君王后は次の様に述べたわけです。
君王后「老いぼれゆえに忘れてしまいました」
君王后は斉王建に用いるべき人物を伝えず世を去る事になります。
君王后は斉王建の書かねば群臣の顔も分からない所に愚鈍さを感じ、国はどちらにしろ滅びると感じたのかも知れません。
君王后が亡くなると、一族の后勝が宰相となりますが、后勝は間者の使い方を誤り国を滅ぼす事になります。
尚、後年に秦の子嬰が胡亥を諫める言葉の中に「斉王は先代の忠臣を殺害し后勝を用い国を滅ぼした」と述べており、君王后が言おうとした人物を后勝が殺害した様にも感じました。