周泰の三国志の史実の実績を中心に紹介します。
周泰と言えば、劉備における趙雲、曹操における許著や典韋のようなイメージがないでしょうか?
実際に、周泰は傷だらけになりながらも、孫権を救ったりしているため、そのようなイメージがあるのではないかと思います。
羅貫中が書いた三国志演義の記述であれば、江賊という海賊と山賊の中間の様な事をしていましたが、蒋欽と共に孫策陣営にはせ参じた事になっています。
その後、孫権が襲われた時の活躍は、史実と大体同じです。
赤壁の戦いにおいては、緒戦で韓当と協力して張南を斬るなどの活躍をしています。
さらに、呉の文官筆頭である張昭から、劉備と孫夫人の追撃の任務を受けたりした事もありました。
濡須口の戦いでは、魏の張遼、徐晃に攻撃されてピンチになった、孫権をまたもや傷だらけになりながらも救出しています。
さらに、この時は乱戦の中にいる徐盛も救出に成功しています。
関羽の復讐戦として劉備が呉に攻めて来た夷陵の戦いにおいては、陸遜を侮るなどの発言もありますが、これは史実ではありません。
尚、夷陵の戦いで病気にも関わらず甘寧は出陣して、蛮王沙摩柯に討ち取られていますが、仇を討ったのが周泰です。
しかし、これも正史三国志には記述がなく、三国志演義だけの話しだと思われます。
周泰は三国志演義では韓当とコンビを組み文聘、許褚、焦触らを追い詰めていますが、これらは創作だと言えるはずです。
今回は、史実の周泰の傷だらけの活躍を紹介します。
尚、上の画像は横山光輝氏の漫画三国志の周泰で、中々のイケメンでカッコいい感じで描かれています。
周泰は正史三国志では下記の人物と共に程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝に収録されています。
孫策の側近となる
周泰は、三国志演義では、江賊をやっていたとされていますが、正史三国志を見ると江賊をやっていたという記述はどこにもありません。
九江郡の下蔡の人物で蒋欽と共に配下となり、側近となったと記述があるわけです。
ただし、後の孫権の言葉で「寒家」という言葉が、周泰に対して出る事から、家は名門(名士)ではなく、どちらかと言えば貧乏だったのではないかと思われます。
孫策の父親である孫堅が、黄祖との戦いで急死してしまうと、孫家は勢いを無くしてしまいます。
孫策は、袁術の配下となっていますが、後に江東の地で独立を目指す事になります。
その過程で配下になったのが、周泰や蒋欽だったのでしょう。
孫策は、人材を集めるのを好んだようで、この時期に江東の二張と呼ばれた張昭や張紘も配下になっていますし、陳武、凌操(淩統の父)なども武将として配下に加わっています。
孫堅時代の、程普や韓当などの武将や新たに配下となった周泰などの活躍により、劉繇を破るなど大きく領土を広げています。
この時期の孫策は、新規の武将であっても活躍の場は多かったようで、周泰も功績があったと書かれています。
尚、武人としての周泰を非常に注目したのが、孫策の弟である孫権です。
孫権は、周泰を自分の直属の部下にしたいと言い、孫策に許されています。
孫権の命を救うが傷だらけの重症となる
孫策は江東を平定していくわけですが、山越の中には服従しない民族もいました。
それらを討伐する事になり、孫権も出陣しています。
宣城にいた時なのですが、敵が少数だと思い孫権も油断して、防備を固めずにいた時があったわけです。
完全に孫権が油断していて、部下も防御柵も作っていなかったようなので、敵が攻めてこないと腹をくくっていたのでしょう。
油断している時に、山越の数千人の兵士が孫権を急襲して来る事になります。
この時の、孫権は逃げようとしますが、馬の鞍を山越の兵士に斬られたとする記述があるので、命の危険があった事は間違いありません。
孫権の側近の兵士たちも混乱してしまい、上手く統率が取れない状態だったわけです。
そこに周泰が駆けつけると、敵をなぎ倒して、孫権を守っています。
この時の周泰の奮戦ぶりは凄まじかったようで、「大胆さは人の倍あった」と陳寿(正史三国志の著者)は記しています。
周泰の活躍もあり側近たちも冷静さを取り戻し、山越賊を追い払う事に成功しています。
この時に、周泰は12カ所も傷を負い、意識不明の重体となってしまいます。
しかし、回復も早かったのか周泰は回復するわけです。
三国志演義だと周泰の傷を治したのは、華佗という名医だった事になっていますが、正史三国志には、その様な記述はありません。
尚、孫策や孫権の父親である孫堅も怪我をしていますが、回復も早いイメージがあります。
猛将と言われてる人たちの特徴として、身体が丈夫なだけではなく回復も早いと言うのがあるのでしょう。
孫策は、周泰に大そう感謝して功績として、春穀県の長官に任命しています。
孫策は袁術の元で手柄を立てたりもしましたが、袁術は孫策を危険視していて約束を反故にしたり、功績を認める事はありませんでした。
そういう事情があった事から、孫策自身は、手柄を挙げた武将であれば家柄に関係なく褒美を与えたい気持ちもあったのでしょう。
江夏討伐に従う
孫策は快進撃を続けて江東の各地を平定して行きます。
さらに、呉郡太守の許貢や会稽太守の王朗などを破り着実に勢力範囲を広げています。
太史慈も降伏させていますし、孫策は小覇王と呼ばれて畏怖されるまでになっていました。
袁術に対してですが友好関係を維持するために、孫策は叔父の呉景と従兄の孫賁の軍を返しています。
丹陽も孫策の勢力範囲でしたが、孫策を危険視した袁術は一族の袁胤を送り込みますが、孫策は力づくで袁胤を追い払っています。
ここにおいて、孫策と袁術は完全に決裂したわけです。
後に、袁術は曹操に敗れ弱体化し、袁紹に皇位を譲る事で合流しようとしますが、その道中で血を吐いて亡くなっています。
孫策の方は、長江や淮河で勢力を広げていた劉勲を討つ事になります。
劉勲は劉表配下で江夏太守である黄祖に援軍を求めると、黄祖の息子である黄射が助けに来ています。
しかし、孫策は劉勲を破り、援軍の黄射は逃亡しました。
沙羨の戦いで、どのような活躍があったのかは不明ですが、周泰も活躍して豫章の宜春県の長官に任命される事になりました。
これを見ると、活躍の内容は伝わっていませんが、江夏討伐においても周泰は功績を挙げた事は間違いないでしょう。
尚、孫策の江夏討伐は西暦199年です。
翌年に曹操と袁紹の間で、官渡の戦いが行われていますが、孫策は暗殺されてしまいました。
孫策の弟の孫権が後を継ぎますが、周泰は引き続き重用されています。
赤壁の戦いでも活躍
曹操は官渡の戦いで袁紹を破り、内部分裂した袁譚や袁尚の勢力を撃破して北を安定させます。
荊州を長年治めていた劉表が亡くなると、荊州を配下に治めるべく南下を始めたわけです。
荊州にいた劉備は、孫権を頼っています。
孫権と曹操の間に赤壁の戦いが起きますが、魯粛や周瑜の活躍があり呉は大勝しています。
赤壁の戦いでも、周泰は参戦しているようで功績を挙げたと書かれています。
さらに、周瑜は荊州の江陵を攻めて、曹操配下の曹仁と戦っているわけです。
1年以上が経過しましたが、曹仁が撤退する事で呉は江陵を手に入れています。
ここでも、周泰は活躍したようです。
正史三国志には、周瑜や程普らと共に曹操軍を撃退したと記録が残っています。
ただし、活躍の内容は相変わらず不明です。
しかし、後に濡須の督に任命されている事から、功績は大きかったはずです。
濡須の督と周泰の傷
濡須の督になり周泰は、呉ではかなり出世したわけです。
しかし、周泰は寒家の出身であった為か、配下となった徐盛や朱然に軽んじられていたようです。
この話が孫権の耳に入ると、孫権はわざわざ濡須まで出かけていきます。
盛大な酒宴を開くと、自分で配下の武将たちに酌をしていきました。
周泰の前まで来ると、上着を脱ぐ様に言い、周泰の体中の傷を見て、その傷について問い、周泰一つ一つ答えています。
さらに、翌日には自分の着物を周泰に与えています。
これを知った徐盛や朱然は、周泰を軽んじる事が無くなったとされているわけです。
正史三国志の話しも、いい話だとは思いますが、江表伝はさらに感動的に仕上がっています。
江表伝のやり取りの方が感動的に作られている
孫権は、周泰を見ると涙を流して次のように言ったとされています。
「幼平(周剤の字)どのは、私と兄の為に傷だらけになりながらも奮戦してくれた。虎や熊のように勇敢に戦い、数十カ所も傷を負いながらも戦い抜いてくれた。
あなた(周泰)は、肉親同様の待遇を行い、兵馬を指揮する重要な任務を与えずにはいられない。
あなたは、呉にとっては功臣であり、あなたと栄辱を共にし、喜びや悲しみも共有したいと思っているほどだ。
あなたが思っているように、やってくれれば何も問題はない。寒家の出たからと遠慮する必要はない」
この様に言い、自らの衣服や被り物を周泰に与えています。
宴会が終ると、孫権はその場に留まって周泰を見送り、歩兵や騎兵の行列を作り帰途に就かせて軍楽を鳴らしたとされています。
孫権は周泰の事をかなり気にかけている事も分かりますし、孫権もいい奴だな~と感じたりするわけです。
孫権と言うと、蜀から伊籍が使者で来ると変な態度を取ってみたり、鄧芝が来た時も無礼な態度を取っています。
しかし、諸葛瑾などに対する行為や周泰に対する、こうした気配りは非常に良く出来ていますし、問題行動もありますが、素晴らしい行動もあると言う事が分かります。
周泰は夷陵の戦いには参加しなかったのか?
その後の周泰ですが、荊州にいた関羽を破ると孫権は蜀の攻略を考えて、周泰を漢中の太守に任命しています。
さらに、奮威将軍に任命し、陸陽侯に封じられているわけです。
呂蒙の策に従った、関羽征伐においても活躍したのかも知れません。
ただし、漢中は劉備が所有していましたので、名前だけの役職だったと言えるでしょう。
夷陵の戦いにも、三国志演義では出陣した事になっていますが、史実にはありません。
三国志演義では、周泰は古参の武将として、若造である陸遜を侮る様なセリフもありますが、史実とは言えないでしょう。
陸遜は、孫策の娘の婿でありますし豪族の出身です。
それに比べて周泰は賎家の出身で、濡須の督になった時は、徐盛や朱然に侮られています。
その周泰が陸遜を侮るようには、とても思えないわけです。
実際の周泰は、夷陵の戦いに参戦したのかも不明です。
個人的には、夷陵の戦いには周泰はいなかったのではないか?とも思えます。
ただし、三国志演義においては、武陵蛮の王である沙摩柯を周泰が討ち取っています。
正史三国志でも、沙摩柯は夷陵の戦いで戦死した事になっていますが、周泰が討ち取ったとする記録はありません。
周泰の最後
周泰の最後ですが、黄武年間に死去したとあります。
西暦222年から西暦229年の間と言う事になりますが、はっきりとしません。
死因についても特に書かれていませんが、書かれていないと言う事は、戦場で討ち取られたと言う事はないようです。
当時の中国に畳があったのかは分かりませんが、最後は畳の上だったのではないかと思います。
周泰の体は傷だらけであり、古傷が痛んだりして、死ぬ直前はかなり痛みに苦しんだ可能性もあるでしょう。
それか、古傷が悪化したりして、死亡した可能性もあるかなと考えています。
正史三国志を見る限りでは、特に失敗もしていませんし、周泰は孫呉の為に尽くした忠臣と言えるでしょう。
周泰の子孫
周泰が死亡すると、周邵(周泰の子)が後を継ぎ騎都尉になったとされています。
曹仁が濡須に攻めてくると、朱然の元で功績を挙げたとあります。
さらに、228年に行われた魏の司馬懿と曹休の2方面から呉に進軍する作戦では、曹休を破るのに功績を挙げたようです。
陸遜の配下として活躍した事も十分に考えられます。
しかし、周邵は230年に死去したとあります。
それを考えれば、周泰が死んでから数年後に周邵も死んだ事になります。
周邵の弟の周承が後を継いだようですが、その後がどうなったのか分かっていません。
もしかしてですが、孫晧の時代まで生き、呉の滅亡まで見た可能性もあるでしょう。
周泰の怪我が多いのは問題
周泰の体は傷だらけだったとされていますが、それを考えると命を惜しまずに突っ込んでいくタイプだった事は明白でしょう。
孫権の言葉で、「数十の傷」という言葉を信じれば、宣城の戦い以後も傷だらけになりながらも奮戦した事が分かるはずです。
これらの傷は、武勲の証とも取れるわけですが、やはり戦場で傷を負うのは問題とも考えられます。
ここから先は、私の想像になりますが、周泰が濡須の督に任命されたようですが、歴史を見ると、その後すぐに朱然に督が変わっているわけです。
この時に、周泰は20年は孫呉の為に戦い続けて、傷だらけになっている事になります。
年齢による衰えからなのか、濡須のような最前線の激戦地で周泰を置いとくのは、危ないと孫権も考えたのかも知れません。
古傷が痛んだりすると、采配を上手く振るう事も出来ませんし、敵を倒すのも難しくなるわけです。
関羽や張飛などの猛将と呼ばれる人たちに共通する事ですが、晩年は体がかなり辛かったのではないかと想像します。
そのための行動が周泰に引退してもらい、朱然を濡須の督にし騎都尉に周邵(周泰の子)を任命する行動だったのではないかと思います。
自分の事でもありますが、年齢が経つに連れて体力の衰えは感じます。
さらに、筋肉痛が2,3日後に来たりしますし、疲れが若い時に比べると抜けないというのも感じてくるわけです。
自分も含めて年齢には勝てないと言う事なのでしょう。
猛将であった周泰にも同じ事が言えるかな?とも感じました。
周泰と孫権の面白エピソード(おまけ)
これは、史実には無いおまけの記事なのですが、三国志演義にはあるお話です。
濡須や合肥などで孫権は度々、魏の軍勢と戦果を交えています。
孫権は自ら指揮を執り魏と対峙するわけですが、乱戦の中、張遼や徐晃の軍勢に囲まれてしまい窮地に陥ってしまいます。
孫権絶体絶命のピンチに登場したのが周泰です。
周泰は、孫権の前に立ち乱戦を抜け出したかと思いましたが、後ろを見ると孫権がいません。
慌てて周泰は孫権を迎えに行くわけですが、孫権は「矢石に狙い撃ちされるから、危なくて出る事が出来ない」と言います。
すると、周泰は何を思ったのか次のように言ったとされています。
「後詰は自分がしますから、殿(孫権)は前を行ってください。この様にすれば切り抜ける事は出来ます」
このように言ったとされています。
つまり、周泰は怖がっている孫権を前面に出して前を進んだわけです。
しかし、何故か包囲を切り抜ける事に成功しました。
すると、周泰は乱戦の中で孤立してしまった徐盛がいない事に気が付きます。
またもや乱戦の中に飛び込み徐盛を救出したわけです。
このように孫権のピンチの時に、いい感じで現れるのが周泰なのです。
この話は史実ではないようなので、そこが残念ですが、傷は男の勲章だと言うのを実現した人でもあるのでしょう。
ちなみに、周瑜配下で江陵を攻めていた時に、守っている曹仁は部下の牛金が敵に囲まれてしまうと、自ら少数の兵士を率いて敵軍に斬り込んでいます。
この時に、周泰も参戦しているわけですから、周泰と曹仁の一騎打ちになれば、いい勝負だったのかも知れません。
しかし、周泰は孫権のピンチになると、現れてカッコいい役柄になっていますよね。
三国志演義の陸遜を際立たせるためとはいえ、周泰の陸遜を侮るような発言は消してもらいたいと思いますが・・・
尚、最初にも紹介しましたが、三国志演義で甘寧を討った沙摩柯を討ち取ったのは周泰です。