名前 | 桃井直常 |
別名 | 貞直、道皎 |
生没年 | 不明 |
時代 | 南北朝時代 |
一族 | 父:桃井貞頼 兄弟:直信、直弘 子:直和など |
コメント | 反尊氏派の最右翼 |
桃井直常は南北朝時代に活躍した人物です。
太平記では高師直と恩賞を巡ってのいざこざがあった事が記録されています。
観応の擾乱では最初から最後まで直義派として戦った数少ない武将でもあります。
桃井直常は足利直義死後には南朝に鞍替えしますが、足利尊氏が亡くなると幕府に復帰しました。
しかし、短期間で反旗を翻し越中で交戦し斯波義将らと戦っています。
桃井直常の最後はイマイチよく分かっておらず、吉見氏頼との戦いを最後に消息が不明となります。
桃井直常の最後の地や墓所も複数ある状態であり、はっきりしない部分が多いです。
生涯を通じて戦い続けた不撓不屈の精神を持った武将だと言えるでしょう。
尚、桃井直常の動画も作成してあり、記事の最下部から視聴できるようになっています。
桃井直常の出自
桃井直常は桃井貞頼の子で、足利一門でもあります。
しかし、家格においては同じく南北朝時代に活躍した斯波高経や吉良貞義、満義には遠く及ばず、足利一門の中でも最下層だったとされています。
南北朝時代に活躍した桃井氏の中には、桃井直常の他に胤氏流の桃井盛義なる人物がいます。
桃井直常は頼直流ですが、桃井氏の惣領は胤氏流となります。
胤氏流の桃井尚義は新田義貞に協力し鎌倉攻めに参加し、鎌倉攻略戦において討死しました。
しかし、桃井直常が鎌倉時代に何をしていたのかは分からない状態です。
楠木正成と桃井直常
建武の新政が始まりますが、北条時行による中先代の乱が勃発しました。
これと並行して北条氏一門の名越時兼が北陸で反旗を翻しました。
太平記では名越時兼は越中の野尻氏らと共に京都を目指すも、加賀の大聖寺で建武政権の軍と戦い戦死した事になっています。
しかし、太平記評判秘伝理尽抄では、名越時兼の乱を鎮圧する為に、最初に新田義貞が選ばれますが断られ、次に楠木正成の名が挙がるも阿野廉子により阻止されました。
ここで白羽の矢が立ったのが、桃井直常です。
桃井直常は名越時兼討伐に向かう事になりますが、この時に楠木正成が桃井直常の屋敷を訪ねて来て軍資金や馬などを送りました。
さらに、楠木正成は桃井直常の七つの謀を授けた事になっています。
桃井直常は無名の武将であり、建武政権の武士たちは不安に思いますが、桃井直常には楠木正成から授かった謀があり、これを用いて大聖寺城を攻撃しました。
大聖寺城の名越時兼は負傷し戦いの負けを悟り自害しています。
残念に思うかも知れませんが、太平記評判秘伝理尽抄の話は創作であり、事実ではないと考えられています。
実際には越中国司の中院定清や大和の高間行秀らにより、名越時兼の乱は鎮圧された様です。
桃井氏の分裂
足利尊氏は中先代の乱を鎮圧すると建武政権を離脱しました。
桃井盛義や桃井直常は足利尊氏を支持しますが、太平記を見ると桃井遠江守が新田義貞の軍に加わっている事が分かります。
他にも後醍醐天皇に味方した武士に桃井兵庫助顕氏や駿河守義繁がおり、桃井氏の一部は建武政権に味方したと考えられるわけです。
この時点では桃井氏は分裂していたのではないかともされています。
足利尊氏は箱根竹ノ下の戦いで新田義貞や脇屋義助を破ると、京都に進撃しますが、後に北畠顕家らに敗れ九州に落ち延び再起しました。
桃井盛義は足利尊氏に従軍したり安芸で奮戦したりしますが、桃井直常は関東で戦っていた様です。
青野原の戦い
抗戦を主張
足利尊氏は湊川の戦いで勝利し後醍醐天皇を比叡山に包囲し、持明院統の光明天皇を即位させ建武式目の制定もあり室町幕府を開きました。
後に後醍醐天皇と和睦しますが、後醍醐天皇は吉野に還幸し南北朝時代が始まる事になります。
後醍醐天皇の要請により北畠顕家は二度目の上洛軍を起こし鎌倉では斯波家長を破り、東に軍を進めました。
北畠顕家は東海道を進みますが、上杉憲顕や桃井直常は相模で挙兵し奥州軍を追いかけ西に進んだと言います。
諸将の多くは宇治や勢多などの京都近郊でも決戦を望みますが、土岐頼遠が京都に敵を入れる事を反対しました。
ここで桃井直常が「土岐頼遠殿と同じ事を考えている」と述べた上で、皆に意見を聞いた話があります。
土岐頼遠や桃井直常により青野原の戦いが勃発する事になります。
一般的な青野原の戦い
青野原の戦いでは幕府軍は軍を5つに分けて戦う事となります。
一般的には、くじで次の様に分けたとされています。
戦いを主張した土岐頼遠と桃井直常はくじで五番手に決まり、北畠顕家や顕信の兄弟が率いる6万の軍勢と戦った事になっています。
青野原の戦いでは土岐頼遠と桃井直常は度重なる突撃を敢行し、土岐頼遠は自らも負傷し手勢も二十三騎まで減り撤退しました。
桃井直常も負傷し七十六騎まで減り、墨俣川で馬を休ませ日没になると撤退しています。
京都から高師泰、師冬、六角氏頼らの援軍が来て黒地川で徹底抗戦の構えを見せた事で、北畠顕家は琵琶湖沿岸から京都に目指すルートを取りやめ伊勢路に向かいました。
桃井直常や土岐頼遠は敗れはしましたが、奥州軍にも多くの犠牲が出ており、京都への進行を断念させています。
難太平記の青野原の戦い
今川了俊の難太平記ではくじ引きで攻撃順を決めるわけですが、一番が桃井と宇都宮の軍勢となりました。
二番に今川範国と三浦高継となり、三番が吉良氏と高重茂に決まった話があります。
今川勢の若武者が先駆けを行い討死にし、桃井・宇都宮勢も戦闘に入りますが、北畠顕家の奥州軍に押されていきます。
結局、桃井・宇都宮勢は杭瀬川あたりまで後退しました。
ここで桃井直常と今川範国が戦について語るシーンがあり、桃井直常が「思い通りに勝利を挙げるのが武士としての高名だ」と述べた話があります。
桃井直常としては覚えた兵法を使い思い通りに勝利したいと考えたのでしょう。
それに対し、今川範国は桃井直常は強敵相手に何度も負けていると述べた上で「まず戦闘を行い勝利出来ない様であれば、退却すべき」だと語りました。
今川範国は兵法よりも現場第一で考えていたのでしょう。
般若坂の戦い
北畠顕家は吉野で後醍醐天皇に拝謁した上で、軍を北上させ般若坂の戦いが勃発する事になります。
室町幕府では高師直が桃井直常と桃井直信の兄弟を推薦しました。
桃井直信と共に出陣した桃井直常は奮戦し、般若坂の戦いで北畠顕家率いる奥州軍を破りました。
北畠顕家は天才兵法家とも呼ばれていましたが、桃井直常により初めての黒星となります。
石清水八幡宮の戦い
高師直の期待に応えて奥州軍を破った桃井直常ですが、太平記では何故か高師直が恩賞を渋った話があります。
期待させておいて、まともな恩賞を与えない高師直に対し、桃井直常が激怒し後年の反師直の姿勢に繋がる事件として描いています。
北畠顕家は般若坂の戦いで敗れ後退しますが、南朝の別動隊が京都の手前にある石清水八幡宮を占拠しました。
ここで室町幕府は石清水八幡宮を攻撃する為の将を出さなければならなくなりますが、般若坂の戦いで奮戦したにも関わらず報われない桃井直常らを見て、誰も挙手しようとしなかった話があります。
高師直は仕方なく自ら出陣するも幕府軍の士気は低く苦戦しました。
高師直の軍に加わらなかった桃井直常と桃井直信の兄弟ですが「我らの不満は個人の感情であり、戦況が著しくない足利勢を放っておくのは良くない」とし小数兵で出陣する事になります。
出陣した桃井軍は八幡山の麓で南朝の軍を破ると、そのまま高師直の軍に加わりました。
この時に後に長門守護となる厚東武村が桃井直常の配下としており、戦いでは負傷した話があります。
この戦いで桃井軍が陣を置いた場所を桃井塚と京都の人々は呼びました。
若狭守護に補任
(画像:ウィキ)
桃井直常の恩賞問題ですが、実際には北畠顕家との最後の戦いである石津の戦いの三日後には、桃井直常は若狭守護に補任された事が分かっています。
若狭は京都にも近く小浜の湊もあり経済的に裕福なだけではなく、足利一門でも有力者でもある斯波家兼や石橋和義、室町幕府の執事となる細川清氏が補任されており、重要な地域だと分かるはずです。
正確に言えば、この頃までは桃井貞直と名乗っていましたが、若狭守護になった頃から桃井直常と名乗る様になりました。
若狭守護は早い段階で高師直の一族である大高重成に交代しています。
伊賀守護では見せ場作れず
(画像:ウィキ)
若狭守護を解任された桃井直常ですが、直ぐに伊賀守護に補任されました。
伊賀も南北朝期では多くの戦いがあった地域であり、東海道の要衝としても重要地域だったと言えるでしょう。
それだけではなく、悪党が押領が激しい地域でもあり、室町幕府では仁木義直、千葉貞胤を伊賀守護に任命しても上手くいかず、桃井直常を伊賀守護に補任したわけです。
押領に悩まされる東大寺が武勇に優れた者を守護にする様に懇願した結果として、桃井直常が選ばれた経緯もあります。
伊賀は京都に近い事もあり、桃井直常は守護代の河合新左衛門尉ら在地の武士を組織し悪党討伐を行いました。
しかし、服部一族の大谷弥太郎が年貢の略奪を行うなどし押領は益々激しくなっていきます。
東大寺は守護が在地にいない事を問題視しますが、桃井直常は有効な手段を打つ事が出来ず、守護を千葉貞胤に譲りました。
仁木義直、桃井直常、千葉貞胤は東大寺から非常に評判が悪い伊賀守護になってしまった話があります。
塩冶高貞出奔事件
暦応四年(1341年)に突如として、隠岐守護の塩冶高貞が京都から出奔しました。
太平記では高師直の讒言により、塩冶高貞は出奔した事になっていますが、近年では高師直は無関係だったと考えられています。
師守記によると桃井直常、山名時氏、大平出雲守らが塩冶高貞の追跡に入ったとあります。
師守記によると塩冶高貞は影山で自害した事になっています。
塩冶高貞の追跡を任されるあたりは、山名時氏と並び武勇に優れし者だったからでしょう。
越中守護に補任される
(画像:ウィキ)
康永三年(1344年)に桃井直常は越中守護に補任されました。
越中守護になった桃井直常は着実に仕事をこなしています。
この頃には駿河守を辞任していた事も分かっています。
前越中守護の井上俊清は東大寺の荘園に違乱行為などがあり、解任され桃井直常が越中守護に補任されたのでしょう。
越中、越後、信濃の辺りを後醍醐天皇の皇子である宗良親王が移動していた事もあり、予断を許されない地域でもあったわけです。
井上俊清は南朝に降伏し幕府の能登守護である吉見氏頼とも戦闘が始り、貞和三年(1347年)には桃井直常が自ら、井上俊清征伐に向かいました。
1347年は楠木正行が挙兵し藤井寺合戦や住吉合戦があった時期でもあり、井上俊清も楠木正行に合わせて挙兵したと考えられています。
井上俊清との戦いは長期戦となり、桃井直常は吉見氏頼と協力して乱を鎮圧しました。
現在では井上俊清を抑え込んだ吉見氏頼の記録ばかりが残っていますが、これは桃井直常が率いた武士の多くが没落してしまった為と考えらえています。
尚、桃井直常が越中守護を務めた時期に刑部大輔に任官している事が分かっています。
1349年までには同族の桃井盛義が能登守護に補任されました。
桃井直常は若狭守護や伊賀守護は在京し現地に赴く事をしませんでしたが、越中守護になると、これまでの失敗を生かし現地にも赴き越中の武士たちの信頼を得たと考えられています。
越中守護になった辺りから桃井直常は、文武両道の武将になったとみる事も出来ます。
観応の擾乱1(足利直義と高師直の戦い)
直常と盛義の対立
四条畷の戦いが終わると、高師直の権勢が強くなり足利直義と対立しました。
高師直は軍勢を集結させ足利尊氏と直義がいる御所に進撃しています。
太平記によると、桃井盛義も御所巻に参加しており、観応の擾乱において足利尊氏や高師直の派閥として戦う事になります。
桃井直常は御所巻に参加してはいません。
桃井直常は観応の擾乱において、足利直義に与しており、桃井氏は分裂してしまったと言えるでしょう。
御所巻により足利直義が失脚し上杉重能や畠山直宗が流罪となり、高師直は執事職に復帰しました。
高師直の権勢が絶頂期に達しました。
高師泰の征西
九州では反高師直派の足利直冬がおり、高師泰が討伐に向かいました。
足利直冬は少弐頼尚の協力を得て九州で多くの武士の心を掴んでいたわけです。
この時に石見国で桃井左京亮が三隅氏を助け、高師泰の進軍を阻止しています。
桃井左京亮と桃井直常の関係は不明となっています。
高師泰の征西は失敗に終わりました。
越中で挙兵
こうしている間に、桃井直常と弟の直信は越中に向かう事になります。
既にこの時点で足利直義は高師直打倒を狙っており、その意を汲んだ桃井直常は勢力基盤でもある越中を目指したのでしょう。
越中に戻った桃井直常は挙兵し氷見湊を攻撃し、この後に直ぐ足利直義も京都を脱出し大和に向かいました。
足利尊氏と高師直は足利直義の動きに対し、不信感を持ちながらも足利直冬討伐の為に京都を出ます。
能登では富来院で井上布袋丸と富来利行が挙兵する事になります。
この時に能登守護である桃井盛義は守護分国である能登を目指しました。
桃井直信は桃井盛義を攻撃し、桃井氏は完全に分裂したと言えるでしょう。
既に足利直義も大和で挙兵しており、桃井直常は桃井盛義を直信に任せ、自らは軍を率いて上洛しました。
越中・能登での戦いは桃井直常の兄弟が優勢に戦いを進めていたのでしょう。
この時の桃井直信の陽動作戦が功を奏し、桃井直常が上洛する余裕を与えたとも考えらえています。
桃井直常は京都を目指しますが、冬であり雪が深く下馬し「かんじき」を履き京都を目指した話があります。
この時に能登の長国連が直常方に味方し従軍しました。
桃井直常は足利尊氏や高師直と敵対したわけであり、越中守護の座は没収されてしまった事でしょう。
ただし、桃井直常は直義派であり、越中守護剥奪の効力は無効だったはずです。
桃井直常が近江の東坂本に到着しますが、直常軍の大将は桃井の子息だったと記録されています。
桃井直和か弟で養子となった桃井直弘を指すのでしょう。
高師直の不可解な行動
高師直は上野国新田荘内にある桃井直常の所領を没収しました。
これが高師直が発行した最後の執事施行状だと言われています。
しかし、岩松直国も上杉憲顕も足利直義に味方した武将であり、効力は当然ながらなかったはずです。
ただし、岩松直国を味方にする為の、高師直の施策だったとする見方も存在しています。
亀田俊和氏は南北朝武将列伝北朝編の中で足利尊氏や高師直に対し「状況を正確に判断する能力さえ失っていたのかもしれない」と述べています。
比叡山を占拠
京都を目指していた桃井直常も正月には大津に到着し桃井軍は比叡山を占拠しました。
この時は雪が降った事もあり、比叡山では多くのかがり火が焚かれる事になります。
京都は足利義詮が守っていましたが、桃井軍のかがり火を見て心理的な脅威を与えたとされています。
桃井直常の軍が洛中に攻め込むとする噂も流れ慌てた義詮は鴨川に出陣しますが、桃井直常は動かず徒労に終わったと言います。
比叡山の尊胤法親王が桃井直常を支持したとする噂も流れました。
三条河原の戦い
桃井直常は京都に向かいますが、足利義詮は京都から脱出し足利尊氏の陣を目指しました。
桃井直常は京都に入り、光厳上皇がいる持明院殿を訪れています。
崇光天皇が持明院殿に避難しており、持明院殿が臨時の御所にもなっていました。
桃井直常は京都一番乗りの戦功を挙げたと言えるでしょう。
足利義詮は足利尊氏や高師直と合流すると再び京都を攻撃しました。
この戦いで桃井直常は法勝寺に陣を置き三条河原付近で戦い敗れています。
桃井直常は関山に移りますが、足利尊氏の軍からは離脱者が続出しました。
足利尊氏は京都を守る桃井直常は破りましたが、形勢を変えるような勝利とはならなかったわけです。
足利尊氏は丹波に向かい桃井直常は弟(直弘だと思われる)を持明院殿への使者としています。
京都を再び桃井直常が抑えました。
京都に足利一門の吉良満貞や斯波高経が入り、直義派が圧倒的に優勢になったわけです。
この後に、足利義詮が丹波から京都に攻めるとする情報が入りますが、実際には兵が直義に降伏したのであり、桃井直常は石清水八幡宮にいる足利直義の元に向かった話があります。
観応の擾乱2(足利尊氏と直義の戦い)
桃井直常襲撃事件
足利直義は打出浜の戦いで勝利し、高師直、高師泰及び関東では高師冬が命を落とし、高一族の大半が没落しました。
観応擾乱の前半戦の足利直義の勝利により、桃井直常は引き続き越中守護を任される事になり、右馬権頭も名乗る様になります。
こうした中で直義の側近である斎藤利泰が夜道を襲われ刺されて死亡する事件が勃発しています。
京都には不穏な空気が流れており、桃井直常は女装の武士に突如として襲撃される事件に遭いました。
桃井直常は刺されますが、鎧を着ており刃は体まで貫通せず、命拾いしました。
犯人は捕まりましたが、桃井直常も、いざという時の為の備えをしていたのでしょう。
余談ですが、桃井直常を暗殺しようとした黒幕は足利尊氏の正室である赤橋登子だったのではないかとする説があります。
引付頭人
桃井直常は引付頭人に任命され、さらに畠山国清、石塔頼房、高師秋らと共に従五位上に昇進しました。
さらには、播磨守にもなっています。
引付頭人に任命されたのは、京都一番乗りの功績だとも考えられています。
ただし、足利義詮が所領訴訟の審理を採決する御前沙汰が発足されると、足利直義の下に置かれた引付は権限を失って行きました。
京都から出奔
足利直義は南朝の北畠親房との交渉も決裂し、足利義詮との対立もあり室町幕府内で居場所を失いました。
こうした状況の中で佐々木道誉と赤松則祐が反旗を翻し、足利尊氏と義詮は鎮圧のために都を出る事になります。
尊氏派の諸将が京都からいなくなり、太平記では身の危険を察知した桃井直常が足利直義に京都を出る様に勧めました。
桃井直常などは佐々木道誉や赤松則祐らの挙兵は、足利尊氏や義詮の意向を受けた行動だと判断し、自分達に味方してくれるであろう斯波高経の勢力圏内である北陸に移動する様に勧めたとされています。
この時に桃井直常や諏訪直頼なども足利直義に従い京都から出奔しています。
園太暦に桃井直常が兄弟父子三人となり、桃井直常は弟の直信と子の直和と共に京都を出たのでしょう。
足利尊氏と桃井直常
足利尊氏は直義との戦いを望んではおらず、細川顕氏を使者として直義の元に派遣しました。
足利尊氏は直義の帰京を強く望んだわけです。
この時に、足利尊氏は桃井直常と関わらない様にと、直義に伝えています。
尊氏としては、兄弟不仲の原因として桃井直常がいるからだと考えてもいたのでしょう。
足利尊氏は義詮と共に近江に出陣し、直義軍と戦う事になります。
この時に桃井盛義が足利尊氏の軍に従軍しました。
八相山の戦い
足利直義は桃井直常と畠山国清を大将として近江に出陣させ、八相山の戦いが勃発しました。
石塔頼房も直義勢として合流しています。
八相山の戦いでは直義方の秋山光政が戦死するなどし、直義軍は越前に撤退する事になります。
この時に桃井直常は徹底抗戦を主張しますが、受け入れられませんでした。
尚、弟の桃井直信は能登に進撃し、吉見氏頼と交戦しますが勝利を得られず越中に撤退しています。
足利尊氏は何としても直義と講和を実現したかった様であり、尊氏と直義が面会する所まで漕ぎつけました。
しかし、足利尊氏と直義の講和のネックになっていたのが、桃井直常であり、結局は講和交渉はまとまらなかったわけです。
園太暦には、和議は桃井直常が原因で上手くいかなかったとする噂が記録されています。
尊氏と直義の和議が不調に終わった原因は、和睦条件の中に「桃井直常の排斥」があったのではないかと考えられています。
足利尊氏としては責任を桃井直常に取らせ、幕引きを図りたかったのでしょう。
しかし、桃井直常としては、責任を取らされるのは「心外」と考えており、和議に反対したとみる事が出来ます。
敗北
足利直義は直義派が優勢である関東に移動し、桃井直常も同行しました。
越前の斯波高経が尊氏派に寝返るかの様な姿勢が見えた事で、北陸から関東に移動したとも考えられています。
関東には直義派の上杉憲顕がいたのも大きかったでしょう。
足利尊氏は南朝に降伏した上で、東征を行っており薩埵峠の戦いが勃発しています。
太平記では下野の宇都宮氏綱と高師直の臣下だった前武蔵守護代の薬師寺公義が、足利尊氏の軍に合流しようとしました。
太平記によると、宇都宮氏綱と薬師寺公義を阻止する為に派遣されたのが、桃井直常となっています。
桃井直常は長尾新左衛門尉と共に上野国那波荘で迎撃し敗れています。
この戦いは激戦であり、数カ月後まで戦場に死体が転がり、血の匂いが溢れていたと言います。
桃井直常が敗れた事で宇都宮氏綱の軍は足利尊氏の軍への合流が可能となり、足利直義は降服し鎌倉に入りました。
足利直義は尊氏に降伏し間もなく亡くなっています。
観応の擾乱は結果として高師直と足利直義の双方が世を去り、足利尊氏が生き残る結果となりました。
足利直義の死は桃井直常を激情させたとも考えらえれています。
南朝に鞍替え
足利直義が亡くなると、桃井直常は南朝に鞍替えする事になります。
後村上天皇が正平一統を破棄し、京都を占拠し光厳上皇ら北朝の皇族を拉致し、石清水八幡宮に籠城しました。
足利義詮は一時的に京都を奪われますが、反撃に転じ後村上天皇を石清水八幡宮で包囲しました。
太平記によると、この時に桃井直常は新田義宗と共に越中から、後村上天皇の援軍に駆け付けようとしましたが、間に合わなかった話があります。
吉見氏頼との戦い
桃井直常は反幕府勢力として、越中で活動を続ける事になります。
観応三年(1352年)の6月には、吉見氏頼が能登守護になっており、越中に侵攻してきました。
横河保芝峠で桃井直常や直信は敗れますが、その後は巻き返し吉見氏頼を越中から撤退に追い込んだとされています。
詳細は不明ですが、吉見氏頼の軍が能登に引き上げた事は間違いなさそうです。
文和東寺合戦
文和三年(1354年)に足利直冬が南朝に帰順しており、大内弘世や山名時氏に担がれて京都に進撃しました。
足利直冬の動きに合わせて桃井直常も上洛しています。
越前の斯波高経が足利直冬を支持しており、桃井直常の京への進撃を容易くしています。
この頃に南朝は桃井直常を弾正大弼に任命しました。
後光厳天皇と共に足利尊氏らは近江に移動し、京都をわざと占拠させています。
桃井直常は京都に入りますが、園太暦には「今日、桃井弾正大弼入洛、その勢い猛なり」と書き記しています。
足利尊氏との間で文和東寺合戦が起きますが、太平記では桃井直常の部下である二宮兵庫助が桃井直常の振りをして細川清氏と一騎打ちをした話があります。
文和東寺合戦では仁木義長や土岐頼康が鴨川に進撃し、直冬方の桃井直常や赤松氏範と戦いました。
この戦いで桃井勢は負傷者が続出し、東寺に一旦退却し反撃しようとするも、土岐氏の軍勢に苦戦した話が残っています。
文和東寺合戦は足利尊氏の奮戦により敗れました。
直、文和東寺合戦では桃井直常が鬼味噌に揶揄され「外見は強そうだが、中身は弱気」と評された話もあります。
文和東寺合戦の後に桃井直信は中国地方で足利直冬と行動しますが、室町幕府に帰順しています。
幕府と戦い続ける
足利尊氏は延文三年(1358年)に死去しますが、桃井直常は室町幕府と戦い続ける事になります。
この頃に、九州征西府は菊池武光の活躍もあり筑後川の戦いで勝利するなど勢いがありましたが、太平記には懐良親王の配下に桃井右京大夫なる武将がいた事が分かっています。
ただし、桃井右京大夫と桃井直常の関係はイマイチ分かっていません。
康安元年(1361年)に南朝の後村上天皇は細川清氏や楠木正儀らと共に、京都を奪取しますが、この時に桃井直常は参戦する事が出来ませんでした。
一生の不覚
1362年の正月に桃井直常は信濃から越中に入り各地で戦闘を行っています。
太平記によると、桃井直常は本陣より二里ほど離れた井口城に向かったと言います。
桃井直常は「相談事がある」と告げ、誰にも言わず井口氏の城に向かいました。
この時に幕府軍の300ほどの兵が直常不在の本陣に降伏する為にやってきました。
ここで幕府軍は桃井直常が不在だと知り、逃亡したと勘違いし、降伏をやめ突如として暴れ出したわけです。
降伏兵に対し本陣の兵は対処出来ず、200人ほどが討ち取られ、100人ほどが捕虜になったと言います。
桃井直常は井口城に向かう途中でしたが、本陣が火が上がっている事に気付き急いで戻りますが、混乱した兵たちを落ち着かせる事も出来ませんでした。
部下達も退却を勧めた事で、桃井直常は井口城に籠城しました。
数多くの戦場を経験し歴戦の猛者であるはずの、桃井直常とは思えない様な失態を演じてしまったと言えるでしょう。
一生の不覚とは、この時の桃井直常を言うのかも知れません。
この話が何処まで真実なのかは不明ですが、南朝は各地で形勢不利となっており、桃井直常も形勢が苦しくなっている様子を現わしているとも考えられています。
尚、1362年に能登で戦いが起きており、石動山にいた桃井直弘が室町幕府に降伏しました。
桃井直弘は桃井直常の弟ですが、桃井直常の養子でもあります。
斯波高経が足利義詮の執事になった時代には、大大名の大内弘世や山名時氏が幕府に帰参したり、旧直義派が幕府に復帰した時代でもあります。
桃井直常の幕府復帰
1363年頃に越中守護として桃井直信が就任した事が分かっています。
この頃になると桃井直常は足利基氏がいる鎌倉にいた事が分かっています。
桃井直常は出家しました。
桃井氏と佐々木氏(六角、京極など)は婚姻関係があり、幕府の中枢にいる佐々木道誉の働きにより桃井直信が越中守護になったり、桃井直常が幕府復帰できたと考えられています。
越中に出奔
室町幕府の執事の斯波高経が幕府内で居場所を失くし、杣山城で交戦しますが、1367年に亡くなりました。
子の斯波義将は幕府復帰しています。
これから間もなく鎌倉公方の足利基氏や足利義詮が死去しました。
室町幕府では足利義満が後継者となり、細川頼之が補佐する体制となります。
応安元年(1368年)になると、突如として桃井直常が越中に出奔しました。
桃井直常は幕府に帰順してから短期間で、越中に出奔し反旗を翻したわけです。
室町幕府では斯波義将を越中守護に補任しました。
桃井直常は越中に出奔しますが、弟の桃井直信は従わず京都で過ごす事になります。
ここに来て、桃井兄弟は完全に袂を分かつ結果となりました。
最後の戦い
桃井直常は能登に侵攻しますが、吉見氏頼が迎え撃ちました。
吉見氏頼は桃井直常を各地で破り、越中にまで攻め込んでいます。
吉見氏頼の軍に加賀守護・富樫竹重丸や越中守護の斯波義将も協力しました。
こうした中で桃井直常の嫡子である桃井直和が越中の長沢の戦いで討死しています。
1371年になると桃井直常は飛騨国司の姉小路家綱と共に飛騨から越中に侵攻しました。
ここで斯波義将の軍勢と戦ったりしますが、最終的に吉見氏頼の軍勢と戦い敗れています。
桃井直常の最後
吉見氏頼に敗れた後の桃井直常の動向は不明であり、どの様な最後を迎えたのかも不明です。
桃井直常の第一人者であるによると、次の説があるとの事です。
※中世武士選書49 桃井直常とその一族――鬼神の如き堅忍不抜の勇将153、154頁からの引用
・康安二年(1362年)幕府軍に大敗し井口城で再起を図るが病死した。(肯構泉達録)
・貞治五年(1366年)九月、幕府の命を受けて斯波義将が越中に攻め込むが、直常が松倉城で病死した報に接する(「京都将軍家譜」「日隆大聖人徳行記」上)
・貞治五年十月十九日に越前(越中カ)で没する(福応寺由緒記)
・貞治五年、斯波義将と戦って大敗し、剃髪して上野国桃井荘の播磨の地に庵を建てて隠棲した(棒東村誌)
・貞治六年四月、足利義詮が畠山義深らを率いて越中に攻め込むが、偶然に直常が没し、越中は義深に与えられる(河州軍記)
・貞治六年、直常が加賀を攻めたため、翌応安元年(1368年)三月に斯波義将が出陣して合戦となった。桃井軍は持ちこたえたが、五月十八日に直常が急病で没したため、義将が越中を制圧した(太平記評判秘伝理尽抄 巻第三十九)
・応安四年、五位荘の戦いの後、孫の幸若丸(直詮)を頼って越前に入り、永和二年(1376年)六月二日に一乗谷(福井市)の心月寺で没する(大平山興国寺史)
・康暦二年(1380年)六月に岩瀬城(富山市)に籠り、妻子を富山湾に入水させたうえで自害した。
複数の説があり、大半の人がどの説が正しいのか分からない様に感じるかと思いました。
松山充宏氏によると、これらの全ての説が江戸時代以降編纂の地誌・伝説集、系譜類との事です。
一時資料で桃井直常の最後を語ったものはなく、どの様な最後だったのかは分からないとするのが正しいのでしょう。
可能性としては、上記の挙がった説のどれも正しくない可能性もあります。
桃井直常の墓
松山充宏氏によると、桃井直常の墓所も複数存在しています。
下記は書籍の方を簡略に纏めました。
・富山市布市興国寺
・富山市布市龍高寺墓地
・富山市牧野(東薬寺の前)
・射水市放生津
・群馬県吉岡町南下(桃井東城の付近)
・群馬県吉岡町南下(桃井塚)
・群馬県桐生市新里町新川
・神奈川県横浜市港北区高田町
・埼玉県深谷市横瀬
・兵庫県高砂市阿弥陀町阿弥陀
松山充宏氏は書籍の中で没年、没地、墓所に複数の説が伝えられている事に「直常は死してもなお神出鬼没の観がある」と述べています。
この言葉を持って「桃井直常とその一族」の書籍の桃井直常の項目が締めくくられています。
桃井直常の動画
桃井直常のゆっくり解説動画です。
この記事及び動画は南北朝武将列伝北朝編、桃井直常とその一族――鬼神の如き堅忍不抜の勇将(共に戎光祥出版)をベースに作成しました。