実際に、史記を見ても秦が韓の南陽の地を得た事になっています。
しかし、南陽の無血開城が史実でも、本当にキングダムの様な展開だったのかも合わせて考えてみました。
今回はキングダムでも紹介された南陽の無血開城が、本当にあったのかの解説をします。
個人的には南陽の無血開城は史実だとする結論に至りました。
キングダムの南陽の無血開城
秦は番吾の戦いで趙の李牧に敗れますが、戸籍を作り20万の兵を生み出しました。
秦は韓を滅ぼす為に動きますが、首都の新鄭を攻撃する前に、南陽を落す事になります。
秦の首脳部は趙との戦いを見据えており、なるべく兵を損耗せずに韓を滅ぼしたかったわけです。
南陽には韓の第二の将軍である博王谷が7万の兵で守っていました。
秦軍は李信率いる六万の軍勢の後に、騰が10万の兵を率いて後方におり、さらに、後方には10万の秦兵と合計で26万もの大軍が南陽を目指しました。
最後部の10万の秦兵は老兵であり、数だけを集めた軍でしたが、韓に驚異を与えました。
韓の第一将である洛亜完は南陽は守り切れぬと判断し、南陽の兵士と物資を新鄭に送るように進言し、王安王や張宰相も同意しています。
南陽城主の龍安は新鄭からの命令の通りに動き、南陽は無血開城しました。
これがキングダムの南陽無血開城の大まかな流れです。
史実の南陽無血開城
史記の韓の歴史を綴った部分である韓世家を見ると、韓非子が秦で亡くなった記述の後に、直ぐに韓王安を捕虜にした話となってしまい南陽の話が出て来ません。
そうなると、頼りになるのは史記の秦本紀であり、南陽の部分は次の様に記載されています。
※ちくま学芸文庫史記本紀より
始皇十六年九月卒を発し、韓の南陽の地を受け内史の騰を仮の太守とした。
上記の記述から秦が韓の南陽の地を手に入れた事は間違いなさそうです。
さらに、史記には「卒を発し」となり秦が兵士を出し、南陽は降服したとみる事が出来るのではないでしょうか。
それを考えれば、南陽が無血開城したのは充分にあり得そうな話だと感じました。
ここで見なければいけないのは、当時の秦と韓の国力の差ではないでしょうか。
(画像:YouTube)
上記の勢力図を見れば分かりますが、既に秦と韓の国力の差は30倍はあった様に感じています。
こうした事情から、秦は韓を滅ぼそうと思えば、いつでも滅ぼせる状態だった事でしょう。
ただし、韓の首都である新鄭は元は周の東遷が終わった位に、鄭の武公が築いた城であり、春秋時代には大国の晋や楚の侵攻を阻んで来た歴史があります。
これらを考慮し秦は新鄭を攻める前に、南陽の陥落を目指したのでしょう。
キングダムでは話を盛り上げる為に、秦と韓は同程度の兵数を揃える事が出来ましたが、史実で考えれば韓が秦と同程度の兵数を揃えるには無理があります。
それを考えれば、秦の兵が南陽に迫り、南陽は太刀打ちできないと思い降伏したか、韓王安が驚いて、南陽を割譲し和睦を請うたのでしょう。
実際に秦は兵を出しているわけであり、南陽は寡兵しかおらず、秦の大軍を見て無血開城した可能性も高いはずです。
キングダムでは英呈平原の戦いの前に、騰が兵士達の前で演説を行い「この十数年 韓は大戦を経験しておらぬ」とする言葉があります。
騰の言葉は真実であり、韓は国力が余りにも低下しすぎてしまい戦争も行える様な状態ではなかったのでしょう。
さらに言えば、趙や魏も韓を助ければ、秦を怒らせ攻めて来る事は確実であり、静観を決め込むしかなかったのかも知れません。
紀元前241年に春申君が主導した合従軍が函谷関の戦いで敗れてからは、諸侯は合従をしようともせず、秦に土地を侵食されていくだけになっています。
これらを考慮すると結論として、史実でも南陽の無血割譲は充分にありえると感じた次第です。
仮の太守騰
キングダムを見ると、南陽が無血開城した後に、秦の中央からは剛京なる文官が南陽に送り込まれてきました。
ここで方針を巡って、剛京と騰が対立し、六将の騰と長官の剛京で、どちらの方が立場が上なのか?という問題になっています。
隆国の提案で秦の朝廷に確認する事になり、最終的に騰の方が立場が上となりました。
史記を見ると「騰は南陽の仮の太守になった」とあり、本来なら剛京が太守ですが、騰が仮の太守となっており、キングダムは史実をかなり意識して描いていると感じた次第です。
南陽の理想郷のモデル
史実では、無血開城した南陽を仮の太守の騰がどの様に治めたのかは不明です。
しかし、騰の狙いは南陽を理想郷にする事で、韓を降伏させやすくする為の手段になっています。
三国志の話ですが、関羽が北上し魏の曹仁が籠る樊城の戦いを起こしている最中に、呉の孫権は呂蒙に命じて関羽の本拠地である荊州を降伏させています。
この時に、呂蒙は住民に危害を加えず、善政を行い民の信望を得て、噂を聞いた関羽の兵を逃亡させた話があります。
さらに、呂蒙は呉の兵士が民家から笠を取った者を見つけると、軍令違反だと処刑しました。
呂蒙が兵士を処刑する姿と、剛京が秦兵を処刑する姿が妙に被るわけです。
話が完全に一致するわけではありませんが、個人的には南陽の無血開城の話は三国志の呂蒙の話をモデルにしたのかとも感じました。