春秋戦国時代

嚢中の錐(のうちゅうのきり)が故事成語になった由来と逸話

2022年6月21日

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宮下悠史

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名前嚢中の錐(のうちゅうのきり)
出所史記・平原君虞卿列伝
由来平原君と毛遂のやり取り
コメント錐の嚢中に処るが如しは名言

嚢中の錐は中国の戦国時代に出来た故事成語です。

嚢中の錐の意味は下記の様に使われる場合が多いと言えます。

「優秀な人物は多くの人に混ざっていても、嚢中(袋)に入れた錐の様に突き出て、自然と目立つ存在になる」

嚢中の錐は「優秀な人は自然と目立つから、名前が上がり評判の人物になる」と言った意味で使われる事が多いと言えます。

嚢中の錐の由来になった話は、平原君と食客の毛遂の逸話から出た事が分かっています。

語源となった「錐の嚢中に処るが如し」は名文だと感じています。

嚢中の錐の話は司馬遷が書いた史記の平原君虞卿列伝にあり、物語としても面白いと感じました。

因みに、嚢中の錐の話は『毛遂自薦』の故事にもなっています。

毛遂自薦

戦国七雄が争った時代に、白起趙括を打ち破り、長平の戦いで大勝しました。

この時に白起は趙兵45万を生き埋めにした話もあり、趙を恐怖のどん底に突き落とす事となります。

秦の昭王は翌年に王陵、王齕、鄭安平などを派遣し趙の首都邯鄲を包囲させます。

邯鄲籠城戦では趙の孝成王は苦しみ、宰相の平原君をに派遣し、合従の同盟を結ぼうとしました。

平原君は戦国四君の一人であり3千人の食客を養っており、平原君は食客の中から知勇兼備の20名を選び出し、楚への使者に同行しようと考えます。

この時に趙は国家存亡の危機であり、平原君の交渉が失敗すれば国が滅びるという状態であり、平原君は重大な任務を任されたとも言えるはずです。

平原君自身も任務の重要さが分かっており「壮麗な宮殿を血で染めようとも任務を達成しなければならない」と述べた話があります。

平原君は食客の中から19名を選び出しますが、最後の一人がどうしても決まらなかったわけです。

多くの食客がいても一長一短があり、中々決める事が出来なかったのでしょう。

こうした中で、毛遂なる食客が自らを自薦しました。

この時に毛遂が平原君を説得した言葉が「嚢中の錐」の語源となっています。

別の諺では「毛遂自薦」です。

嚢中の錐の由来

平原君が随行する食客の最後の一人が決まらずに悩んでいると、毛遂が平原君の前に進み出て次の様に述べます。

毛遂「聞けば平原君様は楚と合従の同盟を結ぶ為に、楚に赴かれると聞いております。

食客20人を同行させるとの事ですが、最後の一人が決まってはおらぬと聞きました。

それならば、この遂(毛遂)を20名の食客の一人に加えて頂きたい」

平原君は自薦した毛遂に対し「ここに来て何年が経つか?」と問うと毛遂は「3年」と答えました。

平原君は毛遂に対し、次の様に述べています。

平原君「そもそも天下の賢士と言うのは、嚢の中にある錐の様なもので、その穂先は次々に現れるものである。

先生(毛遂)は儂の所に来て3年にもなるが、側の者が先生の事を賞賛した事は一度もなく、私も先生の評判を聞いた事もない。

これは先生に備わった能力に問題があり、今回の任務は重要故に、先生を連れて行く事は出来ない」

平原君は能力のある人の例えとして、嚢中の錐と表現したわけです。

しかし、ここで毛遂は食い下がらず、次の様に述べています。

毛遂「今の私は嚢中に入る事を願っているのです。

私を早くから嚢中に入れたならば、穂先だけではなく、潁脱してしまい穂先が現れる位では済まなかった事でしょう」

平原君は嚢中の錐を例として毛遂に述べましたが、毛遂も負けじと嚢中の錐を例に出し、平原君に伝えたわけです。

ここでの毛遂の切り返しの上手さを評価したのか、毛遂の押しが強かったせいなのかは不明ですが、平原君はへ同行する食客の一人として毛遂を連れて行く事としました。

毛遂の活躍

平原君は楚に向かいますが、その間に食客達は論争を繰り広げた話があります。

しかし、毛遂に勝る食客はおらず、毛遂は食客達からも高い評価を得ました。

この時点で毛遂は「嚢中の錐」になったとも言えるでしょう。

平原君はに到着すると、楚の考烈王と合従の盟約を結ぼうとしますが、半日経っても話が進展しなかったわけです。

ここで毛遂が楚の考烈王の前に進み出て、半ば脅迫とも言える形で話を展開し、楚の考烈王は毛遂の気迫に押され趙と同盟を結びました。

平原君は毛遂のお陰で、楚との合従の盟約を結ぶ事が出来たと言えます。

楚の考烈王は宰相の春申君を援軍として派遣し、でも信陵君が晋鄙の兵権を奪い援軍に駆け付け、でも李同の奮戦があり、軍を邯鄲で撃退する事に成功しました。

趙は滅亡の淵から逃れる事に成功したわけです。

平原君は楚からの援軍を引き出した毛遂の功績を認め、上客として報いた話があります。

毛遂が最上級の客になった事で、誰もが認める完全なる『嚢中の錐』になったとも言えるでしょう。

ただし、平原君は過去に徴税官の趙奢を、自らの食客が斬られたにも関わらず、能力の高さを認め兄の趙の恵文王に推挙しました。

しかし、毛遂は嚢中の錐となりながらも、平原君の上客どまりだったわけです。

趙奢と毛遂の違いに関しては、毛遂の性格を平原君が危惧した可能性もある様に思います。

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