李術は汝南の人であり、孫策から廬江太守に任命された人物です。
呉では孫策が亡くなると孫権が後継者となりますが、李術は孫権に従わず呉からの亡命者を受け入れています。
孫権が李術に亡命者の返還を要求すると、李術は手紙を出し「徳」を理由に返還を断わりました。
これにより、李術と孫権の対立は決定的となり、孫権は李術のいる皖城を攻撃する事になります。
李術は曹操に助けを求めますが、李術が過去に曹操が派遣した揚州刺史の厳象を殺害していた事もあり、曹操は李術を助けませんでした。
李術は孫権の兵糧攻めにより、皖城が落城し命を落としています。
廬江太守となる
西暦199年に孫策は廬江太守の劉勲に海昬、上繚を攻撃させる様に仕向けています。
孫策は黄祖討伐に向かっていましたが、劉勲が本拠地の皖城を開けた事を知ると、周瑜と共に皖城を急襲し陥落させています。
孫策は皖城を制圧すると大喬や小橋などの美女だけではなく、旧袁術軍も手に入れる事に成功しました。
孫策が劉勲に変わる廬江太守として上表したのが李術です。
李術が廬江太守に任命された事を考えると、李術は名士であり皖城攻めでも手柄を立てた可能性もあるでしょう。
李術は孫策から三千の兵を与えられ皖城を守備する事になったと記載があります。
孫策の方では孫賁と孫輔に命じ劉勲を急襲させ、彭沢の戦いで劉勲を破り、西塞山の戦いで勝利した事で、劉勲を北方に駆逐させる事に成功しました。
これにより孫策は劉勲の配下にいた旧袁術軍と旧鄭宝軍を手に入れる事になります。
後に李術を頼った者が多かった事を考えると、孫策は旧袁術と鄭宝の軍を自分と李術で二分したのではないか?とも考えられています。
厳象を殺害
厳象は西暦199年頃に袁術を攻撃しましたが、戦闘が始まる前に袁術は病死してしまいます。
曹操は厳象を揚州刺史に任命しました。
正史三国志の注釈・三輔決録に下記の記述が存在します。
「建安五年。孫策の廬江太守・李術により殺害された」
上記の記述から李術が曹操の任命した揚州刺史・厳象を殺害した事が分かります。
西暦200年には孫策も許貢の食客により命を落としていますが、孫策が亡くなる前の事だったのでしょう。
李術は孫策に対しては、忠実であり命令に従っていたと見る事も出来るはずです。
しかし、後の事を考えると李術の厳象殺害は悪手となります。
因みに、厳象は過去に孫権を茂才に推挙しており、孫権としては厳象に対し悪い感情は抱いてはいなかった事でしょう。
むしろ好意的だった可能性もあります。
呉からの亡命者を受け入れ
孫策が西暦200年に亡くなると、弟の孫権が後継者となります。
周瑜や張昭などは率先して孫権を支持しますが、李術は孫権の命令には従いませんでした。
孫策の死で呉が動揺し、孫権の元を離れる者達も増えて来たわけです。
こうした中で、李術への求心力が高まったのか、呉から亡命者が多く出て李術の元に身を寄せる事になります。
多くの者が李術を頼った事を考えると、李術は皖城を本拠地とし大きな勢力となっていたのでしょう。
勿論、孫権としては「兄の孫策が李術を廬江太守にしてやった。」と考えていたはずであり、命令を聞かずに亡命者を受け入れた李術に対し恨んだ事も十分に考えられます。
李術の手紙
孫権は李術に対し、手紙を送り亡命者の返還を求めました。
公式の文書として孫権は李術に手紙を送っており、孫権の本気度が分かります。
それに対し、李術は次の様な手紙を孫権に返す事となります。
「徳ある者が人々から頼られるのです。そして、徳の無い人が人々から叛かれます。
返還するわけにはいきませぬ」
孫権は李術の手紙を見ると激怒し、これにより李術と孫権の対立は決定的となりました。
李術の手紙だと自分が「徳」がある者だとし、孫権には「徳」がないと決めつけている手紙でもあり、孫権が怒るのも無理はありません。
孫権が曹操に手紙を送る
孫権は李術討伐を決めますが、その前に曹操に手紙を送っています。
・孫権の手紙
「厳象殿は過去に貴方(曹操)の部下だった人であり、また自分を州から中央に推挙して下さった恩人でもあります。
しかし、李術は凶悪な人で漢の決まりを蔑ろにしております。
李術が揚州刺史の厳象殿を殺害した事はは無法としか言いようがありません。
私は李術を討伐し悪人共を懲らしめたいと考えているのです。
私が李術を討伐するのは朝廷の為であり、悪の親玉を除こうとする者であり、恩人の厳象殿の仇を討ちたいと思っております。
私の行動は天下に恥じることなき正しき行いであり、心からの願いでもあります。
李術は誅殺を恐れ、ありもしない弁解をし、貴方様に救援を求めて来る事でしょう。
貴方様の阿衡(宰相)の官位は公正さを示すものであり、天下の人々が仰ぎ見ているのです。
どうか担当の者に言上し、李術の申すところを聴き入れませぬ様にお願い致します」
孫権としてみれば、曹操が李術に援軍を派遣すれば、呉が瓦解する恐れもあり、曹操に遜った手紙を送ったのでしょう。
李術の戦略破綻
李術としては、揺れているとはいえ単独で孫権で対峙するのは難しく、曹操への援軍を依頼しました。
しかし、この頃の曹操は袁紹と官渡の戦いで対峙しており、李術に援軍を送れるだけの余裕も無かったのでしょう。
同時期に荊州の劉表に反旗を翻した張羨や桓階も曹操に救援を求めたはずですが、曹操は救援に向かう事が出来ていません。
曹操が李術を救援しなかったのは、孫権が曹操に送った手紙が効いたとする説もあります。
袁紹と曹操が戦った官渡の戦いの時に、孫策が曹操の許都を狙ったとする話もありますが、実行前であり曹操と孫権は敵対してはいなかったのでしょう。
それに比べ李術は、荀彧が推挙し曹操の息が掛かった揚州刺史の厳象を殺害しており、曹操に恨まれていた可能性もあります。
曹操の救援を得られなかった事により、李術の戦略は破綻したとも言えます。
李術の最後
李術は本拠地の皖城を孫権に攻められる事になります。
孫権の李術討伐においては呉軍として、徐琨や孫河などが参戦した記録があります。
李術は城門を閉じて守りを固めますが、曹操の援軍も得る事も出来ず孤立した状態で戦いました。
この時の李術の城内の記録としては、下記の様な記述があります。
「城内の食料は尽き果て、婦女たちの中には泥を丸め込んで飲み伏せ腹を満たす者もいた」
李術が籠る皖城は食料に窮し地獄絵図となってしまったのでしょう。
泥を呑むなど普通の行動ではありません。
李術は外からの救援も得られない事から、皖城は落城しました。
孫権は李術をさらし首とし、李術の兵士三万を強制移住させたとあります。
孫権は力づくで住民を奪い返したとも言えるでしょう。
尚、孫権が李術の部下達を強制移住させたのは、呉には豊富な食料がある事も表れだとする見方もあります。
因みに、李術の廬江太守ですが、後任には孫河が廬江太守に任命されています。