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許貢は食客が主の仇を討った

2023年3月25日

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宮下悠史

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名前許貢(きょこう)
生没年不明
時代三国志、後漢末期
画像©コーエーテクモゲームス

許貢は正史三国志や後漢書に登場する人物です。

許貢は呉郡都尉をしていましたが、呉郡太守の盛憲から太守の座を奪い取っています。

後に許貢は朱治に敗れ呉郡太守の座を明け渡し、最後は孫策により命を落しています。

許貢は孫策により最後を迎えましたが、死後に三人の食客が孫策を暗殺しました。

許貢の場合は、本人よりも死後に食客が孫策を暗殺した事の方が有名だとも言えるでしょう。

食客達が許貢の仇を取った事を考えると、面倒見はかなり良かったはずです。

尚、許貢に関しての記述を見ると、どの勢力に与していたのか?など分かりにくい部分が多いと言えます。

呉郡都尉から太守となる

許貢の前半生に関しては、全くと言ってよい程分かりません。

正史三国志の許靖伝の記述を見ると、許靖董卓の元を脱出し、孔伷、陳禕を頼りますが、彼らの死後に次の記述があります。

※正史三国志 許靖伝より

呉郡都尉の許貢と会稽太守の王朗が昔馴染であった事から、許靖は彼等の元に身を寄せた。

上記の記述を見ると、許貢と許靖は旧交があり、許貢が呉郡都尉だった事が分かるはずです。

一緒に記載されている王朗が193年に会稽太守に就任している事から、許貢が呉郡都尉となったのは少なくとも西暦193年以降ではないかと考えられています。

さらに、正史三国志の孫破虜討逆伝の注釈・呉録の高岱を扱っている部分で、下記の記述が存在します。

※孫破虜討逆伝・注釈呉録より

許貢がやって来て郡を乗っ取った。

上記の記述を見ると許貢が郡を乗っ取った事が書かれており、この時の呉郡太守が盛憲であり、許貢は盛憲を実力で盛憲から呉郡太守の座を奪ったと見る事が出来ます。

ただし、孫堅の配下として活躍した九江太守の芮祉が、呉郡太守に任命された記述も存在します。

それを考えると、許貢は盛憲を追い出し呉郡を乗っ取りましたが、周りの目を気にして呉郡都尉を続け、芮祉が呉郡太守となり、後に自ら呉郡太守になったとも考える事が出来ます。

別の視点を持てば許貢が呉郡太守となったが、正統性はなく袁術が芮祉を呉郡太守に任命し、呉郡太守が二人いる状態になってしまったのかも知れません。

尚、後述しますが、後に許貢は陶謙に攻められそうになり、袁術派の朱治の攻撃を受けています。

それを考えると、許貢は朝廷が呉郡都尉に任命し、隙をついて呉郡を乗っ取ってしまったと見る事も出来るはずです。

ただし、別の記述では曹操の息が掛かった周喁を殺害した記述もなり、許貢の行動には一貫性がなく分かり難さがあります。

正史三国志には許貢伝があるわけでもなく、この辺りの経緯ははっきりとしません。

高岱の母親を捕える

許貢は呉郡を乗っ取りますが、高岱は盛憲を許昭の元に匿い難を逃れさせました。

さらに、高岱は自ら徐州牧の陶謙の元まで赴き、救援の使者となります。

高岱としてみれば、陶謙の力を借りて許貢を排除し、盛憲を呉郡太守の座に返り咲かせたいと思っていたのでしょう。

陶謙は194年に亡くなり、劉備が徐州牧になっている事から、許貢が呉郡太守の盛憲を追い出そうとしたのが、194年よりも前という事になります。

高岱はこの時に血の涙を流して訴えた事で、陶謙は感動し軍を送る約束をして、許貢には手紙を書きました。

しかし、許貢にとってみれば、高岱は不都合な行動をしており、高岱の母親を捕えました。

高岱は許貢に会いに行けば、殺害される可能性も高かったわけですが、許貢の前に出頭する事になります。

許貢はここで高岱と面会し、母親も釈放しました。

高岱が許貢をどの様に説得したのかは不明です。

しかし、許貢は高岱と母親を返してしまった事を後で後悔し、追手を差し向けています。

許貢は追手に「船に乗っている間に追いついたなら殺害し、江を渡ってしまったら引き返す様に」と命令しました。

許貢の追手は高岱に迫りますが、高岱は許貢の行動を読んでおり、あらかじめ張允(劉表配下の張允とは別人)らに船を用意させておいた事で逃げ延びる事が出来ました。

尚、後に許貢が孫策に殺害されますが、高岱もまた孫策により命を落しました。

周喁を殺害

会稽典録によれば、九江太守の周昂が袁術の攻撃を受け、周喁が救援に向かった話があります。

周喁は袁術との戦いに敗れ、郷里に戻りますが、会稽典録には許貢が周喁を殺害したとあります。

許貢は呉郡におり、隣の会稽郡に逃げてきた周喁を殺害したという事なのでしょう。

この記述を見ると、袁術に味方し曹操の息が掛かった周喁を討ち取った様にも見えます。

この辺りが許貢の分かりにくさでもある様に感じました。

朱治に敗れる

李傕らが呂布王允を打倒し、献帝を抑えました。

これにより李傕政権が誕生しますが、李傕らは馬日磾を関東の地に派遣し、諸侯を慰撫させています。

馬日磾は袁術がいる寿春に赴くと、朱治を自らの幕府の掾として、呉郡都尉としました。

袁術が孫策に兵を借り受け江東の制圧に乗り出すと、朝廷が任じた揚州刺史の劉繇を圧迫し、叔父の呉景を救いました。

さらに、袁術や孫策の息が掛かった朱治が呉に押し寄せてきたわけです。

正史三国志の朱治伝によれば、朱治の軍を許貢が由拳で迎え撃ちました。

しかし、許貢は朱治に大敗し、厳白虎の元に身を寄せる事になります。

朱治は呉郡都尉として呉郡に入ったわけですが、呉郡に入ると太守の職務を行いました。

これにより許貢は、呉郡を朱治に奪われてしまったと言えるでしょう。

許貢は厳白虎の元に身をよせたわけですが、厳白虎の勢力も孫策に敗れました。

孫策は会稽の王朗も破り短期間で江東を平定し、一大勢力を築く事になります。

許貢の最後

許貢は呉郡太守だった時代に、次の様に上表したとあります。

※江表伝より

孫策は武芸に秀でた英傑であり、秦末期の項籍(項羽)と似ております。

孫策には恩寵を加え都に召し返す様にするべきです。

詔を受ければ孫策は京邑に帰還しないわけにはいかないでしょう。

仮に地方に孫策を放置したとすれば、必ずや世の禍となります。

呉郡太守だった頃の許貢は、快進撃を続ける孫策に危機感を抱き、朝廷の力で孫策を揚州から切り離したいと考えたのでしょう。

許貢はを滅ぼし暴君と呼ばれた項羽の名を出し、孫策を排除しようとしました。

しかし、孫策の斥候が許貢の上表文を手に入れ、孫策に渡したわけです。

孫策は許貢に会見を申し入れ、上表文の内容で許貢を責めました。

許貢は「上表文など知らない」と弁明しますが、孫策はその場で、力の強い兵に命じて許貢を殺害しています。

これにより許貢は、最後を迎えますが、これが西暦200年の事だと考えられています。

許貢の食客

許貢は命を落しますが、ここで黙っていなかったのが許貢の食客です。

曹操と袁紹の間で官渡の戦いが起きた時に孫策は、陳登の打倒や許昌の襲撃の為に北上を志しました。

孫策は狩猟を好みましたが、高い身体的な能力を持ち合わせており、部下を引き離し単騎となってしまいます。

この時に江表伝によると、許貢の食客だった三人の者が現れ、韓当の部下を名乗りました。

孫策は「韓当の部下でお前たちの様な者を見た事がない」と答えると、許貢の食客の一人を弓で射ました。

残った許貢の食客二人は慌てて弓を射ると、孫策の頬に命中する事になります。

孫策の部下が到着し、許貢の食客二人は斬られてしまいますが、主人の仇である孫策に致命傷を与える事になります。

許貢の食客は命を賭して主君の仇を討ったと言えるでしょう。

孫策は于吉に祟られた話などもありますが、許貢の刺客により致命傷を受け最後を迎えたと感じました。

許貢の評価

曹操配下の郭嘉が、孫策に対し次の様に述べています。

※正史三国志郭嘉伝より

郭嘉「孫策は江東を征服したばかりで、殺害した者は全て英雄豪傑です。

それらの者達は、よく部下に死力を尽くさせるもの達でした」

郭嘉が孫策の死を予言した話なのですが、この中で殺害した者は「英雄豪傑」であり、「よく部下に死力を尽くさせる者たち」だったとあります。

これを見ると、許貢の部下(食客)に対しては、かなり面倒見がよく、江東では名前が通っており評価されていたのでしょう。

さらに、裴松之は次の様に語っています。

※裴松之の言葉

許貢の食客達は名もない様な身分低き者達だったが、許貢の厚遇に感じ入り義の為には命すら顧みなかった。

ためらう事もなく立派な行動を取ったのは、古の烈士とも比べられる存在である。

詩経に「上に立つ者に麗しい道があれば、卑しき身分の者もしれに従う」と。

許貢の食客も、これに当てはまる。

裴松之は許貢の食客を厚遇した事を称賛し、食客達もまた主人の仇を討った事を評価したわけです。

許貢の食客らが孫策を討った事で、孫権が後継者となりますが、呉は揺れてしまい名士の周瑜張昭が率先して、臣下の礼を取る事で安定させています。

それを考えれば、許貢の厚遇が食客を動かし、歴史を変えたとも言えそうです。

尚、裴松之は許貢の食客の事を古の烈士と呼んでいますが、史記の刺客列伝にも登場する豫譲荊軻、聶政らに匹敵する人物だと言いたかったのでしょう。

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